《晩年のワルターが精魂せいこんかたむけた名曲の名演》

20世紀の巨匠ワルター。聴く者に限りない音楽の愛の力を与えてくれた、滋味深い最晩年のステレオ録音。孫のようなプロデューサー・マックルーアのセンスが光る仕上がりは60年の時空超えて感動もたらす。

人間の魂を歌う巨匠 ― これを聴くだけでモーツァルトに開眼できる。

1950年台末にビバリーヒルズで半ば引退していたブルーノ・ワルターの芸術をステレオ録音で残すべく、米コロムビア・マスターワークス社が立ち上げたプロジェクトにより残された歴史的名盤。ワルターのために集められた「コロムビア交響楽団」はロサンゼルス・フィルハーモニックとハリウッドの音楽家たちの混成で、メンバー選考にもワルターが関わったと言われます。このシリーズで残された他の録音同様、分厚く豊かに響くロマンチックな演奏は、現代ではピリオド奏法も盛んになったモーツァルトだからこそ貴重な歴史的遺産と言えるでしょう。

モーツァルトの後期の交響曲。

ワルターはモーツァルトを得意としており、楽屋でモーツァルトの霊と交信していたという噂さえ伝説として残っているほどだ。生涯最後の録音も、モーツァルトのオペラ序曲集であった。晩年のコロムビア交響楽団とのステレオ録音では交響曲第36番、第40番、またニューヨーク・フィルとのモノラル録音では第35番、第38番、第39番、第40番、第41番などが名演奏として知られている。また、戦前のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との録音(『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など)や、1952年のウィーン・フィルとの交響曲第40番のライヴ録音、ザルツブルク音楽祭での交響曲第25番、『レクイエム』のライヴ録音などは今でも名演奏と称えられている。オペラでは、メトロポリタン歌劇場での『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』等が知られている。
20世紀後半にモーツァルトの権威とされたカール・ベームも、バイエルン歌劇場音楽監督であったワルターが私を第4指揮者として招聘し、彼がモーツァルトのすばらしさを教えてくれたからこそ、モーツァルトに開眼できたと告白している。

芸術の品位は、多分、音楽において、とりわけ高貴にあらわれている。それは、音楽には余計な素材が何もないからなのだ。音楽は、ただ、形式と内容とだけで、その表現する一切のものを高め気高くすることが出来る。
このゲーテの言葉は、まず、誰をおいてもミューズの子ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756〜1791)を思い出させる。古典主義芸術の花が、芳しく咲き誇った18世紀の中頃、ドイツとイタリアのほぼ中間、オーストリアのザルツブルグの街に生まれたこの天才の残した足跡は、たしかに、今日の私たちが18世紀から求め得る、最も豊かな美しい財産なのだ。
交響曲が、それ独自の特性と、いわばモニュメンタルな意味をも持つためにはベートーヴェンを待たなければならないが、その兆しは既に、この6曲とハイドンの12曲からなる〈ザロモン・セット〉に見て取れる。とりわけ、元来がセレナードとして作曲されながら、そこにそれまで聴くことの出来なかった張り詰めた緊張を盛るのに成功した《ハフナー交響曲》は、新興の芸術形態として決して恵まれた環境にはなかった交響曲のあり方を示しているとともに、新しい時の到来を図らずも暗示している。
たとえ実生活におけるモーツァルトは貴族の保護を離れて自由人として生きた最初の作曲家だったとはいえ、音楽家としての彼は、その時代の秩序を否定して新しい秩序を打ち立てるといった革命家ではなかった。だが、その与えられた秩序に誠実に生きるということは、取りも直さず、来たるべき時代に最良のメッセージを送れるということでもあるのだ。その意味において、これら6曲の交響曲は、彼が《魔笛》を書いてドイツ・オペラの基礎を築いた以上に、かけがえのない立場にある。
ベートーヴェンの9曲、ブラームスの4曲、さらにそれに続く数多くの交響曲を、私たちが獲得するためには、どうしても、この6曲が必要だった。たしかに、100曲もの交響曲を作ったハイドンがいた。着実ではあったが極めて遅い歩みを見せた彼の天才は、彼が深い影響を与えたモーツァルトから、逆に影響を受けて真の実りを齎した。例えば、モーツァルトの死を悼んで作曲されたという、彼の最後の交響曲《第104番 ニ長調 ロンドン》には組み立ての確かさとか、表現の真実さとかいった、ハイドンの作曲家としての特質が最も好ましい形で示されている。だが、そこには、まだ、あのモーツァルトの音楽の持つ感じやすい表情がない、新しい形式や手法を編み出して、何よりも作品に安定と純粋さを求めたハイドンは、後世に交響曲という形式は残し得たがモーツァルトはそこに、柔軟性と細やかな感受性とを授けて真に魅力的なものとした。
その芸術家が未だ、自らの個性を獲得していないのならともかく、その芸術を抜き差しならない形で確立してしまっている以上、先人をも含めて、外部からの力というものは、もはや天才の霊感に影を落とすことはない。《ハフナー交響曲》を作曲した1882年、26歳のモーツァルトは彼に与えられた玉座に進むべく、既に確実な歩みを始めていた。したがって、この6曲に関する限り、モーツァルトのハイドンへの影響は認めるとしても、ハイドンからの影響は考えられない。たとえ、《リンツ》、《プラハ》《第39番 変ホ長調》が第1楽章に、ハイドン流の序奏を持っているとしても、である。つまり、これら、モーツァルトの愛を最も強く受けた6人の兄弟たちは、半音階的な歩みをみせる和声によって呈される虚ろに安い影、木管楽器と弦楽器との巧妙なコントラストによって醸し出されるニュアンスに富んだひだどりとによって、まさにモーツァルト独自の表情を備えている。そうした18世紀が終わろうとしている時に生まれ出た彼らの後姿は、当然、古い時代、つまり音の対位法的な取り扱いに対する感謝に満ちた眼差しと、和声的なスタイルに敏感に反応する皮膚とを、殊のほか美しい形で取り揃えているのだ。

ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたドイツ的なスタイル。

一時は引退を表明して80歳を越えた晩年のブルーノ・ワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア社の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始。その彼のステレオ録音の最初の1枚となったものはマーラーの「復活」です。マーラーの弟子であったワルターが、それまでの手兵ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してステレオで最初にとりあげたのが『復活』だったというのはまさに僥倖であったといえるでしょう。
日本の葛飾北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じ。引退していたワルターを引っ張り出し、『マーラー直弟子のワルターが伝えるマーラー解釈の神髄。』とコピーが常套句になっていますがワルターの心情はどうだったのか、と考えます。この録音はニューヨーク・フィルとウェストミンスター合唱団。あとに続くレコードのためのオーケストラのとは違ったんじゃないか。
ドイツものとしてマーラーを録音できることに特別な思いを強くしたのではないか。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような、独特の味わいがあります。低音域を充実させたドイツ的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演。マーラーも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の一人だったように思う。マーラー直系の愛弟子ですから、当然と言えば当然ですが、同じユダヤ人として時代を共有したものでなければなし得ない強い共感に満ちあふれた演奏を聴かせている。歴史的名盤といえる録音だ。ワルターのステレオ録音が聴けるとは、米コロムビア社の英断に感謝せずにはいられません。

〝温厚篤実〟

CD時代になって一時期レコード業界は過去最大の売り上げを記録したこともありました。判らないではありません。以前は、200枚もLPレコードを保有しておればマニアの部類に近かったのです。それがCD時代になると、高校生でも200枚や300枚のCDを保有しているのが当たり前になりました。レコード、CDは、ここ何十年も価格は変わっていません。むしろ安くなっているほどです。それで安易に保有数が増えたのです。LP時代は、所得との比較で、レコードはやはり高い買い物で、そのため大事に保管し、大事に使用していました。また、不要・不急のレコードを購入することは無かったのです。それだけに大事に取り扱い、真剣に音楽も聴きました。アルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏がいかによくても、音盤はモノラルばかり。家庭用の一体型ステレオ装置から出てくるステレオ録音の音響は、非常に魅力的であった時代に宝物のように大事にされたのが、音のよいステレオ録音のブルーノ・ワルターのコロムビア盤だった。しかしその時代は、おいそれと新譜レコード盤が買えなかったから、友達の家にあるのを頼み込んで繰り返し貸してもらったりした。それでもなんとしてもワルターのレコードが欲しくてたまらなく、思いが強く残ったのか、CBSコロムビアからSONYになって発売された音盤だとかで聴き揃えていった。それに比べてもCD初期に発売になった、いずれのワルターの音盤も、少年期の家庭用のステレオ装置から、出てきた音に勝ることが無かった。それがステレオ録音に最初に接したという、非日常的体験がもたらした錯覚、幻想の思い出だったとされればそれまでだが、未だ記憶の中の瑞々しい音響は聴けていない。CDはどれも高音域と低音域が分離して中音部が薄い感じに聞こえるものだ。そんな音でモーツァルトを聴いていいはずもなく、どうしてワルターのコロムビア盤での芸術が理解できないのだと思っていたほどだ。クラシックというのは同じ音源が何度も手を変え品を変え出てくる。どれも同じと思っている方も多いが、実はぜんぜん別物というほど音が違っているケースもある。音によってその演奏のイメージはかなり変わる。明治8年生まれの指揮者の最晩年がステレオ録音初期に重なったのは幸運だった。ワルター晩年の指揮を〝温厚〟と評言される傾向があるが、〝篤実〟と対になる四字熟語の意味は、温かで情が厚く、誠実なさま。ワルターのリハーサルは、最晩年でも青年のように頭の回転が速く、早口で情報量が多い。フレージング、音価、強弱の注文が多く気に入らないと何度も裏声も交えてリアルに歌って指示するが、総じて進みのテンポが速いのは、コロムビア交響楽団が録音のための臨時編成で、発売する曲を限られたリハーサル時間でこなさざるを得なかったからだろう。曲に必要な楽器奏者を近隣のオーケストラから雇って製作された。ピアニストだったワルターは、リスト、ワーグナー、ブラームスと深く交わったハンス・フォン・ビューローの指揮を聴いて指揮者になる決意をした。マーラーの弟子でもあった彼が米国に渡ってコロムビア響と残した録音は、オーケストラの定位が当時としては良く、悪くいえば楽器があちこちから聞こえる感じがあるが、これがオーケストラピットの中からのイメージであり、ワルターの造りたかったバランスが良くわかる。

