34-13606
商品番号 34-13606

通販レコード→米レッドシール黒文字盤
悲しみに溢れたヴァイオリンの響きのなかに希望の光がみえ、深刻さよりも清冽な瑞々しさや希望が表現される。 ― 《ピアノ三重奏曲第1番ニ短調作品63》は、1847年9月、愛妻クララへの誕生日プレゼントとして作曲された。誕生日プレゼントとしては意味深な調性だが、既に神経障害の兆候があったシューマンが、鬱状態の中で書いた曲であると言われている。幼い頃から有名なピアノの神童だったクララは、ピアノ教師だった父ヴィークの弟子ロベルト・シューマンと恋に落ちた。二人はクララの父の反対に遭ったため、逃避行をし、クララの父を相手に訴訟まで起こして愛を勝ち取り、結婚に至った。その後、クララは尊敬されるピアニスト・作曲家として活発に活動し、夫の曲を演奏して、シューマンは作曲家として名を広めた。やがて若い作曲家ブラームスの才能に気づいたシューマンとクララは、ブラームスを世に紹介し、弟子のように、友人のように、親しく交流していた。そのうちに、ブラームスは14歳年上のクララに恋心を抱くようになる。だが、クララはブラームスに対し、尊敬と友情だけで接した。そんななか、普段から患っていた神経症と鬱病が悪化したシューマンが、池に飛び込んで、自殺を図る。自らも多くの作曲をしたクララは日記のなかでこの作品に対して次のように記しています。この曲は、まだ期待される多くのものを持っている人によって作曲されたかのようで、きわめて力強く、若々しいエネルギーにみち、また同時に充実した書法をもっている。シューマンの精神障害を心配していたクララにすれば、彼が未だに音楽的には衰えていないことを確認できた安堵の気持ちが「まだ期待される多くのものを持っている人」という表現に如実に表れています。シューマンがピアノとヴァイオリン、そしてチェロという組み合わせからなる三重奏曲に取り組もうという気になったのはメンデルスゾーンの影響が大きいと言われています。両者はそれぞれに影響を与えあっていたのですが、1947年に入って体力の衰えが著しかったメンデルスゾーンの様子を見て、メンデルスゾーンのニ短調のピアノ三重奏曲に強い関心の寄せていたシューマンは、何とか彼の存命中に同じニ短調による三重奏曲を書き上げようとしたのでした。とりわけ、メンデルスゾーンの作品において3つの楽器が見事なバランスを保持して鳴り響くのを聞いて、自らも同じような三重奏曲を書こうと思い立ったのでした。ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタイン、ヴァイオリニストのヘンリク・シェリング、チェリストのピエール・フルニエ ― 黄金の名手3人が揃った室内楽録音史上に残る名盤。名手トリオによる、とってもシューマンらしい演奏となっている。「精力と情熱を持って」(Mit Energie und Leidenschaft)と題された第1楽章は雄大な構成をもった音楽であり、クララは「これまで私が知っているもっとも素晴らしい音画の一つのように感じられる」と記しています。第2楽章はスケルツォに相当する音楽(Lebhaft, doch nicht zu rasch(生き生きと、しかし速すぎずに))なのですが、ベートーヴェンのスケルツォと較べればロマン派らしい幻想性を持っています。第3楽章は「悲しみに溢れた音楽であり、ゆるやかに、心からの感情をこめて」(SLangsam, mit inniger Empfindung)とあるとおり、シューマンらしい叙情性に溢れています。先立つ楽章とはガラリと雰囲気を変えた終楽章は、「火のように」(Mit Feuer)と題された激しさと力強さに溢れた音楽になっています。そして、フィナーレ(Nach und nach schneller)は大きな頂点を築いてニ長調で結ばれます。前に出てソロをつとめることが多いピアノとヴァイオリン、それを縁の下で支えることが多いチェロという楽器の特性が、影響を与えることは間違いないですが、巨匠ルービンシュタインが、名手シェリング、フルニエと組んで1972年と1974年にジュネーヴで録音したシューベルト、シューマン、ブラームスのピアノ三重奏曲のそれぞれに、ルービンシュタイン最晩年の滋味あふれるピアノが、清新なシェリングのヴァイオリン、甘やかなフルニエのチェロに寄り添い、ドイツ・ロマン派の最高峰のピアノ三重奏曲の手本を示さんと言わんばかりに極上の名演を成し遂げている。85歳から87歳にかけて取り組んだ演奏ですが、「枯山水」と一言で評されるぐらいに特に室内楽のルービンシュタインのセンスがすばらしい。音楽性を引っ張る、出るところは出る、他の楽器を引き立てるべきところは伴奏に徹するなどピアノの理想的な役割を果たしています。