モントゥー十八番の「幻想交響曲」、老練の技の到達点を象徴するウィーン・フィルとの名演奏。
JP VICTOR/RCA SA7001-6 ピエール・モントゥー ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ベルリオーズ 幻想交響曲
日本ビクター社製国内初出→溝有盤 重量盤170㌘ 米RCA同一スタンパー使用
名曲
定番
パリに生まれ、1911年から1914年まで伝説的なバレエ団「バレエ・リュス」の指揮者を務めており、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』『春の祭典』、モーリス・ラヴェルの『ダフニスとクロエ』など数々の20世紀名作バレエの初演を振った指揮者、ピエール・モントゥーの指揮は音楽の瑞々しい推進力と華麗な色彩、ダイナミックな迫力にみち同時に豊かなニュアンスに彩られています。定番
エクトール・ベルリオーズの『幻想交響曲』。オリジナルは英DECCA発売ですが、アメリカRCAとイギリス・デッカが業務提携していた時代の録音です。この50年代後半のデッカ録音は優秀です。1958年のステレオとは信じがたいほど鮮明で瑞々しいものです。一つ一つの楽器の響きがクリアにとらえられているだけでなく、それらが広い会場全体によくとけ合っていて、昨今の録音と比べても遜色がありません。
日本国内盤の発売は、イギリス・デッカ録音はロンドンレコードの名称で、講談社系キングレコード発売ですが、アメリカRCAの国内ライセンスは日本ビクターが提携していました。
バラードから詩や物語といった同時代の文学との融合からロマン派交響曲となった。
そのベートーヴェンの交響曲6番を発展させて〝描写音楽〟を定着させ、〝ロマン派交響曲〟の扉を押し広げた傑作「幻想交響曲」の成立事情は興味深い。エネルギーの原動力は青春の恋愛と失恋、そして市民階級に広がっていた麻薬。
エクトール・ベルリオーズがパリ音楽院の学生だったときに、イギリスから来たシェークスピア劇団の「ハムレット」に衝撃を受けたことがそもそものきっかけ。何よりその際オフェリアを演じていたハリエット・スミッソンに激しい恋心を抱き、何通ものラブレターや面会の申し込みを一方的に送りつけたこと。
当然彼女は気味悪がって無視したわけだが、それでも一度火のついたベルリオーズの恋の炎は収まらず、ついには裏返しの「憎悪の感情」にとって代わり、作品の中でスミッソンを殺してしまうに至る。
作品の中での妄想であるのだが、スミッソンを殺そうと、すぐ近くまで馬車を走らせたが、思いとどまって帰った、というエピソードも伝わっている。そこには、対面では気持ちを伝えることが出来ない青年像にも思えるが、表現者として思いを伝えたかったのだろう。
ベルリオーズはこの作品の冒頭と各楽章の頭の部分に長々と自分なりの標題を記しています。「感受性に富んだ若い芸術家が、恋の悩みから人生に絶望して服毒自殺を図る。しかし薬の量が足りなかったため死に至らず、重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見る。その中に、恋人は1つの旋律となって現れる…」。斯様にルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが8つの交響曲で到達した領域に、ベートーヴェンが交響曲第9番でも及べなかった。音楽に情景が読み込まれ、作曲者の心理が投影され、しかもそれが大管弦楽によって妖艶な響きをもって表現される。作品の中で、スミッソンを殺してしまうところから「幻想交響曲」の第1楽章は始まる。ここに真に「ロマン派」と呼ぶべき時代が始まった。
ロベルト・シューマン、リヒャルト・ワーグナーの名をあげるまでもなかろうが、「ロマン派」は文学と直結する。文筆家としてのベルリオーズのウィットに富んだ空想的表現は、細田守監督の「未来のミライ」がアニメーションで表現し得た、幼児心理とみれることに等しい。
音楽というのはさまざまな芸術のなかでも、特におかしな情熱家やとんでもない野心家を生み出す芸術に違いない。その彼らは、かなり特徴的な偏執狂者とも言えるだろう。
すべてを理解させようとするのでなくて、面白おかしく楽しんでもらって、なにか心に落ちるものがあれば、ひとまず良いだろう。との目論見が成功しているから、繰り返し「幻想交響曲」を聴いて楽しもうとするのだろう。
