US RCA LSC2111 シャルル・ミュンシュ ボストン交響楽団 ドビュッシー:交響詩「海」、イベール:交響組曲「寄港地」
商品番号 34-30145
通販レコード→US SHADED DOG ED1 LIVING STEREO 盤
ロマン的な香りを色濃く残す「海」 ― ミュンシュはクロード・ドビュッシーの交響詩《海》の録音を幾つか残しているが、音質的にも内容的にも本盤がベストといえる。近代フランス音楽の華麗な音響でこそミュンシュとボストン交響楽団の真価は発揮されたが、そして何よりも作曲者の破天荒な発想を現実の音としている点においてボストン・シンフォニー・ホールの空気感までをも伝えるハイファイ・ステレオの威力を味わえる優秀録音盤の価値は揺るぎ無い。1958年の録音。この頃のボストン響のサウンドは後年の小澤時代のようにインターナショナル化しておらず、ミュンシュの前任者だったセルゲイ・クーセヴィツキー時代のロマン的な香りを色濃く残していた。だから現代の優等生指揮者が機能的オーケストラを振ったようなパステルカラー調の《海》とは比較にならないほど強烈なサウンドカラーが表出される。ドビュッシーが思い描いていたサウンドはこのようなものだったのではないか。彼が愛した地中海は、いわば原色の海だったのだろう。第2次大戦後のボストン響に黄金時代をもたらし、小澤征爾の師としても知られ、3回の来日歴もある〝フランスの名指揮者シャルル・ミュンシュ〟(Charles Munch)は、ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターをつとめてミュンヒの音楽家としてのルーツであるドイツ音楽の演奏においても本領を発揮し、その一方で、ピエール・モントゥーが確立したフランス式の演奏様式の伝統を継承し、ボストン響をフランス音楽の演奏にかけては類のないアンサンブルに仕立て上げました。〝ドイツ系の名指揮者カール・ミュンヒ〟にとって、フランス音楽も重要なレパートリーだった。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送ったミュンシュは、両国の音楽を共に得意とした。ドイツ音楽ではベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンなど、フランス音楽ではベルリオーズ、フランク、サン=サーンス、ショーソン、ドビュッシー、ラヴェルなどに名盤を遺した。ミュンシュは自国の音楽に先天的共感を以って、この効果の難しい難曲を実に巧みに演奏し妙に現代風なダイナミックを強調しない点はさすがである。彼が〝チャールズ・マンチ〟と呼ばれていたアメリカとアルザス人は関わりが少なくない。アメリカに自由の女神像を贈ったのはフランスで、その製作者フレデリック・オーギュスト・バルトルディは、コルマール市出身の正真正銘アルザス人でした。1886年にアメリカ独立戦争を記念にアメリカ政府に寄贈。女神の顔は彼の母親をモデルにしていると言われている。ハリウッド映画黄金期に活躍して「嵐が丘」、「ローマの休日」、「ベン・ハー」など有名作品を世に送り出して、アカデミー監督賞を3回受賞した「巨匠の中の巨匠」と呼ばれる名監督ウィリアム・ワイラーもアルザス人だ。有名なドーデ作「最後の授業」の舞台となった19世紀末から第二次世界大戦終了までの75年間にアルザス人の国籍は4度変更になりました。斯くもフランスとドイツの間を行き来したアルザスは、ジブリの漫画映画「ハウルの動く城」に描かれている。魔法使いの弟子が扉を開く度に異なる支配下の街が現れますが、アルザスの街並みは、フランスというよりドイツの景色。街の名前もゲルマンに根ざした地名が多い。20世紀半ば、第二次世界大戦が勃発し、ドイツに併合されたこの地方の人々はドイツ語を強制され、待ちに待った解放が実現してフランスに復帰すると、こんどはナチスと同様の偏狭なナショナリズムのもと、二流市民扱いされ、フランス政府によるフランス語強要で、ドイツ語のみならずアルザス語も禁止し、図書館にあったゲーテやシーラーなどドイツ語の書物は焼かれた。ミュンシュは第二次世界大戦の頃には、パリ音楽院管弦楽団の指揮者として活躍しており、ナチス・ドイツのパリ進攻時にも、パリにとどまり、有名な抵抗映画「天井桟敷の人々」では伴奏音楽の指揮者としても名を連ねている。やがてフランスの指揮者として認知されるに至ったのは、ナチスの台頭と無縁ではないはずだ。戦後、一転して、アメリカのボストン響の音楽監督に迎えられた。ミュンシュは、ボストン響と出会ったことで大きく変わった。そして、自身の音楽を大きく花開かせたのは、幾度もの侵攻や動乱のなかで、独自の文化性を確立してきたアルザス人としての誇りの現れのように感じられます。
