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GB COLUMBIA 33CX1318,1319,1320 マリア・カラス リチャード・タッカー フェードラ・バルビエリ ティート・ゴッビ ジュゼッペ・モデスティ フランコ・リッチャルディ ニコラ・ザッカリア エルヴィラ・ガラッシ トゥリオ・セラフィン ミラノ・スカラ座管弦楽団 ミラノ・スカラ座合唱団 ヴェルディ/「アイーダ」全曲

  • Record Karte
  • GB ブルー&ゴールド, 1955年の優秀録音です。
    • アイーダ:マリア・カラス(ソプラノ)
    • ラダメス:リチャード・タッカー(テノール)
    • アムネリス:フェドーラ・バルビエリ(メゾ・ソプラノ)
    • アモナスロ:ティト・ゴッビ(バリトン)
    • ランフィス:ジュゼッペ・モデスティ(バス)
    • エジプト王:ニコラ・ザッカリア(バス)
    • 巫女の長:エルヴィラ・ガラッシ(ソプラノ)
    • 使者:フランコ・リッチャルディ(テノール)
    • トゥリオ・セラフィン(指揮)
    • ミラノ・スカラ座合唱団&管弦楽団、合唱指揮:ノルベルト・モーラ。
    • 1955年8月10〜12, 16〜20, 23 & 24日ミラノ、スカラ座でのセッション録音。プロデューサー:ウォルター・レッグ、録音エンジニア:ロバート・ベケット。
《鶴屋百貨店「イタリア展」(2025年5月1日〜12日開催)》便乗優秀録音レコメンド、イタリアを耳で感じる100年名盤セレクション

カラスのドラマティックな迫力のある歌唱とセラフィンの老練な指揮で聴くヴェルディの傑作。

  • ― 世紀のディーヴァ、マリア・カラスが亡くなってから、もう40年が経つ。1977年に53歳で世を去ったカラスの芸術家としての重要な部分は、1951年から52年にかけてミラノ・スカラ座でシーズン・オープニングを飾ってからの10年間に凝縮されています。1965年にオペラの舞台から退いたのは42歳だった。カラスの生涯はみにくいあひるの子が白鳥となり、歌に生き愛に生きたと 言えるのではないでしょうか。カラスは歌劇における演技力、役の心理の理解に優れた歌手だった。役中人物になりきって歌うカラスは想像以上に美しく激しかった。母親はカラスを歌手に育てることが夢で、娘の声に栄養を与えるためにとケーキや砂糖菓子など甘いものをなんでも与え、カラスはまるまると肥った少女になり育ちます。美声は脂肪をつけないと育たないという俗説のため、そしてレッスンに追われた日々はカラスから子ども時代を奪い、これらは、成功をつかもうとあがく時代になってカラスのトラウマになりました。恩師エルビラ・デ・イダルゴとの出会いは必然としても、世界に認められる歌手になるためにはイタリアに行かなければならないとイダルゴは繰り返し諭していました。機会ができヴェローナ歌劇場でのデビューが決まったのは、1947年カラス23歳の時でした。イタリアオペラの著名な指揮者トゥリオ・セラフィンは、イタリアにおいて初めてカラスの才能を認めた人物でした。カラスはセラフィンの目に留まり、その庇護と指導によって伝説的な歌姫へと成長する。こんにちの指揮者には、ほとんど見ることの出来ない態度ですがセラフィンは、指揮台の上の大スターではありませんでしたがオペラの各役柄の演奏についてじっくり熟考し、時間をかけてそれを円熟させていくことが出来たひとりでした。声の何たるかを知り、声がどう使われるべきかを知り演奏に関するさまざまなアイデアをもち、歌手が彼のもとへ楽譜をもっていくと、より豊かになって帰ってこられるような指揮者であり、カラスにとって芸術上の師であった。セラフィンは、カラスの声をきわめて簡潔に語った最初の人間かもしれない。カラスの声を美しいと思うか、美しくないと思うかと質問されると彼は即座に言った。「どの声だね?ノルマ、ヴィオレッタ、それともルチアかな?メデア、イゾルデ、アミーナの声もあった ― ほかにもまだある。なにしろ、彼女の声は役ごとにちがっていたからね。私は、カラスの声を何種類も知っている。彼女の声が美しいか美しくないかなんて、考えたこともないよ。私にわかるのは、それがつねに申し分のないものだったということと、単に美しいだけではないということだけだ。」カラスは豊かな美声に恵まれた幸せな歌手と言うよりも、まず演じることの天才であったらしい。彼女の、生身の人間ドラマとして聴く者の心に迫る表現力は、録音された音楽を通してカラス没後も多くの人に伝わり新たなファンを獲得し続けている。

