B0CNRG1JL7
通販CD→ソニー・ミュージックレーベルズ

ニューイヤー・コンサート2024-クリスティアン・ティーレマン、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

AmazonからCDを購入できます。
《ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート2024で初演奏された曲》

エドゥアルト・シュトラウス作曲 ポルカ・シュネル《ブレーキかけずに》作品238

Eduard Strauss: Ohne Bremse, Polka schnell, op.238(1886)

ヨハン・シュトラウス2世の末弟エドゥアルトは楽しく軽快なテンポの曲を多く作曲した。
鉄道をテーマにしたダンス曲は当時大人気だった。

シュトラウス・ファミリーが商標のごときにしていたワルツは、シンフォニックな序奏とそれに続く三拍子のワルツ、次々と美しいメロディーが表れ展開されて、最後にコーダで締めくくられるもので、ヨハン・シュトラウス2世が得意としていた音楽様式でした。
クラシカルスタイルの変奏曲や、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトが転調で一曲の中で音楽の表情を変える、変味とも違い。ヨハン・セバスティアン・バッハが定着させた作曲の技法を逸脱する、ポプリ様式のワルツが大人気になります。
もちろん、カール・マリア・フォン・ウェーバー、エクトル・ベルリオーズ以降のワルツ。特別フレデリック・ショパンの19曲のワルツは異なるものです。

ファミリー・ヒストリーに終止符を打った、はずだったが ― 末弟エドゥアルトの思惑と、思わぬ顛末

ウィーンの陶器工場に大量の楽譜が運び込まれた。そして、次々と轟々と炎を上げる窯炉に投げ込まれていった。時は1907年10月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、伝統的なウィンナ・ワルツを作曲したヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(Joseph Hellmesberger, Jr., 1855.4.9〜1907.4.26)の訃報がウィーンにもたらされた頃。ウィーンで最も有名な音楽家の末弟、エドゥアルト・シュトラウスが、シュトラウス一家がオーケストラの演奏に使用してきた楽団所有の楽譜を持ち込んで、窯炉で焼却処分した。8年前に亡くなったヨハン・シュトラウス2世の自筆譜を始め、その総量は包みにして2,547個、枚数にして70万枚から100万枚にも及んだ。
エドゥアルトは、椅子に座っていらいらして目を背けたり、事務所との間を往復したりしながら、5時間かけて焼却に立ち会ったという。この日、1000曲を超えるシュトラウス一家のオリジナル作品の自筆譜や、他の作曲家(ジャコモ・マイアベーア、ジュゼッペ・ヴェルディ、リヒャルト・ワーグナー、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フェリックス・メンデルスゾーンら270人以上)の編曲譜が処分された。
当時の批評家はこのエドゥアルトの行為について、「彼はウィーンの歴史の一片を灰にしてしまった。比類なき音楽の宝物を、彼の生まれたウィーンから盗みとってしまったのだ」と痛烈に批判した。
前年の1906年、音楽家生活の回顧録『回想』を出版した。この本によれば、エドゥアルトは1869年に次兄ヨーゼフと「社会契約」という名の約束を交わしたという。
その内容は、二人のうちの生き残ったほうは、未亡人の生活を支援することを条件に、故人のあらゆるオーケストラ用楽譜や音楽資料の演奏・所有の権利を獲得する。そして音楽活動をやめる際には、それらが第三者の手に渡るのを防ぐためにすべて破棄する、というものであった。
ヨーゼフ・シュトラウスは1870年7月22日楽旅で訪れたワルシャワで謎の死を遂げていた。

エドゥアルトの栄誉を掠め取る兄と、シュトラウス楽団を「過去の遺物」と批判したヨハン2世死後の音楽ジャーナリスト。

シュトラウス楽団は4兄弟の父ヨハン・シュトラウス1世以来70年以上にわたって続いてきた。ヨハン・シュトラウス2世が1899年6月に死去すると、末弟エドゥアルト・シュトラウスは翌1900年12月、作品番号がちょうど300となることを節目に引退を表明する。
父の命令によって弁護士の道を歩まされそうになったこともあるが、高校時代にラテン語とギリシア語を学び、さらにフランス語、イタリア語、スペイン語なども習得し、非常に語学に優れていたことから、外交官となることを目指した。
エドゥアルトは、父親ヨハンの顔をほとんど知らないで育った。1835年3月15日、音楽家ヨハン・シュトラウス1世の4男として生まれたが、当時、父は愛人エミーリエ・トランプッシュとの同棲を始め、ほとんど本宅には寄り付かなくなっていた。エドゥアルトの誕生から2か月後には父ヨハンと愛人エミーリエの間に第1子が生まれており、その後もエミーリエは立て続けにヨハン1世の子供を産み、エドゥアルトには腹違いの弟妹が8人いました。
兄ヨハンとは10歳違い。1848年革命に際しては、ヨハン2世は東欧への演奏旅行に行っていた。まだ13歳であったエドゥアルトは母アンナとともに修道院に避難していた。彼にとっての父親はヨハン・シュトラウス2世だった。