若い時「100万ドルトリオ」と呼ばれていた頃は、チェロのエマーヌエル・フォイアマンがいがみ合うルービンシュタインとヤッシャ・ハイフェッツの間に入って仲を取り持とうとしていましたが、ピアニストのスビャトスラフ・リヒテル、ヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフ、そしてチェリストのムスティスラフ・ロストポーヴィッチがヘルベルト・フォン・カラヤンカラヤンの指揮とで録音されたベートーヴェンのトリプル・コンチェルトにまつわるエピソードは有名です。これだけ「我」の強いメンバーを集めればどうなるかは容易に想像がつくのですが、現実はそう言う「想像」をこえた大喧嘩が繰り広げられたことはあまりにも有名です。そして、そう言う大喧嘩の中でただ一人ロストロポーヴィッチだけが何とか間を取り持とうとして大声を上げ続けたそうです。「100万ドルトリオ」はフォイアマンの夭逝によって解散となってしまい、グレゴール・ピアティゴルスキーをむかえいれて再結成していますが、同じくハイフェッツとルービンシュタインの間ではバトルが繰り広げられるのですが、その時も間にはいるのはピアティゴルスキーだったそうです。そして三度目の正直。クララとロベルト、ブラームスの奇妙な三角関係に亀裂が入らなかったのは、そして、クラシック音楽の歴史上、最も有名なラブストーリーと成した、のは歳の差が絶妙に作用したようなものなのか。
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僕がルービンシュタインを何故嫌いかというと姿勢が良いわけ。 ということは上半身の力が全部鍵盤にかかるわけ。すると、もう割れんばかりの強い音が出るけれども、汚い音になる ― 坂本龍一がグレン・グールドの演奏から聴こえ出るピアノの音と姿勢の関係を語るところで、引き合いに出されている。20世紀のアメリカが求めたショーマンシップもシンボリックすぎるほど見事だった世紀の巨匠、アルトゥール・ルービンシュタイン。1935年の初来日の後、2度目に彼がやって来たのは1966年6月、すでに79歳の高齢であったが、その舞台のなんという素晴らしさだったことだろう。演奏も舞台姿も円熟の極み、風格豊かで一切の無駄と虚飾を取り去った音楽の本質がそこにあった。しかも、どんなに枯れていても若い頃の道楽者には艶福の名残りがあった。「私は40歳までは女ばっかりだった」とルービンシュタインは指揮者の岩城宏之に語ったそうだが、まあ話半分としても求道者よりはプレイボーイ的な演奏であることは確かだ。しかし、そうした遊びを芸の肥やしにして壮年から老年にかけてのルービンシュタインの深まり方は只事でなく、ほとんど奇蹟のような出来事であった。SPレコード時代はもちろんだがモノーラル時代、そしてステレオ時代に入ってからも、その初期の頃のルービンシュタインには大味なイメージが強い。そんなアメリカの外面的なヴィルトゥオーゾが、70歳代も半ばを超えてから急速に円熟への道を歩み始めた。若い頃は放蕩と道楽の限りを尽くし、60歳代に至るまで効果を狙うだけのピアノを弾いていた最も人間臭い人間ルービンシュタインが、やっとその脂ぎった演奏に抑制を効かせ過度に華やかだったタッチを是正した結果が、ピアノを弾くのが楽しくてたまらない。という風情で、まさに人生の達人の姿がそこにあった。いかなる激しい演奏場面においても背骨がピンと伸びきって、身体のあらゆる部分に無駄な動きが全くないのには驚かされる。そんなルービンシュタインの演奏にはいやらしさが寸毫も感じられない。それは歌舞伎の名優が舞台上で大見得を切っても、演技が少しも下品にならないのと似ている。華のあるステージであり、華麗な音楽創りをしているのに思わせ振りがない。1世紀に一人か二人しか出現しない、この人はまことに「大名人」としか表現しようのない音楽家であった。
怪人プロデューサーの自宅アパートで深夜、部下の事業部長が打ち合わせをやっていたら、ガサゴソと音がして食堂の大型冷蔵庫の扉が開いた。手に何か食べ物と飲み物を抱えてベッドルームへ去ろうとしている小柄な男がいた。斯くも、世紀の巨匠は人懐っこい人柄であった。アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887〜1982)はポーランドのユダヤ人家庭に生まれ、1898年にベルリンでデビューした。ヨーロッパで長く活動した後、第二次大戦前にアメリカへ渡り世界的な名声を得た。祖国愛、政治的亡命、アメリカでの成功と、いかにもアメリカ人が喜びそうなサクセス・ストーリーが見え隠れしている。彼の祖国への愛に嘘偽りがあるとは思わないが、どうもプロモーション上、そういうイメージが作られていたような気がする。1940年代に結成した「百万ドルトリオ(Million Dollar Trio)」も然り。ルービンシュタインは、この呼び名を嫌ったらしい。