- Record Karte
- 1956年12月9,10日ボストン、シンフォニー・ホール録音。
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ミュンシュは、多少コスモポリタン的な傾きはあるが、全く現代的で、緊迫度が高く簡潔緻密だ。特に、ほど良く淡白な叙情性と人生の秋をしのばせる曲趣の調和が目立つ。尻上がりに油が乗ってくる。ワルターとは逆の手法で成功したものといえよう。盤鬼・西条卓夫
シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891〜1968)のキャリアはヴァイオリニストからスタートしていますが、若かりし頃、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任、その時の楽長がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。毎日その巨匠の目の前に座って多くのことを習得したことから、知らずと例の拍子を暈す内容重視の指揮法はフルトヴェングラーの指揮姿から身につけたものと推察出来ます。ミュンシュは音楽が持っているのストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。ベルリオーズの「幻想交響曲」とブラームスの「第1交響曲」でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセバトワールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることから、歴としたドイツ人であるが故にブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。そのフランス音楽の守護神のようなミュンシュが、アメリカのボストン交響楽団の音楽監督に迎えられた。1946年のアメリカ・デビューから3年後のことだ。1962年まで、その地位にあり、戦後のボストン交響楽団の黄金時代を築いたのは周知のとおりだ。ピエール・モントゥーは1919~1924年にボストン響の常任指揮者を務めたが、後任となったセルゲイ・クーセヴィツキーは在任中、モントゥーを客演に招こうとしなかった。モントゥーの伝記によれば、オーケストラ側から、退任後も翌シーズンから客演に呼びたいと言われていたが、全く実行されなかったとぼやいている。その約束が果たされたのは27年後の1951年、クーセヴィツキーの後を継いだミュンシュ時代になってからであった。ミュンシュはモントゥーと懇意で、ミュンシュが1962年に常任を離れるまで、モントゥーは頻繁に同響の指揮台に立った。戦後アメリカの旗印は〈自由の国〉だったが、ミュンシュが生涯にわたって、願って止まなかったのも、この〈自由〉。ミュンシュが指揮するラヴェルの「ボレロ」は、作曲者のイン・テンポの指示を守らずに、どんどんアチェレランドして行くことで有名だ。が、ミュンシュがやりたいようにやっている自然さが別の魅力を生んで、忘れ難い名演となっている。ミュンシュが自身の音楽を大きく花開かせたのは、この頃からだ。ミュンシュは戦前には、必ずしも強烈な個性や豊かな音楽を持った指揮者ではなかったと思うが、ミュンシュとボストン響との相性の良さは、戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも、最良の成果を双方にもたらした。ミュンシュの代表盤の大半が、このオーケストラとのものとなっている。ミュンシュは常任指揮者に就くとともに、このオーケストラと専属契約関係にあったアメリカRCA社に録音を開始、主要作品を網羅したベルリオーズに始まり、ラヴェル、ドビュッシーなどのフランス音楽のほか、ドイツ音楽など多彩な内容のアルバムを数多く制作。それらの多くは、優れた音響を持つボストン・シンフォニー・ホ-ルで行われ、ほぼ全てを〝RCAリビング・ステレオ〟の礎を築いたリチャード・モーア、ルイス・レイトンのコンビが手がけた。
