34-15196

商品番号 34-15196

通販レコード→米SERAPHIMホワイト黒文字盤

すべての人々はみな兄弟となる ― というフレーズは、ベートーヴェンの〝第九〟の精神を象徴する言葉としてよく引用されます。フランス革命前夜、ボン大学でシラーに関する講義を受けた若きベートーヴェンは、頌歌「歓喜に寄す」と出会い、その思想に大きく影響を受けました。その22歳のときに曲をつけたいと語っていたらしいので、それを53歳のときに初演した〝第九〟の起源と考えると、30年以上もかけて完成させたことになります。ベートーヴェンが独唱と合唱を伴う大規模な交響曲を構想するに至るまでにも、幾度と無く試みられています。交響曲第5番「運命」にも見られた「苦悩を突き抜けて歓喜に至る」というプログラムの終着点は、〝第九〟への道標だったのです。ウィーンで活躍したベートーヴェンが〝第九〟の作曲を始めた頃には、既にナポレオンが没落してウィーン体制が成立、貴族階級の復権により自由主義が弾圧されていました。貴族を嫌う自由主義者のベートーヴェンにとって、若い頃から傾倒していたシラーの詩に曲をつけて〝第九〟の第4楽章で人々の声で以って歌われる「歓喜の歌」で具体化したと思われます。日本の大衆が〝第九〟を聴いたのは、1919年3月22日のエンゲル・オーケストラが出演した和洋大音楽会。現在日本各地で年末の風物詩ともいえるほどの恒例行事として演奏されるのは、黒柳徹子の父、黒柳守綱がコンサートマスターを務めていた新交響楽団 ― NHK交響楽団の前身が昭和4年に演奏したことに始まる。第4楽章に入ってしばらく器楽だけで言い合っているような音楽がつづいて、制する如くバリトン歌手がすっくと立ち上がり、「おお友よ、このような音楽じゃない」と歌い出す場面は、コンサートで何度体験しても勇ましい。付き従って合唱が、「もっと喜びにあふれたメロディを歌おう!」「フロイデ!(歓喜だ!)」と続いて、あの「歓喜の歌」を歌い出します。シラーの詩に出てくる言葉は西洋人には直感的に理解できても、「天上の楽園の乙女」とか「炎を飲む(炎に酔いしれる)」などと聞いても、キリスト教に馴染みの薄い日本人にとっては、そのままの日本語に訳しても何のことかわからないように思います。しかし、「勝利に突き進む英雄のごとく、自らの道を行け」「抱擁と接吻を全世界に」「すべての人々は兄弟になるのだ」などなど、混迷する現代にも通じるメッセージがてんこ盛り。歌詞そのまま素直に解釈すると、地上では喜びも苦しみもあるが、大きな困難を乗り越えて天上の世界 ― 理想の楽園に至ると永遠の幸福が得られる、と受け取れば、神々の世界を讃える歌としては、ストーリーが単純でわかりやすくなるでしょう。そして、昭和22年に、戦後の新しい時代にふさわしい明るくわかりやすい歌の指定教材として、〝第九〟の主題に岩佐東一郎の訳詞をつけた「よろこびの歌」が小学6年の音楽の教科書に掲載されました。平成7年の新学習指導要領により共通教材は廃止されましたが、その間約50年も教科書に載り続けてきたので、「晴れたる青空ただよう雲よ」で始まる、平易な歌詞でとてもわかりやすい、誰でも知っている有名な歌で、ベートーヴェンが作ったということも知られているのも当然でしょう。年末恒例行事として日本中で第九が演奏されている現在、ウィーンでベートーヴェンが喝采を受けた初演の後ワーグナーが復活させるまで一般の人々には理解されなかったほど難解な第九が、日本人には身近な親しみを感じる曲になったと考えられます。「よろこびの歌」が、シラーの詩自体の翻訳とはかなり違うけれども、キリスト教に馴染みの薄い日本人にもわかりやすくその精神を伝えようとしたものでしたが、「よろこびの歌」にはっきりと出てこない〝すべての人々はみな兄弟となる〟というフレーズこそ、ベートーヴェンが強調しておきたかったメッセージ。
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文学作品なのでいろいろな意味にとれることはもちろんですが、シラーの原詩では「貧しき者らは王侯の兄弟となる」となっていたのが、ベートーヴェンが〝すべての人々はみな兄弟となる〟と変更します。死んでしまえば王侯貴族も貧者も平等であることから神の存在する天上界を理想として讃えるシラーが書いた神への讃歌の意味を、生きている人々の間の友愛に読み替えたとも考えられます。現実の世界は絶えず戦争の恐怖にさらされ、国々の間での経済的あるいはその他諸々の格差が存在することや、それよりもずっと身近な所でも、ささいなことから大きなことまで、あらゆるレベルで不平等が存在するのは事実です。人々は愛にあふれる平等や平和な世界を理想として追求しながらも、やはり現実にはそれが満たされることなく暮らしているとすれば、天上の神々がいる理想の世界にあこがれる讃歌としての意味が素直に理解できます。ベートーヴェンの時代に世界に様々な民族がいることはもちろんわかっていたとは思いますが、もっとベートーヴェンにとって身近な範囲、すなわち貴族階級に対する民衆といった概念で「すべての人々」を考えていたのかもしれません。