シュトラウス家の「第三の矢」、末弟エドゥアルトのポルカ

父ヨハンは厳格な人間であった。父ヨハンは自身の率いる「シュトラウス楽団」において、賃金、練習時間、演奏活動など、あらゆることを思いどおりにしており、逆らう者は即刻解雇にした。その多忙さから父は、自宅には寝に帰るか、仕事を片付けに立ち寄るだけであった。
父ヨハンは音楽家が浮き草稼業であることを知っていたので、息子たちを音楽家にだけは絶対にさせるつもりはなかった。息子たちが楽器に触れることを固く禁じたが、市民の教養として日常的に行われていたピアノの練習だけは例外的に認められていた。
シュトラウス家には父ヨハンのリハーサル場があり、そこからは演奏の音がよく漏れていた。それを注意深く聴きとって、ヨハンは弟ヨーゼフと連弾して遊んでいた。カール・コムザーク2世やヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世のように宮廷音楽家の息子が父親から手ほどきを受けたのと同じ、自然な成り行きだ。自分の誕生時にはすでにウィンナ・ワルツの作曲家として著名だった父ヨハンに影響を受けて、ヨハン2世は音楽家に憧れるようになった。
幼少期のヨハンは、6歳の時に祖父の家の小さな卓上ピアノで、36小節のみからなるワルツを作曲し、アンナがそれを譜面に写し『最初の着想』と名付けた。また、5分で曲を作ってヨーゼフに歌わせたこともある。
父から許されたピアノを弾くだけでは到底満足がいかなかった。わずか8歳の時に、同じアパートに住む14歳の少女と近所の裁縫師の息子をピアノの弟子とし、授業料を取るようになった。音楽家に憧れるようになったのが、純粋に作曲家志望だったのかはわたしは引っかかりを覚える。
当時の法律により、音楽家になるには20歳以上でなければならなかったが、当時ヨハンはまだ18歳であった。そこでヨハンは役所に行き、「父親が家庭を顧みないために生活が苦しく、私ひとりで母や弟の面倒を見なければならないのです」と涙ながらに訴えた。有名人の息子の願い出に対し、ついには頑固な役人も首を縦に振った。
おまけに、家族を助ける青年音楽家という美談がウィーンに広まり、ヨハン2世の印象を良いものにしてくれた。デビューコンサートは10月15日ときまった。ヨハン2世はこのデビューコンサートによって、指揮者・ヴァイオリン奏者・作曲家としての才能を自らが備えているということを公衆の前で証明してみせた。こうして父とはライバル作曲家となり、シュトラウス親子は同じオペラに基づく楽曲をそれぞれ作曲した。これらはいずれもカドリーユであることから、「カドリーユ対決」と呼ばれる。
1849年、父ヨハン1世が死去する。ヨハンはシュトラウス楽団を自分の楽団に吸収した。こうして名実ともに手に入れたシュトラウス楽団は一時期200人を超える大所帯だったという。ただし、ヨハン1世が務めていた宮廷舞踏会音楽監督の役職は、ヨハン2世が引き継ぐことは叶わなかった。
1851年秋、フランツ・ヨーゼフ1世の命名日を祝う式典に便乗して、カドリーユ『万歳!』を作曲し、皇帝に献呈した。1853年に皇帝襲撃事件に際しては『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』を作曲し、皇帝の婚礼に際しては『ミルテの花冠』を作曲するなど、ハプスブルク家との結びつきを次第に強めていった。こうしてヨハンは宮廷での仕事も持つようになった。それでも宮廷舞踏会音楽監督には1863年まで就任させてもらえなかった。
ヨーゼフが人生の進路を変えさせられたように、兄のヨハン2世は、半ば強引にエドゥアルトを音楽家の道に引きずり込もうとした。当時弾き手の少なかったハープや通奏低音、ピアノとヴァイオリンを学ばせ、1855年2月11日、兄の率いるシュトラウス楽団でハープ奏者としてゾフィエンザールでデビューを飾った。
「ハンサム・エディ」と呼ばれたエドゥアルトは、1861年に指揮者デビューを果たし、それ以降はシュトラウス家の3兄弟がともに指揮台に立ちながら、父ヨハン1世(1804〜49)の創設したシュトラウス楽団を率いていきます。
次男ヨーゼフ(1827〜70)の没後は、苦労して手に入れた宮廷舞踏会音楽監督の地位を1871年1月に末弟エドゥアルトに譲って、ヨハン2世は新しいダンス音楽をほとんど書かなくなった。200人を超える大所帯だったという楽団員には生活がある。以降30年、エドゥアルトが1901年の解散までシュトラウス楽団の指揮を担当しました。
エドゥアルトはシュトラウス楽団の頂点に君臨することとなった。それなのに、兄ヨハンは、演奏会のクライマックスに突然登場して、エドゥアルトに代わって指揮をすることもあった。また、エドゥアルトが引き受けるべき栄誉ある仕事を、ヨハンは平気で赤の他人に与えてしまうこともあった。1873年に開催された万国博覧会での万博会場での演奏会では、エドゥアルトの楽曲は全く演奏されませんでした。これらの兄の無神経な行動にエドゥアルトは激しい怒りを抱いていたという。
エドゥアルト・シュトラウスは、帝国および王室の宮廷舞踏会音楽監督に任命されたにもかかわらず、多くの中流階級の団体が開催する舞踏会の音楽も作曲しました。
彼のポルカ・シュネル(軽快な速いテンポのポルカ)「Ohne Bremse( ブレーキがかからない)」は、1885年に楽友協会の鉄道従業員舞踏会で初めて演奏され、観客の拍手はやまず何度もアンコールに応えました。