ディーヴァ ― 不世出のソプラノ

舞台ではいつも新しいものを求めなくてはなりません。その方がよりリアルです。私はいつも同じようには動かないので、二つと同じ舞台はありません。署名と同じで、二つと同じものはないのですが、それはいつも「マリア・カラス」なのです。
  • マリア・カラス(Maria Callas)は1923年12月2日、ニューヨーク生まれのソプラノ歌手。1977年9月16日、パリにて没。
    13歳で故国ギリシャに帰り、アテネ音楽院で名歌手、エルビラ・デ・ヒダルゴに師事。1938年にオペラ・デビューし、1947年、ヴェローナ音楽祭でのアミルカレ・ポンキエッリのオペラ「ラ・ジョコンダ」のタイトルロール役で一躍注目を浴びる。1950年のスカラ座デビューから約10年間が全盛時代。リヒャルト・ワーグナーのドラマティックな役と、ベル・カント・オペラの両方の分野で成功を収め、不世出のソプラノ歌手として名を残した。
  • 42歳だった1965年にオペラの舞台から退いたが、1969年に映画『王女メディア』に主演したほか、舞台演出、音楽院の講師を務め、1973~74年に世界各地でフェアウェル・コンサート・ツアーを行った。
  • オペラ歌手としての充実した活動期間は短く、1951年からの7年間が全盛期、歌声に波があった1960年代まで含めても10数年にすぎなかった。早すぎる衰えは、若い頃に難曲で喉を酷使したため、あるいはダイエットのせいとも不摂生のせいともいわれる。
  • 全盛期のモノラル録音と比べスタジオでセッション録音されたステレオ録音の歌唱には年齢的に最盛期とは、もはや言えないし声の変化はいかんともしがたいものがありますが、それを超越した表情づけのこまやかさ、心理描写の絶妙さは、精妙な構成力が際立った歌唱になっていきます。
  • ドラマに対する類まれな冴えた感覚と、それに完璧に連動する歌唱力を持ち合わせていた稀代の名歌手カラスは、1953年のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』からのマイク・テストから、レッシーニョとの1960年台の録音まで、キャリアのほとんどの期間でEMI専属の歌手としてジョルジュ・プレートル、トゥリオ・セラフィン、ガブリエーレ・サンティーニ、ヴィクトール・デ・サーバタ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、アントニーノ・ヴォットー、ニコラ・レッシーニョ、アルチェオ・ガリエラらとレコーディングを行っていました。
  • カラスの歌手生活に大きな影響を与えるセラフィンは、聴き応えあるレコードを残す上にも非常に重要な人物になりました。ソプラノとして最高の時期にいた唯一無二のディーヴァによる名唱をウォルター・レッグのプロデュースで録音しています。往年の舞台姿を彷彿する、それらは時期を開けて1958年から1969年まで丁寧な選曲でセッションが組まれました。

トゥリオ・セラフィン(Tullio Serafin)