「年末に第九を」というアイデアが芽吹いたのは1918年のこと。第一次世界大戦が終結となったこの年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。当時はライプツィヒの郊外の村であり、現在はライプツィヒの一部であるゴーリスという土地に住んでいたときにシラーが『歓喜に寄す』を書いたという縁もあり、「人類すべてが兄弟になる」という平和への願いこそが人々の思うところであった。12月31日の午後、日が暮れる時間に労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーヴェンの第九は演奏された。その後は名門オーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が、毎年の大晦日に〝第九〟を演奏し続けてきました。1998年2月、長野冬季オリンピックの開会式で、小澤征爾指揮により世界五大陸を中継でつないだ〝第九〟が演奏されたことを覚えている方も多いでしょう。1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で〝第九〟が演奏された。1964年の東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われ、1989年のベルリンの壁崩壊の直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した。この際には、「フロイデ!(歓喜)」を「フライハイト!(自由)」と置き換えて歌われました。国外では、歴史に残るような機会に〝第九〟は演奏されています。
また、東日本大震災の一ヶ月後にズービン・メータがNHK交響楽団を指揮した演奏会は、〝第九〟が追悼のための曲として選ばれており、その演奏は大きな感動を与えました。「よろこびの歌」の明るく平和な日本語訳から、鎮魂あるいは追悼を読み解くと、旧約聖書を共有する宗教で最後の審判を受けた後楽園で永遠に楽しく暮らすことができるという神への讃歌が、死はすべての終わりではなく、すばらしい永遠の楽園生活の始まりであるとする仏教の考えに(未完)。緩和緩和、「ニーベルンクの指環」の主人公であるジークフリートは双子の兄姉ジークムントとジークリンデの間に生まれた子どもだ。彼はまたヴォータンの娘であるブリュンヒルデを娶るが、ヴォータンはブリュンヒルデの父であり、ジークムントとジークリンデの父でもある。ブリュンヒルデはジークムントの妹(または姉)であり、かつまた嫁となる。つまり、ジークフリートと、ブリュンヒルデは叔母と甥の関係にある。
エーリヒ・ラインスドルフ(Erich Leinsdorf, 1912~1993)はウィーンのユダヤ人家庭に生まれ、アントン・ウェーベルン率いる労働者合唱団の練習ピアニストからキャリアを始め、22歳の若さでザルツブルク音楽祭に招かれ、1934年からブルーノ・ワルター、アルトゥーロ・トスカニーニの下で練習ピアニストとして修行を積んだ後に、ヒトラー率いるナチス・ドイツ政権によるホロコーストから逃れて、1937年の渡米後も、まずメトロポリタン歌劇場でのキルステン・フラグスタートやラウリッツ・メルヒオールといった大歌手たちと共演したワーグナー指揮でその名声を轟かせました。1942年に米国籍を取得。その後クリーヴランド管弦楽団、ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団、ニューヨークのシティ・オペラの音楽監督やメトロポリタン歌劇場の音楽顧問も歴任し、1962年からシャルル・ミュンシュの後任としてボストン交響楽団の音楽監督に就任。この時期にドイツ音楽のスペシャリストとして評価を固め、膨大な数の録音を残しています。1969年にボストン響から離れた後はウィーン交響楽団、ベルリン放送交響楽団の音楽監督となるなど、主にヨーロッパを中心として活躍しました。最晩年は古巣のドイツ語圏でもマエストロと尊敬され、リヒャルト・シュトラウスやストラヴィンスキーら直接薫陶を受けた作曲家の解釈では傑出した存在となった。ラインスドルフは耳の良さに定評があり、あまりにも厳格な要求は楽員たちから煙たがられた。演奏に3時間を費やすヨハン・ゼバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」のような大曲でも隅から隅まで暗譜、リハーサルにも楽譜なしで臨みながら楽団員に対し、「そこのオーボエの君、最後4分の1音だけずれていたよ」と詳細に指摘。すわ、パート譜を確認すると、マエストロの指摘通りといった具合で、逃げ場がない。リハーサルは、みっちり油をしぼられる。厳格を極めたと伝えられていますが、でも本番は楽員たちの自由に弾かせていた。『音楽は自由であるべきだ』との信条に従い、ぐっと手綱を緩めるから奇跡の名演になる。