米コロムビアが立ち上げたプロジェクトにより残された歴史的名盤。ワルターのために集められた「コロムビア交響楽団」の分厚く豊かに響くロマンチックな演奏。

気持ちを入れるには、まずは形からと言いますけれども、フォーマル、カジュアル、ファッション次第で仕草から変わってきます。 着ているもの、それを着ていく場所にふさわしい動きがあると言ったらいいでしょうか。オーケストラは指揮者にとって、着るものではないかしら。指揮者、ワルターはオーケストラを変わる度に、音楽が変わっていった指揮者ではないでしょうか。 いや、オーケストラに会わせた音楽を生み出す指揮者だったのでしょう。 極端な表現かも知れないけれども、SP時代とLPレコードの時代のワルターは別人のようです。 ワルターを語る時に、どの時代のワルターを聞いていたのかで印象が違うようで面白いものです。モノラル録音でニューヨーク・フィルとの六大交響曲も残していて、そちらも捨てがたい味わい深い、こちらは晩年の芸風か、ゆったりした演奏です。まさに孫のような天才プロデューサー、ジョン・マックルーアとの邂逅が実現した奇跡の名演だと思います。この3枚だけでもワルターの名前は残ったと確信するセットです。

ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日〜1962年2月17日)はドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア社(CBS)の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ウィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でのベートーヴェン〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSPレコード盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。ワルターの演奏スタイルの変遷を簡潔な言葉で表すと、〝戦前の典雅、戦後の雄渾、晩年の枯淡〟ということになると思う。コロムビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、彼は20年間で成熟をし続け、枯れることなく円熟に円熟を重ねることができた。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きくなければ、そして芯の部分が柔軟でなければ、こういう円熟の仕方は出来ない。ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。

ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはクララ・ハスキルやアルテュール・グリュミオー、パブロ・カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。レコード産業としては、英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。フィリップスは1982年10月21日コンパクト・ディスク・ソフトの発売を開始する。ヘルベルト・フォン・カラヤンとのCD発表の華々しいCD第1号はイ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ作曲の協奏曲集「四季」 ― CD番号:410 001-2。1982年7月のデジタル録音。現在は、フィリップス・サウンドを継承してきたポリヒムニア・インターナショナルが、これら名録音をDSDリマスタリングし、SACDハイブリッド化しています。
  • Record Karte
    • 演奏:ブルーノ・ワルター指揮、コロムビア交響楽団
    • 録音:1959,1960年録音。
    • プロデューサー&エンジニア:John McClure, Thomas Frost
    • 【収録曲】
      1. 交響曲第36番ハ長調K.425「リンツ」、交響曲第39番変ホ長調K.543
      2. 交響曲第40番ト短調K.550、交響曲第38番ニ長調K.504『プラハ』
      3. 交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」、交響曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」
    • レアな六つ目レーベル日本コロムビア社製初出盤。

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