  • 餅は餅屋で … というわけで、イタリアには「イタリア・オペラしか指揮しない指揮者」が大勢存在する。イタリア・オペラの泣かせるメロディをイタリア人指揮者が流麗華麗に歌わせる。その歴代最高の指揮者がトゥリオ・セラフィン(Tullio Serafin)である。1878年9月1日、ヴェネツィア近郊のロッタノーヴァ生まれの指揮者。1968年2月2日、ローマで没。
  • ミラノ音楽院を卒業後、スカラ座のヴィオラ奏者を務める。1898年、フェラーラのテアトロ・コムナーレで指揮者としてデビュー、1909年にはミラノ・スカラ座の首席指揮者、音楽監督に就任する。1924年からメトロポリタン歌劇場で10年間は活躍したが、1934年からは再びイタリアに戻ってローマ歌劇場の音楽監督を務める。20世紀最高のイタリア・オペラ指揮者として広く認められており、多くの名歌手を育てることにも優れた手腕を発揮した。セラフィンの棒による演奏はイタリアの風土、イタリア人の体臭が匂い立つ。「ヴァイオリンがすすり泣く」とは、このことかと誰もが、そのドラマ性あふれる演奏に驚嘆し、一瞬の「間」に息を呑む。そして「ただの美しさ」とは異なる、身もだえするような美しさの虜になるに違いない。一度ヴェルディのオペラ『椿姫』の前奏曲(第1幕・第3幕)を指揮した彼の録音を聴いてほしい。一瞬たりとも音楽が弛緩することなく、歌手たちの歌も丁寧に引き立てていきます。イタリアにおいて初めてマリア・カラスの才能を認めた人物でした。こんにちの指揮者には、ほとんど見ることの出来ない態度ですがセラフィンは、指揮台の上の大スターではありませんでしたがオペラの各役柄の演奏についてじっくり熟考し、時間をかけてそれを円熟させていくことが出来たひとりでした。声の何たるかを知り、声がどう使われるべきかを知り演奏に関するさまざまなアイデアをもち、歌手が彼のもとへ楽譜をもっていくと、より豊かになって帰ってこられるような指揮者であり、カラスにとって芸術上の師であった。セラフィンは指揮者となる前、スカラ座管弦楽団のヴァイオリン奏者だった。声楽家ではない。にもかかわらず、人間の声というものを熟知し、1人1人の歌手について、どのようにトレーニングし、どのような曲をレパートリーにし、どのように歌うのがいいかということを見極めることが出来た。30歳前後でオペラ指揮者アントニオ・ヴォットーからトレーニングを受け、「椿姫」を録音したレナータ・スコットが1950年代と60年代には、ヴォットーのほかにも、セラフィンを筆頭にグイ、ガヴァゼーニなどの偉大なオペラ指揮者がいて、その誰もがまるで〈父のよう〉に歌手を愛し、歌手が傷つかないように護ってくれました。彼らは歌手に間違った役柄を押し付けるどころか、けっして歌わせず、適正な役柄さえ、あまり早いうちには歌わせなかったものです。そして私たちに指導してくれる時にはテンポだの、『私についてくるように』ではなく、表現や言葉の意味について教えてくれたものです。と回想している。