1962~1969年にボストン響の音楽監督を務めた間ももめ続けたが、残された録音の質は極めて高い。またオペラからコンサートレパートリーまで、何でも振れる職人気質が災いして、実力のわりには日本での評価は低かった。若い頃の演奏は整ってはいるものの幾分冷めた部分があって、その点が人気のなかった原因とも思えますが、来日は1978年にニューヨーク・フィルハーモニックと、レナード・バーンスタインの代役としてでしたが、べートーヴェンの交響曲第3番「英雄」は〝驚くべき巨匠の音楽〟と、玄人筋から絶賛された。1980年代以降の晩年の演奏は、知的でよく整ったバランス感覚の優れた音楽造りに格調の高さとヒューマンな暖かさが備わったのを感じさせます。
指揮者の中の指揮者と称賛され、作曲家の弁護人とまで言われた大指揮者エーリヒ・ラインスドルフ。日本での評価はさほど高いとは言えないことが惜しい限りです。けれんみの無い音楽作り、またオーケストラビルダーとしても知られたラインスドルフは独墺系中心に幅広いレパートリーを誇りますが、1957年にメトロポリタン歌劇場に復帰した彼は、ディミトリ・ミトロプーロスと2人体制で上演を盛り上げます。この時期のラインスドルフはEMI系のレーベルにステレオでセッション録音を行っており、米キャピトルに、ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団とドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』、チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』、ドビュッシーの『海』、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲、リヒャルト・シュトラウスの『死と変容』、ワーグナーのオペラ『タンホイザー』の「ヴェヌスベルクの音楽」、そして臨時編成、もしくは覆面オーケストラの「コンサート・アーツ交響楽団」とワーグナー管弦楽曲集、リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』など有名管弦楽曲を録音、英COLUMBIAには、フィルハーモニア管弦楽団を指揮してリヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品集、ブラームスの交響曲第3番、序曲集を、独ELECTROLAにはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とシューベルトのミサ曲第6番を録音しています。ステレオ初期のサウンドで、当時のラインスドルフの活気のある芸風を楽しめる快演揃いですが、シューベルトのミサ曲では一転、しっとりとした美しさを追求した演奏を聴かせており、若きフリッツ・ヴンダーリヒの美声も含めて非常に注目度の高い仕上がりとなっています。ラインスドルフといえば知的で整理された中にも、時としてピリッとしたスパイスを効かせた玄人好みの音楽造りをする人です。同時期のオペラのセッション録音にはプッチーニの『トゥーランドット』、『トスカ』、『ラ・ボエーム』、『蝶々夫人』、モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』、ロッシーニの『セヴィーリャの理髪師』、ヴェルディの『マクベス』をRCAに、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、『フィガロの結婚』、リヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』、ワーグナーの『ワルキューレ』をDECCAへと有名な録音が多く、オペラで実績豊富なラインスドルフへの信頼が厚いものだったことが窺えます。多くのレパートリーがRCAに録音されましたが、コンサート、オペラで八面六臂の活躍をした巨匠のライヴ録音があまり出ていないことも再評価が遅れる所以でしょう。
  • Record Karte
  • 録音: 1, 3 November 1957, Los Angeles, California, United States.【収録曲】ワーグナー:歌劇「ローエングリン」 - 第3幕への前奏曲、歌劇「タンホイザー」 - 序曲、歌劇「神々の黄昏」 - 「ジークフリートの葬送行進曲」、歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 - 「徒弟たちの踊りと親方達の入場」、歌劇「楽劇「ワルキューレ」 - 第3幕 ワルキューレの騎行 - 魔の炎の音楽(編曲:エーリヒ・ラインスドルフ)。
  • US SERAPHIM S60213 エーリヒ・ラインスドルフ ワー…
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