関連記事とスポンサーリンク
- ## シャガールの空と、臍のない恋人たち
- 今日、鑑賞するアナログレコードは、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮、リムスキー=コルサコフ作曲《シェヘラザード》。演奏はパリ管弦楽団。1974年にEMIへ録音された名盤であり、クワドラフォニック仕様のオリジナル盤である。
- このレコードは、音楽そのものと同じくらい、そのジャケットでも知られている。表紙を飾るのは、ロシア生まれの画家 Marc Chagall の幻想的な絵画だ。深い青の空間を漂うような黄色い大きな鳥のような存在、豊満な女性像、そしてその足元で抱き合う若い男女。夢と現実、神話と恋愛が溶け合ったような、いかにも《シェヘラザード》にふさわしい世界が広がっている。
- 私がこのレコードを手に取ったのは、小学生の頃だった。
- ちょうど、自分のお腹が友達と違うことを理解し始めた時期である。
- 水泳の更衣室だったのか、あるいは体育の着替えだったのか、正確には覚えていない。ただ、ある日ふと気付いた。
- みんなのお腹には臍がある。
- そして、私にはない。
- 幼い子どもにとって、「みんなと違う」という事実は、時として大きな謎になる。なぜ自分だけ違うのだろう。何が違うのだろう。そんな疑問を抱えながら、本や絵画や音楽の中に、自分と似た存在を探していた気がする。
- だから、そのシャガールのジャケットを見たとき、私は妙に惹きつけられた。
- 黄色い大鳥の足元で抱き合う若い男女。
- もちろん絵画の細部が明瞭に描き込まれているわけではない。しかし幼い私は、不思議な確信を抱いた。
- この二人には臍がない。
- ただそれだけの理由で、このレコードを何度も眺めた。
- 音楽についての知識など何もなかった。
- 《シェヘラザード》という題名も知らなければ、アラビアンナイトも知らない。
- けれど針を落とした瞬間、スピーカーから流れ出した音に驚いた。
- 低弦がうねる。
- 金管が咆哮する。
- その上を、ヴァイオリン独奏が妖しく舞う。
- まるで色彩そのものが音になったようだった。
- 子どもの私は、それを「肉感的な音」と感じた。
- もちろん当時はそんな言葉を持っていなかった。しかし身体のどこかが熱を帯びる感覚だけは確かにあった。
- 音楽が耳だけではなく、胸や背中や腕や脚の内側まで響いてくる。
- 生きていることそのものを揺さぶるような力があった。
- 改めて聴き返してみると、このロストロポーヴィチ盤の魅力は、その圧倒的な雄弁さにある。
- 指揮者ムスティスラフ・ロストロポーヴィチは、もともと20世紀を代表するチェリストとして知られるが、この録音では音楽を語ることへの情熱が全編から噴き出している。
- オーケストラは決して無機質に整えられていない。
- むしろ感情を隠そうとしない。
- 旋律は歌い、ためらい、ため息をつき、ときに燃え上がる。
- 第1楽章の海原の広がりも、第2楽章の冒険譚も、第4楽章の祝祭も、どれもが濃厚な色彩をまとっている。
- そして何より美しいのは、第3楽章《若い王子と王女》である。
- 弦楽器が紡ぐ甘美な旋律は、シャガールの絵画の中で抱き合う恋人たちそのもののように感じられる。
- ロストロポーヴィチは、この楽章を恥ずかしがらない。
- 遠慮もしない。
- 恋の美しさを徹底的に歌い上げる。
- だからこそ、そのロマンティシズムは現代の耳には少々過剰に感じられるほどだ。
- だが、その過剰さこそが魅力なのである。
- 《シェヘラザード》という作品は、本来、理性よりも想像力の音楽なのだから。
- 思えば、このレコードは私に二つの扉を開いてくれた。
- ひとつは音楽への扉である。
- 音楽とは単なる音の並びではなく、人の心を揺さぶり、人生の記憶と結びつき、何十年も後に再び感情を呼び覚ますものなのだと教えてくれた。
- そしてもうひとつは、生命への興味の扉だった。
- なぜ人の身体は違うのか。
- なぜ私は私なのか。
- なぜ美しいと感じるのか。
- そんな問いは、音楽とは無関係に見えて、実はどこかでつながっている。
- シャガールの空を漂う鳥も、抱き合う恋人たちも、シェヘラザードのヴァイオリンも、幼い日の私には同じ謎の一部だった。
- レコードを回しながら、私は知らず知らずのうちに、その謎へ手を伸ばしていたのである。
- 今でもロストロポーヴィチ盤を聴くと、最初に思い出すのはアラビアンナイトの宮殿ではない。
- シャガールの描いた夢の空と、その足元で抱き合う臍のない恋人たちを見つめていた、小学生の私の姿なのである。
これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。
YIGZYCN
.












コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。