ヴェルディは『アイーダ』でオペラの作曲を引退すると決めていた。

  • ワーグナーの遺灰を継ぐ如く晩年の作風、ワーグナーから発達したドイツ音楽が提示するシンフォニズム理論に対するイタリア側からの回答となった。

  • ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)はイタリア歌劇最大の作曲家。パルマ地方のロンコーレという寒村の小さな宿屋の息子として生まれ、15歳で作曲をはじめ、18歳の時すすめられてミラノ音楽学校の給費生を受験したが年齢が多すぎたため落第し、スカラ座のチェンバリストのラヴィナから作曲とピアノそれにソルフェージュを学んだ。26歳のときスカラ座で上演された最初の歌劇「オベルト」を皮切りに25曲の歌劇を書いた。最初はなかなか認められず、彼の名声が確立したのは、33歳に書いた「リゴレット」、40歳の「トロヴァトーレ」と「椿姫」などが相次いで発表されてからである。彼は大器晩成型で、それからさらに49歳で「運命の力」、54歳で「ドン・カルロ」、58歳で「アイーダ」、73歳で「オテロ」そしてなんと79歳で「ファルスタッフ」を完成している。実は、ヴェルディは、『アイーダ』でオペラの作曲を引退すると決めていました。『仮面舞踏会』の初演(1859年)から2年が経過し、ヴェルディは作曲をまるで忘れたかのようであった。新たに創設されたイタリア国会において彼はボルゴ・サン・ドンニーノ ― 今日のフィデンツァ ― 代表の議員であったし、またサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の農園に各種の近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた。しかし、まさにその農園改造計画への資金の必要も一因となり、折しも、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場のために新作オペラを作曲してもらえないだろうか、という打診がもたらされた。そこで『運命の力』は着手され、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて1862年11月10日に初演された。その後、「ドン・カルロ」、「アイーダ」の成功で農園改造計画への資金の必要も目処が立ち、「アイーダ」の作曲と上演準備の一方で喜歌劇を作曲しようと台本探しに熱中していた。農場経営も順調そのもので、買い増した土地は当初の倍以上になり、雇う小作人は十数人までになった。パリではレジオンドヌール勲章とコマンデール勲章を授かり、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。そのため納税額の多さから上院議員に任命されるが議会には一度も出席せず、自らが設計し増築を繰り返して大きくなった邸宅で、自家製のワインを楽しみ、冬のジェノヴァ旅行も恒例となった。慈善活動には熱心で奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んだ。
  • その頃に彼は、ほとんど音楽に手を出さず、「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。彼が音楽の世界に戻るのは1879年になる。11月、農場に届いたボーイトの台本『オテロ』に、ヴェルディは興味をそそられるが作曲は難航。「シモン・ボッカネグラ」、「ドン・カルロ」の改訂に忙殺していた1883年2月にワーグナーの訃報が届く。彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーにヴェルディはライバル心をむき出しにすることもあったが、その才能は認めていた。そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せなかった。「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残すほどヴェルディは沈んだ。ワーグナーの遺灰を継ぐ如く、作業にも拍車がかかり丸7年の期間をかけた『オテロ』は完成。喜劇に手を染めたことのなかったヴェルディに、「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と度々のボーイトの誘いにヴェルディは乗った。ヴェルディ集成の「オテロ」と「ファルスタッフ」は、ワーグナーが半音階の大悲恋楽劇「トリスタンとイゾルデ」と、ハ長の喜劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を対にしていることに重なる。『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示するシンフォニズム理論に対するイタリア側からの回答となった。そしてヴェルディが目指した劇と曲の融合は喜劇においても健在で、作風はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、『ファルスタッフ』は形式に拘らず自由で気ままな作品に仕上げた。ヴェルディのすべてを投入した感がある。アンサンブルは多種多様で、対位法も2幕のコンチェルタートで複雑なポリフォニーを実現した。最後には喜劇に似つかわしくないフーガをあえて用いながら、太鼓腹の主人公に「最後に笑えばいいのさ」と陽気に締めくくらせた。むしろ圧倒するよりも機微に富んだ雰囲気を帯びて繊細さが増した。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。

ヴィンテージレコードの写真

  1. 3132040
  2. 3132041
  3. 3132042
  4. 33CX1318

プロダクト・ディテール(オリジナル盤)

  1. レーベル
    COLUMBIA
  2. レコード番号
    33CX1318, 33CX1319, 33CX1320
  3. 作曲家
    ジュゼッペ・ヴェルディ
  4. 楽曲
    歌劇「アイーダ」全曲
  5. 演奏者
    • アイーダ:マリア・カラス(ソプラノ)
    • ラダメス:リチャード・タッカー(テノール)
    • アムネリス:フェドーラ・バルビエリ(メゾ・ソプラノ)
    • アモナスロ:ティト・ゴッビ(バリトン)
    • ランフィス:ジュゼッペ・モデスティ(バス)
    • エジプト王:ニコラ・ザッカリア(バス)
    • 巫女の長:エルヴィラ・ガラッシ(ソプラノ)
    • 使者:フランコ・リッチャルディ(テノール)
    • ミラノ・スカラ座合唱団(合唱指揮:ノルベルト・モーラ)
  6. オーケストラ
    ミラノ・スカラ座管弦楽団
  7. 指揮者
    トゥリオ・セラフィン
  8. 録音年月日
    1955年8月10〜12, 16〜20, 23&24日
  9. 録音場所
    ミラノ、スカラ座
  10. 録音プロデューサー
    ウォルター・レッグ
  11. 録音エンジニア
    ロバート・ベケット
  12. 録音種別
    MONO
  13. 製盤国
    GB(イギリス)盤
  14. レーベル世代
    ブルー&ゴールド


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Rossini/Donizetti: Arias
Callas, Maria
Warner Classics
2014-10-21


ヴェルディ・アリア第1集
カラス(マリア)
ワーナーミュージック・ジャパン
2014-11-26


ヴェルディ:歌劇「アイーダ」全曲
EMIミュージック・ジャパン
2002-07-26


リリック&コロラトゥーラ・アリア集
カラス(マリア)
ワーナーミュージック・ジャパン
2014-11-26


プッチーニ:歌劇「トスカ」全曲(1964-65年録音)
カラス(マリア)
ワーナーミュージック・ジャパン
2015-09-02


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