遥か昔から、アルザス地方はドイツとフランスが領有権を奪い合ってきました。ライン川中流の西岸で、その北のロレーヌ地方とともに、葡萄、小麦などの豊かな農作物、鉄・石炭の産地であり、フランスとドイツの1000年にわたる争奪戦が繰り広げられた。人種的にはドイツ系住民が多いが、文化的にはフランス文化の影響の強い地域といわれる。アルザス=ロレーヌはフランス革命・ナポレオン時代を通してフランス領として続き、ウィーン会議でもかろうじてフランスは領有を維持したが、普仏戦争に敗れ、1871年、両地方の大部分をドイツ帝国に割譲した。19世紀後半のフランスの作家アルフォンス=ドーデの「最後の授業」は、この普仏戦争でアルザス地方がドイツ領に編入されたときのことを題材にしている。明日からはドイツ語で授業をしなければならないという最後の日、フランス語の先生は子供たちにフランス語は世界で一番美し言葉だと教え、忘れないようにと説く。そして最後に黒板に大きく「フランス万歳!」と書く、という話で、かつては日本の教科書にもよく見られたが、実は、アルザス地方で話されていた言葉はフランス語ではなく、もともとドイツ語の方言であるアルザス語です。〝シャルル・ミュンシュ〟が生まれた1891年にはドイツ領で、〈ドイツ人〉として生まれ、ドイツ人として音楽教育を受けている。第二次世界大戦中アルザスの若者達はドイツ軍に強制編入されました。ドイツとしてはアルザス人はフランス語を話すので、激戦区だった東部戦線の最先端に送られ、戦後何年もシベリアに抑留されました。まるで捨て駒のような扱いでしたが、17、18歳の若者が参加したのは、ドイツ軍に加わらなかった場合は、非国民として家族も収容所へ送られたからです。第二次世界大戦終結し、アルザスはドイツから解放され再びフランスに戻ります。しかし、フランスの他の地域に比べて倍以上の犠牲を出したにも関わらず、占領されていた歴史の結果として約4万5千人のアルザス人が対独協力容疑で収容されました。建築物や食生活などに見るアルザスの独特な生活文化は、この地方の文化の二重性がもたらした貴重な財産であると同時に、歴史的困難をもたらした要因でもあったわけです。ミュンシュが熱心に取り上げるフランスの作曲家にオネゲルがいるが、戦争や人種対立などを憂い、危機意識をもって苦悩するオネゲルへの深い共感が底流にあるのもそのためだ。ミュンシュはラヴェルの「ボレロ」を4回スタジオ録音している。第1回目は1948年のパリ音楽院管弦楽団との録音。この演奏は、イン・テンポを守っている。むしろしばしば言い聞かせるように確認しながらの音楽の運びが興味深い。そしてどこかしら退屈そうだ。この演奏を聴いていると、その後のボストン交響楽団との演奏が、どれほど自由で開放的かに思いが至る。オネゲルの「交響曲第5番」は、1951年3月9日に、ミュンシュ指揮、ボストン響により初演され、そのまま録音が行われた。ミュンシュの繊細でいながら力強い前向きの演奏が、オネゲルの思いの深さと呼応した名演だ。『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、今ここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする〝命懸けの豪胆さ〟がわたしたちの心をひしひしと打つのです。
録音史に残る名録音 ― LIVING STEREO