近藤喜文監督の「耳をすませば」での、バロンと貴婦人の人形のくだり、その底部にあるセリフでは表現しなかったところを令和になった今の若者達には汲み取ることはできないだろう。本盤が録音されたとき、指揮者も楽団のメンバーの皆が、戦争体験を共有していた。
そういう時代の流れと指揮者が録音で示そうとした思いは切り離せないのですが、同曲異録音が5種類も現在でも鑑賞できることは価値有る結果です。戦争を挟んだSPレコード時代の2種録音。わたしは前者の1930年録音盤にとても愛着を覚えるのですが、LPレコード時代のステレオ録音2種。SPレコードの頃からモントゥーの《幻想交響曲》と言えば燃え上がるような演奏が特徴らしさですが、高性能オーケストラの音楽の機微のわかりやすさ、ウィーンのホールの響きの美しさが見事な仕上がりの録音。1958年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を相手に録音した演奏を第一に推すものです。モントゥーの数ある《幻想交響曲》の録音のなかでは至って「おとなしい」部類に属する曲線的なたたずまい ― 現代的な言い方をすれば、「お姉系」仕立ての演奏です。
異形の交響曲が抱え持つ音楽のグロテスクさと最も内的な夢幻像の啓示との調和がある ― ピエール・モントゥーは5種類の「幻想交響曲」録音を残していますが、この83歳の時の「幻想交響曲」は肩の力の抜けた流麗な演奏。「超自然的」な題材をモティーフにしたロマン派の名作。演奏によっては限りなくどぎつくなってしまうところを、モントゥーは品良く丁寧にまとめています。
第1楽章(夢・情熱 〝不安な心理状態にいる若い芸術家は、わけもなく、おぼろな憧れとか苦悩あるいは歓喜の興奮に襲われる。若い芸術家が恋人に逢わない前の不安と憧れである。〟)冒頭の、水の滴るような柔らかな響きに惹き込まれる。ヴィリー・ボスコフスキーがコンサートマスターをしていた時代の、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団だ。弦も管も打楽器も、何という充実した深みのある音を奏でるのだろう。恋い焦がれるベルリオーズの真実が、音符のひとつひとつも無駄にして音化される妙。第2楽章、舞踏会 〝賑やかな舞踏会のざわめきの中で、若い芸術家はふたたび恋人に巡り会う。〟
第3楽章(野の風景 〝ある夏の夕べ、若い芸術家は野で交互に牧歌を吹いている2人の羊飼いの笛の音を聞いている。静かな田園風景の中で羊飼いの二重奏を聞いていると、若い芸術家にも心の平和が訪れる。無限の静寂の中に身を沈めているうちに、再び不安がよぎる。 「もしも、彼女に見捨てれられたら...」1人のの羊飼いがまた笛を吹く。 もう1人は、もはや答えない。日没。遠雷。孤愁。静寂。〟)における、いかにもウィーン風の柔らかい木管の調べと弦楽器の交錯する優美さは束の間の平安だ。第4楽章、断頭台への行進 〝若い芸術家は夢の中で恋人を殺して死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。その行列に伴う行進曲は、ときに暗くて荒々しいかと思うと、今度は明るく陽気になったりする。 激しい発作の後で、行進曲の歩みは陰気さを加え規則的になる。死の恐怖を打ち破る愛の回想ともいうべき《固定観念》が一瞬現れる。〟
白眉はやはり終楽章「魔女の夜宴の夢」(ワルプルギスの夜の夢 〝若い芸術家は魔女の饗宴に参加している幻覚に襲われる。魔女達は様々な恐ろしい化け物を集めて、若い芸術家の埋葬に立ち会っているのだ。奇怪な音、溜め息、ケタケタ笑う声、遠くの呼び声。 《固定観念》の旋律が聞こえてくるが、もはやそれは気品とつつしみを失い、グロテスクな悪魔の旋律に歪められている。地獄の饗宴は最高潮になる。『怒りの日』が鳴り響く。魔女たちの輪舞。そして両者が一緒に奏される...〟)。どの瞬間も余裕があり、堂々たる音の風景。鐘の音と交錯する『怒りの日』のコラールの場面で思わず陶然 ― 「幻想」が「現実」に呼び戻される。
生涯に5度もの正規録音を果たしたモントゥーは、聴きてのイマジネーションを自然に美しく膨らませる。メカニックな響きはどこにもなく、細部を緻密に掘り下げるのではなく、全体の曲の雰囲気作りと大きな有機的なフレージングを信条とした演奏は、今聴いても新鮮です。
キモくて遠ざけたかっただけなのに
