DE EMI EL27 0364

Olaf Bär - Geoffrey Parsons - Schumann - Dichterliebe, Liederkreis,Op.39

34-14733
  • Record Karte
  • 独ラージ・ドッグ・セミサークル黒文字盤[オリジナル]
    • 1986年リリース、1985年7月12〜14日ロンドン、アビー・ロード第1スタジオでの録音。
    • Producer – David R. Murray, Engineer – Stuart Eltham.
瑞々しい抒情に溢れた傑作歌曲集を細かなニュアンス、深い陰影に満ちたよく考え抜かれた歌唱を聴かせてくれる。そしてなによりも若々しい青春の息吹きがある。
東ドイツが生んだ素晴らしい歌い手(吉田秀和) ― 恋や失恋など過ぎ去った青春の日々の回想が綴られ、歌とピアノが渾然一体となったドイツ・リートの最高傑作として知られる《詩人の恋》。自然のなかで愛や苦悩、憧憬や心の静寂が歌われる《リーダークライス》。「歌の年」と称される1840年に誕生した、シューマンの珠玉のような歌曲集を収めた一枚です。〝フィッシャー=ディースカウの再来〟〝現代最高のドイツ・リートの歌い手〟だとドイツ・リート界を牽引していく後継者として期待されたオラフ・ベーアの〝本邦デビュー盤である。1957年生まれの東ドイツのホープだ〟ったのが懐かしく思い出される。ドイツ・リート(ドイツ語歌曲)を世界に広め、前代未聞の業績を成し遂げた偉大なバリトン、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、1925年生まれの彼は全盛を超え、後継者が待ち望まれていました。そこへ彗星のように登場したのがベーアです。本邦デビューと紹介された当時30歳を目前とした彼の13歳の時の歌声は、オペラファンはよく知っている。ドレスデン生まれのベーアはドレスデン・クロイツ合唱団員としてオトマール・スイトナー指揮ドレスデン・シュターツカペレが1970年6月にレコーディングした、モーツァルトの歌劇『魔笛』で三人の童子の童子1を歌っていたのを印象に残しているでしょう。これは冒険のない安定した配役によるアンサンブル、解釈も正当で初めて聴いた人にも理解できるほど非常に分かりやすい『魔笛』の基本盤だ。少年合唱はオペラのローカル色を引き立てるが、本盤でも際立っていたドイツ語の発音の美しさも相変わらずで、言葉の比重の大きいシューマンを歌う時に、この特質が大きな強みになっている。文学に造詣が深く、文筆業にも精を出していたシューマンは歌曲や合唱曲などテキストを用いた作品を数多く作曲しており、それらはどれも文学と音楽が深いところで結合していると絶賛されています。『詩人の恋』『リーダークライス』『女の愛と生涯』『ミルテの花』といったリートの傑作を中心にするシューマンの傑作歌曲集で、ベーアが選んだ瑞々しい抒情にあふれたハインリヒ・ハイネの詩による《詩人の恋 作品48》、ドイツ・ロマン派の詩人ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詩による《リーダークライス 作品39》。この2曲を細かなニュアンス、深い陰影に満ちたよく考え抜かれた歌唱を聴かせてくれる。彼は歴代の名歌手たちのような達者で時に饒舌とも思えるような豊かな声量で聴かせるタイプではないので、巨大なコンサートホールで聴くよりも録音でその良さを発揮するように思える。誠実で献身的な心を歌うベーアには、一途な男の魅力が充ち満ちています。一旦この直向きさに触れたらフィッシャー=ディースカウよりも、ことシューマンのロマンティックな世界を見事に描き出しているように思える。そしてなによりも本盤には若々しい青春の息吹きがある。
ロベルト・シューマン(1810〜1856)の作品と、その作曲年代を概観してみると、まず最初に気づくことは各ジャンルの作品が、ある一定の年に集中していることである。例えば彼の多くの歌曲は1840年に作曲されており、その年は「歌曲の年」とも呼ばれている。また1841年には「春」("Frühling")の名前で親しまれている交響曲第1番をはじめとする彼の管弦楽作品の代表的なものが集まっている。さらに彼の代表的な室内楽の作品は1842年に集中しており、その年は「室内楽の年」とも呼ばれている。もちろん例外もいくつかあるのだけれど。シューマンのこうした集中攻撃的な才能の爆発の仕方は彼の音楽全体の在り方を考えるうえで、極めて興味深いことであるといえよう。そのようなことと比較すると、彼の音楽の代表的分野であるピアノ作品は、ある一定の年に集中するということが、どちらかといえば少ない。彼の生涯を通して、ピアノ作品は殆どいつでも作曲されていたという傾向が強い。最晩年になると作品も少なくなってくるが、それは彼の病と無関係ではないのだろう。こうした事実は、シューマンのピアノという楽器に対する特別な愛着を端的に物語っているということが出来るだろう。ピアニストを目指して、指を痛めてしまうまで猛練習を繰り返した若き日から、シューマンにとってピアノという楽器は他の何にもまして身近なものとして、彼に寄り添っていたのだった。作曲家としてのシューマンの内実をピアノ以上に雄弁に語った楽器はなかったといっても、決して誇大な表現となることはないのである。
ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。ロベルト16才の年にその父親が亡くなり安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。
1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。しかし、1853年11月には楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことでブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。このブラームスの出現は晩年のシューマンにとって音楽の未来を託すべき希望であったとされていますが、一方では妻クララとの不倫疑惑に悩まされるという相反する感情を生じてしまい、この希望と絶望が、シューマンの精神に決定的なダメージを与えたとされています。1854年に入ると病は著しく悪化、2月27日、ついにライン川に投身自殺を図ります。一命をとりとめたものの、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容され回復しないまま、1856年7月29日にこの世を去りました。精神病院で常に口にし、また最後となった言葉は「私は知っている。(Ich weis)」であったと言われています。作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のフレデリック・ショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、エクトール・ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、フランツ・シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」ハ長調交響曲『グレート』を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。
  • オラフ・ベーア シューマン・リーダークライス EMI EL27 0364
  • オラフ・ベーア シューマン・リーダークライス EMI EL27 0364
  • EL27 0364

プロダクト・ディテール(オリジナル盤)

  1. 演奏者
    • オラフ・ベーア(バリトン歌唱)
    • ジェフリー・パーソンズ(ピアノ伴奏)
  2. 作曲家
    ロベルト・シューマン
  3. 曲目
    歌曲集「詩人の恋」「リーダークライス」
  4. 録音年月
    1985年7月12〜14日
  5. 録音場所
    ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ
  6. 録音チーム
    Producer – David R. Murray, Engineer – Stuart Eltham.
  7. レーベル
    EMI
  8. レコード番号
    EL27 0364
  9. 録音種別
    STEREO
  10. 製盤国
    DE(ドイツ)盤
  11. 製盤年
    1986
  12. レーベル世代
    LARGE DOG IN SEMI-CIRCLE" WITH BLACK LETTERING
  13. レコード盤重量
    120㌘.
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