フリッツ・ライナー=シカゴ交響楽団のRCAレーベルへの録音は、1954年3月6日、シカゴ響の本拠地オーケストラ・ホールにおけるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」のセッションで始まりました。この録音は、その2日後に録音された同じリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」と並び、オーケストラ・ホールのステージ上に設置された、わずか2本のマイクロフォンで収録された2トラック録音にも関わらず、オーケストラ配置の定位感が鮮明に捉えられており、録音史に残る名録音とされています。ステレオ初期のカタログではセミ・プロ仕様の2トラック、19センチのオープンリール・テープは数が限られていましたが、その中でもミュンシュ=ボストン交響楽団のRCAレーベルへの録音は比較的多く存在していました。これ以後、1963年4月22日に収録された、ヴァン・クライバーンとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番まで、約10年の間に、モーツァルトからリーバーマンにいたる幅広いレパートリーが、ほとんどの場合開発されたばかりのこのステレオ録音技術によって収録されました。ヤッシャ・ハイフェッツ、アルトゥール・ルービンシュタイン、エミール・ギレリス、バイロン・ジャニスなど、綺羅星の如きソリストたちとの共演になる協奏曲も残されています。何れもちょうど円熟期を迎えていたライナー芸術の真骨頂を示すもので、細部まで鋭い目配りが行き届いた音楽的に純度の高い表現と引き締まった響きは今でも全く鮮度を失っていません。これらの録音「リビング・ステレオ」としてリリースされ、オーケストラの骨太な響きや繊細さ、各パートのバランス、ホールの空間性、響きの純度や透明感が信じがたい精度で達成された名録音の宝庫となっています。
クロード・ドビュッシー(Claude Debussy)は1862年生まれ。1918年没。フランスの作曲家。印象主義音楽の創始者。ワグネリアンで、マラルメなど象徴派詩人たちと接していた。中世の旋法、5度7度の組み合わせ、全音音階等独創的な音色とリズムを獲得し、ロマン派音楽から脱却、新しい世界を切り開いた。ドビュッシーが活躍を始めた19世紀末にかけて、ヨーロッパではリヒャルト・ワーグナーが大流行していました。1861年にパリ・オペラ座で上演された歌劇『タンホイザー』は大変なスキャンダルを巻き起こし、公演は3回で打ち切られてしまった。パリのワーグナー・ブームはボードレールやマラルメら詩人たちによって推進されたのだが、一度聴くと耳について離れないワーグナー音楽は、当時の作曲家らの耳を支配した。巨大な管弦楽と強靭な歌声によって、観る者の感覚を根こそぎ奪い取っていくようなワーグナーのオペラに魅了される人々が数多くいたのです。ドビュッシーも、パリ音楽院在学中にワーグナーに傾倒し、楽劇『トリスタンとイゾルデ』のスコアを持ち、全3幕を暗譜で弾き語りすることができた。卒業後の1888年と1889年、2回にわたってワーグナーのオペラを観にバイロイト祝祭歌劇場を訪れています。けれども、このバイロイト行きを頂点として、ドビュッシーのワーグナー熱は次第に冷めていきました。彼は、「ワーグナーを越える」ためにはどうしたらいいのかを模索し、やがて独自の新しい音楽の世界を切りひらいていくのです。「ワーグナーをどうやって越えていくか」という問題は、そもそも、この時代の作曲家にとって共通の最大の問題でした。なぜなら、誰もが一度はワーグナーという巨大で圧倒的な存在に、魅了されるにしろ反発するにしろ、影響を受けないわけにはいかなかったからです。ドビュッシーは、ワーグナーの影響から抜けだし、新しい20世紀音楽への扉を開いたひとりといえます。代表作のひとつである交響詩《海》は、独自の和声や浮遊するリズムなどによって、まったく新しい音楽のすがたを示しています。ドビュッシーはここで、自分の内面に向かっていた眼差しを、外の世界に向けようとしました。とはいってもそれは、画家が風景を画面に忠実に写し取ろうとするように自然の風景を音によって描写する、というのとは少し違っています。ドビュッシーは、〝海〟という自然を足がかりとして、それを越えたところで自分の内側に湧き起こってくるイマジネーションを音楽にしようとしたのです。彼が描いた《海》は、実際にそこにある『海』ではなく、彼の記憶の底からすくい上げられ、想像力によって変形された見えない『海』なのです。