近藤喜文監督の「耳をすませば」での、バロンと貴婦人の人形のくだり、その底部にあるセリフでは表現しなかったところを令和になった今の若者達には汲み取ることはできないだろう。本盤が録音されたとき、指揮者も楽団のメンバーの皆が、戦争体験を共有していた。
そういう時代の流れと指揮者が録音で示そうとした思いは切り離せないのですが、同曲異録音が5種類も現在でも鑑賞できることは価値有る結果です。戦争を挟んだSPレコード時代の2種録音。わたしは前者の1930年録音盤にとても愛着を覚えるのですが、LPレコード時代のステレオ録音2種。SPレコードの頃からモントゥーの《幻想交響曲》と言えば燃え上がるような演奏が特徴らしさですが、高性能オーケストラの音楽の機微のわかりやすさ、ウィーンのホールの響きの美しさが見事な仕上がりの録音。1958年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を相手に録音した演奏を第一に推すものです。モントゥーの数ある《幻想交響曲》の録音のなかでは至って「おとなしい」部類に属する曲線的なたたずまい ― 現代的な言い方をすれば、「お姉系」仕立ての演奏です。
異形の交響曲が抱え持つ音楽のグロテスクさと最も内的な夢幻像の啓示との調和がある ― ピエール・モントゥーは5種類の「幻想交響曲」録音を残していますが、この83歳の時の「幻想交響曲」は肩の力の抜けた流麗な演奏。「超自然的」な題材をモティーフにしたロマン派の名作。演奏によっては限りなくどぎつくなってしまうところを、モントゥーは品良く丁寧にまとめています。
第1楽章(夢・情熱 〝不安な心理状態にいる若い芸術家は、わけもなく、おぼろな憧れとか苦悩あるいは歓喜の興奮に襲われる。若い芸術家が恋人に逢わない前の不安と憧れである。〟)冒頭の、水の滴るような柔らかな響きに惹き込まれる。ヴィリー・ボスコフスキーがコンサートマスターをしていた時代の、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団だ。弦も管も打楽器も、何という充実した深みのある音を奏でるのだろう。恋い焦がれるベルリオーズの真実が、音符のひとつひとつも無駄にして音化される妙。第2楽章、舞踏会 〝賑やかな舞踏会のざわめきの中で、若い芸術家はふたたび恋人に巡り会う。〟
第3楽章(野の風景 〝ある夏の夕べ、若い芸術家は野で交互に牧歌を吹いている2人の羊飼いの笛の音を聞いている。静かな田園風景の中で羊飼いの二重奏を聞いていると、若い芸術家にも心の平和が訪れる。無限の静寂の中に身を沈めているうちに、再び不安がよぎる。 「もしも、彼女に見捨てれられたら...」1人のの羊飼いがまた笛を吹く。 もう1人は、もはや答えない。日没。遠雷。孤愁。静寂。〟)における、いかにもウィーン風の柔らかい木管の調べと弦楽器の交錯する優美さは束の間の平安だ。第4楽章、断頭台への行進 〝若い芸術家は夢の中で恋人を殺して死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。その行列に伴う行進曲は、ときに暗くて荒々しいかと思うと、今度は明るく陽気になったりする。 激しい発作の後で、行進曲の歩みは陰気さを加え規則的になる。死の恐怖を打ち破る愛の回想ともいうべき《固定観念》が一瞬現れる。〟
白眉はやはり終楽章「魔女の夜宴の夢」(ワルプルギスの夜の夢 〝若い芸術家は魔女の饗宴に参加している幻覚に襲われる。魔女達は様々な恐ろしい化け物を集めて、若い芸術家の埋葬に立ち会っているのだ。奇怪な音、溜め息、ケタケタ笑う声、遠くの呼び声。 《固定観念》の旋律が聞こえてくるが、もはやそれは気品とつつしみを失い、グロテスクな悪魔の旋律に歪められている。地獄の饗宴は最高潮になる。『怒りの日』が鳴り響く。魔女たちの輪舞。そして両者が一緒に奏される...〟)。どの瞬間も余裕があり、堂々たる音の風景。鐘の音と交錯する『怒りの日』のコラールの場面で思わず陶然 ― 「幻想」が「現実」に呼び戻される。
生涯に5度もの正規録音を果たしたモントゥーは、聴きてのイマジネーションを自然に美しく膨らませる。メカニックな響きはどこにもなく、細部を緻密に掘り下げるのではなく、全体の曲の雰囲気作りと大きな有機的なフレージングを信条とした演奏は、今聴いても新鮮です。
キモくて遠ざけたかっただけなのに― 3人の女を殺そうとした、と独白するゾクッとするクラシック。