アルフレッド・コルトー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルスのトリオと同じだろう、やがてヤッシャ・ハイフェッツとグレゴール・ピアティゴルスキーのコンビとは袂を分かちている。名伯楽カール・フレッシュ門下のヘンリク・シェリングが世界の舞台へ躍り出る契機を作ったのは、メキシコに演奏旅行をし、当地で彼と共演しその才能に驚嘆した同国人ルービンシュタインだった。第二次世界大戦中に、ポーランド亡命政府のために通訳を務めるかたわら、連合国軍のために慰問演奏に加わり、メキシコシティに訪れた折、同地の大学に職を得たことを契機に、メキシコに帰化していたシェリングは、ルービンシュタインが彼を世に知らしめたことをきっかけに1954年にニューヨーク・デビューし、世界的な名手とみなされるようになりました。シェリングはよく〝成熟〟というタームで語られがちですが記念すべき彼らの最初の共演たるこの録音を聴けば、様式的な構想力においてシェリングには最初からから頭抜けたものが備わっていたことは明白でしょう。シェリングはたくさんの録音を残しており、とりわけヨハン・ゼバスティアン・バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」は、ナタン・ミルシテインの演奏と並んで評価が高い。また室内楽では、ルービンシュタインのお気に入りのパートナーとして知られた。ルービンシュタインとシェリング、ポーランドが誇る二人の天才の共演によるブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ全集」は端正なピアノと味わい深いヴァイオリンが融合し、ブラームスの重厚さを見事に描ききっている。70歳代であったルービンシュタインが、ワルシャワ出身の40歳代のシェリングとその演奏はソナタ第3番の第3楽章で顕著なように、いささかピアノ主導型の演奏に傾斜しがちですが、しかし、シェリングの端正な音色と表現が力感と味わいを兼ね備えた老巨匠のピアノと巧みにマッチしており、両者ともに必要以上ののめり込みを感じさせないタイプだけにブラームスの世界を潤い豊かに描き出すことに成功しています。ピアニストでもあった作曲家のヴァイオリン・ソナタはピアノが雄弁に傾く傾向は強いが、ルービンシュタイン主導型の爆演でもなく。ヴァイオリンが真摯、ということでバランスがとれるのではないのかと納得させられるものだ。主な使用楽器は1743年製グァルネリ・デル・ジェス「ル・デューク」。
ヘンリク・シェリング(Henryk Szeryng, 1918〜1988)も同じくポーランド出身のユダヤ人だが戦前にメキシコに移住し音楽教師をやっていたところ、1956年に当地を訪れたアルトゥール・ルービンシュタインに見いだされアメリカ・デビューを飾った人物である。彼にとってルービンシュタインは恩人であるばかりでなく、室内楽演奏のパートナーとしてしばしば呼び出される大親分であった。シェリングのヴァイオリンは秀逸である。過度にロマンティックにならず、さりとて辛口過ぎることもない。中道を行く演奏である。シェリングは、ベートーヴェンやブラームスなどのドイツ物を得意としている。渋みと甘味の調和した音色で、精神的にも充実した格調高い演奏を繰り広げてくれる。やや速めのテンポだが、テクニックで捲し立てることはなく、むしろ軽やかな歌になっている。ソロのときのイメージと好い意味で違って、ルービンシュタインの室内楽もなかなかよく、シュリングも委縮していません。さて、この二人が録音したベートーヴェンとブラームスの 『ヴァイオリン・ソナタ』録音を時系列にスケジュールを並べると、ベートーヴェンの「スプリング」と「クロイツェル」ソナタの録音が、1958年12月30と31日。一年置いてブラームスのソナタは一番から番号順に録音。1960年12月28~29日に『ソナタ第1番』、30日に『ソナタ第2番』と『第3番』。年末年始を挟んで、翌1961年1月3日にブラームスの『ソナタ第3番』の続きと、ベートーヴェンの『ソナタ第8番』を録音して完成している。なにぶん年末年始である、ホワイトハウスで行われるパーティで演奏したり、ニューイヤー・コンサートに出演したりとリハーサルや録り直しを含めたスタジオ録音としてはやはり過密なスケジュールといえるのではないだろうか。録音スタジオに腰を落ち着かせてはいなかったことが想像に容易いし、演奏者の共演歴によって大きく異なるだろうが、二人の演奏家は息もピッタリと「覇気」も見せながらもブラームスの内省的な面にも迫っている。現代は誰もが見ているテレビ番組や音楽で共通性が希薄なので、パロディやものまねをするのがショーマンに悩みとなっているというが、こと70歳代の老巨匠と40歳代前半の若いヴァイオリニストには課題はなかったようだ。クレンペラーとバレンボイムの関係を思い出す。確かにピアノの音が少し大きいですが、第1番の出だしなんて、もう美しい以外に表現のしようがないほどで、それでいて嫌になることはない。ほどほどに抑えている。第3番の第3、4楽章ではピアノが暴走する凄みで、ちょっとかすれた音色の味わいが特徴のシェリングのヴァイオリンの音がマスキングされている。レコードのプレス技術の工場を示すが如く、ベートーヴェンもブラームスもLP両面に収まっている。最終日のベートーヴェンの8番のソナタも、当初は「スプリング」と「クロイツェル」でのリリース目的ではなかったのかと考える。音質も、録音年代を忘れるほど優良で名匠同士の音楽の対話を味わうに格好の一枚だ。