この題名は鉄道と切っても切れないと思われます。しかし、1885年2月5日にゾフィーエンザールで開かれた鉄道舞踏会で初演されたと演奏記録に記されている曲は、唯一、楽団長クラールのポルカ・シュネル〈3つめの鐘の音〉op.96だけで、エドゥアルトの名も、シュトラウス楽団の名も記されていません。
ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート2024の放送でのNHKの字幕は、〝鉄道をテーマにしたダンス曲は当時大人気だった。〟と簡素なものでしたが、ウィーン・フィルがメディアに提供しているプレスには好評ぶりが記されている次第です。かようにこの曲は作曲の経緯と初演がわかりません。初版は1886年。演奏記録は1885年12月8日にリンツのフォルクスガルテンで第84歩兵連隊ヘッセン大公によると記されています。しかも、演奏団体がシュトラウス楽団でなく、演奏地がウィーンではない点に疑問が残ります。
シュトラウス楽団の大量の楽譜を焼却処分して、エドゥアルトが終止符を打ちたかった懐い。ところが、息子たちを浮き草家業である音楽家だけには絶対したくなかった父親の考えに対して、シュトラウス楽団を率いて70年以上続けた3兄弟と同じことが、エドゥアルトの身にも起こります。エドゥアルトが解散したシュトラウス楽団が、ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団として再興、現在も世界中で演奏会を開いているのです。
  • 演奏:クリスチャン・ティーレマン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 録音:2024年1月1日ウィーン、ムジークフェラインザールでのライヴ・レコーディング
  • 曲目
    1. カール・コムザーク:アルブレヒト大公行進曲 作品136★ニューイヤー・コンサート初演奏の作品
    2. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「ウィーンのボンボン」 作品307
    3. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・フランセーズ「フィガロ・ポルカ」 作品320★ニューイヤー・コンサート初演奏の作品
    4. ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世:ワルツ「全世界のために」★ニューイヤー・コンサート初演奏の作品
    5. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル「ブレーキかけずに」 作品238
    6. ヨハン・シュトラウス2世:オペレッタ「くるまば草」序曲
    7. ヨハン・シュトラウス2世:「イシュル・ワルツ」遺作ワルツ 第2番★ニューイヤー・コンサート初演奏の作品
    8. ヨハン・シュトラウス2世:「ナイチンゲール・ポルカ」 作品222★ニューイヤー・コンサート初演奏の作品
    9. エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・マズルカ「山の湧水」作品114
    10. ヨハン・シュトラウス2世:「新ピチカート・ポルカ」作品.449
    11. ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世:バレエ「イベリアの真珠」から「学生音楽隊のポルカ」★ニューイヤー・コンサート初演奏の作品
    12. カール・ミヒャエル・ツィーラー:ワルツ「ウィーン市民」 作品419
    13. アントン・ブルックナー:カドリーユ WAB 121 [管弦楽編曲W. デルナー]★ニューイヤー・コンサート初演奏の作品
    14. ハンス・クリスティアン・ロンビ:ギャロップ「あけましておめでとう!」★ニューイヤー・コンサート初演奏の作品
    15. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「うわごと」 作品212
  • 2019年以来2度目の登場になるクリスチャン・ティーレマン。名実ともにドイツ音楽の世界的巨匠と目されるティーレマンが、気心知れたウィーン・フィルから重厚かつしなやかで個性の強い音楽づくりで、躍動するワルツとポルカを描き出す。今年は定番の「美しく青きドナウ」「ラデツキー行進曲」などに加えて、2024年に生誕200年を迎えるブルックナーの作品が含まれ、新鮮味十分です。
関連記事とスポンサーリンク