付け足し、、、として書くには凄いのはこの後です。時は流れて、立場が逆転します。女優は年をとり、昔年の栄光は色あせています。反対にベルリオーズは時代を代表する偉大な作曲家となっています。ここに至って、漸くにして彼はこの恋を成就させ、結婚をします。しかし、この結婚はすぐに破綻を迎えます。理由は簡単です。ベルリオーズは、自分が恋したのは女優その人ではなく、彼女が演じた「主人公」だったことにすぐに気づいてしまったのです。この曲は、《幻想交響曲》作品14aとあるように、その続編というか完結編というか、ベルリオーズ自らが「第一部、第二部として続けて演奏するように」と指示した、彼岸の世界で恋人と応答する《レリオ、あるいは生への復帰》作品14bがあります。曲の内容もまた、ギョッとするものです。この作品はほとんど音楽ではない。「独白劇」という標題が示す様に、舞台上ではレリオを演ずるひとりの俳優が膨大な台詞を語り、幕の背後に隠されたオーケストラと独唱、合唱が、彼の心象風景を描く音楽をはさんでいく。最後の曲に移る前に幕が上げられ、レリオはオーケストラに稽古をつける。再び幕が下ろされ、レリオは舞台から立ち去る。21世紀の現代においても、〝前衛劇〟である。ベルリオーズの作った最も奇妙な作品であるのはもちろん、音楽史上でも、ほとんど類例を見ない。録音は皆無、ではありませんが、独唱と合唱曲をチョイスした録音が大方。花形女優ハリエット・スミッソンがイギリスに帰国した後のこと、この頃の彼の心を占めていたのは、新しい恋人、新進女流ピアニストのカミーユ・モークである。1830年にローマ大賞を受賞した彼は、帰国したら結婚すると約束して、後ろ髪を引かれる思いでローマに出発した。しかし、イタリア滞在中の彼が受け取ったのは、彼女が別の男と結婚することを知らせる彼女の母親からの手紙であった。逆上したベルリオーズは、「罪ある二人の女(カミーユとその母親)と、罪無き一人の男」を殺し、自らも死のうと、二連発のピストル二挺に弾を込め、自殺用の阿片とストリキニーネの小壜をポケットに入れ、「変装用の女中の服装一式」を買い込み、パリへ向かった。途中ジェノヴァで、衣装をなくしたことに気が付いた彼は、町じゅう駆け回って、出発までに新たに変装用の衣装を買い求めた。そのようなことはパリに着いてから、いくらでも出来ることに気が付かないほど、混乱していたのである。不気味なほどに、『幻想交響曲』を思わせる展開だ。挙動不審の彼を咎めたジェノヴァの警察は、トリノ経由を認めず、ニース経由を命じたのであるが、死へ向かう彼の混乱した魂に、生の側からチャンスが与えられた。彼は断頭台には送られずにすんだ。だけでなく、イタリアからは出国していない故、ローマ大賞受賞の規則に違反していなかった。なくした衣装をあきらめて、まっすぐパリ入りしていたならば...。〝天才と狂気は紙一重〟。彼は幻想交響曲において、一切言葉を使わずに、管弦楽に文学を語らせることに成功した。ロマン派交響曲の幕開けと呼ぶに相応しい、画期的な成果であった。ところがその続編に溢れているのは、膨大な量の台詞である。これは、音楽の文学化という意味では、さらに極端な形式へ一歩踏み出したとも言える。これを「20世紀の先取り、19世紀のアヴァンギャルド!」という賛辞は間違いなく的外れ。ベルリオーズは、形式を壊したり新しい形式を創始するようなことはしなかった。だから『レリオ』で採用した異様な構成を練り上げ、磨き上げていくことはしなかった。「多様性」「多義性」「コラージュの原理」をアイデアとして提唱したが、新しい流派の始祖にはなれなかった。「幻想交響曲」は、「音楽の構成原理」から脱却して「文学の構成原理」で楽曲を構成して見せたにすぎない。後日譚をもうひとつ。『レリオ』の初演の20年後、既に指揮者としても確固たる地位を築いていたベルリオーズが、卓越した女流ピアニストとして一世を風靡していたカミーユ・プレイエル夫人と、ロンドンでウェーバーの小協奏曲を共演した際、指揮を誤って問題を起こしている。危うく殺しかけたかつての恋人との共演には、平静な心で臨めなかったのであろう。
- Record Karte
- 1958年10月ウィーン、ゾフィエンザール録音。
- 各楽器の音を一番明瞭に捉えている録音として高名な録音です。
レコードのカバー、レーベル写真
CDはアマゾンで
5種類の録音が、すべてCD発売されているので、購入時注意してほしい。
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