色彩は創り手や聴き手の外にあるものではない。心のうつろいや惑い、喜びと哀しみ。律動もまた、ひとの内側にある。心臓の鼓動、筋肉の躍動、言葉と思索のリズム。クロード・ドビュッシーは、人聞のすべての思いと感覚を解放し、それらがないまぜになったものを音響とリズムに託した。ドビュッシー音楽の本質は、ジャック・デュラン(1869年に作曲家のオーギュスト・デュランが創立したフランスを代表する名門楽譜出版社として広く知られているデュラン社の御曹司)に宛てた手紙の一節 「私はますます、音楽とは色彩と律動する時間であると確信するようになった」に要約されている。ドビュッシーの音楽は印象派の絵画と並べて語られることが多いが、実際には象徴主義の文学運動と深いかかわりをもっていた。ドビュッシーは象徴派の大詩人ステファヌ・マラルメの火曜会に出席した唯一人の音楽家だったし、『牧神の午後への前奏曲』をはじめ、シャルル=ピエール・ボードレールやポール・マリー・ヴェルレーヌ、アンリ・ド・レニエやピエール・ルイスたちのテキストによって多くの作品を書いた。かといって、彼ほど「音」と「言葉」の領域にこだわった作曲家はほかに少く。ドビュッシーのためにテキストを書き、何度も書きなおしを命じられたあげく、「音楽が乗らないから」という理由で一音も書いてもらえなかった詩人たちも多い。また、「私は仕事が遅いのです」というのがドビュッシーの口癖だった。唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』は上演までに9年、 管弦楽のための『映像』は7年かかっている。いっぽうで、ピアノのための不朽の名作『前奏曲集第1巻』はたった2か月で書いてしまっている。ドビュッシーを語る人が必ず口にすることに、彼の異様に突き出た額がある。レオン・ドーデに「インドシナの犬」のようだと言われたおでこ。そこには、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」全3幕が詰まっていて、ピアノで弾き語りすることができた。その腕前は、ショパンにピアノを習ったことがある非常にすぐれたピアノ教師だったモーテ・ド・フルールヴィル夫人に手ほどきされ、その記憶力で、ローマ留学中にフランツ・リストの演奏を目のあたりにしているドビュッシーは、2人のピアニズムを作曲語法に転換させ、新たな地平線を開いた。後年、モーテ夫人の指導、特にバッハやショパンについての教えは終生忘れず、手紙等でくり返し感謝の念を述べている。ショパンの音楽をこよなく愛した彼は、晩年には自らショパンの『練習曲集』の校訂にも携わるほどでした。彼は革新的な語法で20世紀音楽への扉を開いたが、その音づかいは、専売特許のような全音音階をはじめ、11や13の和音など、高次自然倍音列の中にほとんどそっくりおさまるという。つまり、耳に心地よいのである。彼の革命は、あくまでも聴覚的自然の範疇にとどまった。ワーグナーの影響から抜け出そうともがき、そのことによって優れた作品を生み出したドビュッシー。1989年夏に、パイロイトの祝祭歌劇場で舞台神聖祝典劇「パルジファル」や楽劇「トリスタンとイゾルデ」の上演に接したドビュッシーは、登場人物が舞台に出てくるたびに判で押したように奏される〝音楽の名刺〟を痛烈に批判した。とはいえ、脱ワーグナーをめざして書かれたオペラ『ペレアスとメリザンド』にもまた、控えめながら登場人物を象徴する ― ワーグナーの代名詞ともいうべき「ライトモティーフ」的なものは存在する。何によらず、同じものをくり返すことを嫌うドビュッシーは、モティーフが出てくるたびに少しずつリズムやハーモニーを変え、場面ごとの心理の変化を表現しようとしてはいるのだが。1907年に自作の楽劇「サロメ」初演のためにパリを訪れたリヒャルト・シュトラウスは、ロマン・ロランのお供でオペラ『ぺレアスとメリザンド』の舞台に接し、ある場面で「なんだ、「パルジファル」そっくりじゃないか!」とつぶやいたという。たぶん、第1幕の第2場に至る間奏曲の部分。パルジファルがアムフォルタス王の城に入城する場面転換の音楽によく似ている。斯くもワーグナーに反旗をひるがえしつつも、晩年のスタイルに至るまで、実はワーグナーの亡霊から逃れられなかった。フランス近代一の大作曲家にこんな苦労をさせるのだから、ワーグナーの威力はやはり強大だ。
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