フランスが生んだ20世紀最高の名チェリスト、ピエール・フルニエ(Pierre Fournier ,1906.6.24〜1986.1.8)は端正かつ気品溢れる表現で「チェロの貴公子」などと呼ばれるが、それが本盤の独自の存在価値になっているように思います。すなわち格調の高さ・気品は一貫して保たれており、しかも彼の特質、迫力あるロングトーンや、豪快なボーイングによって聴き手を圧倒するのではなくて、密やかな静けさや、チェロ独自のなんか円やかな美音を味わうものとなっている。チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団でチェロ奏者を務めたユリウス・ベッキは「ジャン=ルイ・デュポールに源を発するフランスのチェロ芸術は、フルニエによって、完全な名人芸の域に高められた」と述べている。フルニエは1918年からパリ音楽院でアンドレ・ヘッキングに学び、その後ポール・バスレールに師事。1924年に生地パリでデビュー。1927年にはコロンヌ管弦楽団のソリストとして迎えられ、フランス各地およびヨーロッパ各国での演奏活動を開始。1934年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して大成功を収めた。第二次世界大戦後にはさらにキャリアが発展し、1948年にアメリカデビューを果たしてからは、毎年のように当地で演奏した。オーケストラとの共演だけでなく、フルニエは室内楽にも情熱を注いでいた。1930年前後はヴァイオリニストのガブリエル・ブイヨン、ピアニストのヴラド・ペルルミュテールとピアノ三重奏団を組み、第二次大戦後は、ピアニストのアルトゥル・シュナーベル、ヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティとのピアノ三重奏団、それにヴィオラ奏者のウィリアム・プリムローズを加えたピアノ四重奏団を結成、このメンバーでシューベルトとブラームスの室内楽をすべて演奏しており、シゲティは「最高の音楽体験」だったと語っている。またデュオとしても、ウィルヘルム・ケンプとのソナタ演奏会等活発に活動した。1954年の日本における演奏ツアーでは、フルニエとは別のツアーで同じく日本を訪れていたケンプと合流して、当初の予定にはなかった特別演奏会を開催したほど親しかった。戦前はピアニストのアルフレッド・コルトーとヴァイオリニストのジャック・ティボーともしばしば共演、デュオとしてもピアニストのヴィルヘルム・バックハウス、アルトゥール・ルービンシュタイン、フリードリヒ・グルダらとも共演していた。レパートリーも幅広く、古典派、ロマン派の作品以外にも、同時代の作品を多く手掛けており、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ラファエル・クーベリックと親しく交流した。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの指揮でフルニエがリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」の独奏チェロを演奏することもあった。また、1972年にはヨハン・ゼバスティアン・バッハの『無伴奏チェロ組曲』全曲の演奏譜を校訂し、アメリカのインターナショナル・ミュージック社より出版した。エコールノルマル音楽院やパリ音楽院で教鞭をとったほか、ジュネーヴやチューリヒで講習会を開き、生徒たちに弓をしっかり持ちつつ、手や腕をいつでも自由に動かせる状態にしておくのが良いと語り、「ベルベットのように柔らかい流れるような音」と「弓の腕より肘を高くすること」を求めたとされる。弟子にマーガレット・モンクリーフ、リチャード・マークソン、安田謙一郎、菅野博文、山崎伸子、ジョーン・ディクソン、アマリリス・フレミングらがいる。フルニエはリズムの重要性を指摘するとともにルバートの多用を戒めたとモンクリーフは回想している。
1972年9月ジュネーブでの録音。
US  RCA  LRL1 7529 ルービンシュタイン&フルニエ&…
US  RCA  LRL1 7529 ルービンシュタイン&フルニエ&…
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