34-9251

商品番号 34-9251

通販レコード→米プラム・シェード・ドッグ盤

〝バイロイトの第九〟は、演奏の記録ではなく、記録のための演奏でもなかった。 ― 世界一有名なバイロイトの第九です。宇宙のずっと遠くへ放たれた観測衛星ヴォイジャーに載せられたディスクに人類の音楽芸術の最高の演奏として選ばれた録音。1951年7月29日、バイロイト祝祭劇場でのライヴ録音。通称「バイロイトの第九」この録音に関しては賛否ありますが、個人的には大好きな演奏です。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが振ったから…、大戦後初のバイロイト音楽祭だから…、いろいろを考えさせられる演奏ですが、どうであれ芸術ってこういう事を言うんではないでしょうか?まるで、夏空の花火の様 ― 大輪の花を咲かせて一瞬にして消えてしまう ― この時代の、この演奏者の、この会場がそういう素晴らしい演奏を花開かせ一瞬にして消える。これが、この第九の素晴らしさだと考え至りつつあります。夏空の花火が大輪の花を咲かせて、一瞬にして消えてしまう。聴き手も息を詰めて、そのタイミングを見つめている。「バイロイトの第九」はそういうものに思う。リハーサルを含めて3回の録音が残っているというから、それでも崩壊寸前のクライマックスを選んだのは、ライヴの緊迫を際立たせる演出だったのではないだろうか。60年以上たった現在でも繰り返し再販されている、人類の遺産とも称される歴史的名盤。第2次世界大戦後、初めてバイロイト音楽祭が再開された初日に演奏された記念すべきライブ録音であり、歴史的価値抜きにしても、多くの人々を感動させることの出来るフルトヴェングラーという芸術家は、真に偉大な巨人であろうと思います。であるから、この録音は〝ベートーヴェンの第9〟のまさに決定盤として君臨し続ける不朽の名盤です。今回は、文化遺産とも言える米RCA盤で皆様に迫りたい。
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録音こそ誰もが知っている1951年のバイロイト音楽祭の前夜祭での奇蹟の〝第9〟のライヴですが、レコードにする予定はなく発売されるまで何年も後になったものです。本来はヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の新演出となるワーグナーの楽劇「ワルキューレ」のライヴ録音プロジェクトでプロデューサーのウォルター・レッグと録音チームが早くから乗り込んでいて、マイク・セッティングのテストにテープを回していたものでした。それが結果、地球の宝になったのは、発売予定だったカラヤン指揮の「ワルキューレ」が第3幕だけの発売で終わったことで実現したものです。レコードは最初、演奏後の拍手もそのままに発売。擬似ステレオ盤が発売された時には最後の拍手はなかった。その後、日本での発売では〝足音付き〟のコピーが踊った。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが指揮台に立つ時の音だと言われた。が、実際は演奏前に音楽祭の開始を告げ、指揮者を紹介した挨拶者が立ち去る足音であるらしい。録音セッションは正式に行われたものでなかったし、実際本番の録音でなく観客を入れてのリハーサルの演奏も使われている。その音は彫りが深く、各楽器の詳細な音の動きも聞き取れ、独唱は輪郭のしっかりした明瞭さで合唱も歪み感を感じません。レコード発売を目的に録音されるために演奏されたものだったらば、その時点で整音がされていたでしょう。スタジオで録音された演奏で有名なものに同じイギリスEMIからリリースされている晩年の「トリスタンとイゾルデ」が有りますが、録音を目的に行われた演奏であるから、演奏の記録ではなく、記録のための演奏だと思いますが、このバイロイト盤は違う。〝バイロイトの第九〟は、演奏の記録ではなく、記録のための演奏でもなかった。そして、フルトヴェングラーはこの《バイロイトの第九》の録音を聞くことはなかった。マイクが立っていたことはわかっていただろう。翌日以降に行われる憎々しいあいつのためだと。フルトヴェングラーのリハーサルを見学しようとしたカラヤンは追い出しをくらっていた。フルトヴェングラーは前夜祭の演奏後、最初の演目となるワーグナーの楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のリハーサルに取り掛かっているカラヤンと顔を合わせることになると嫌だからと憤怒したまま、2日は留まったがバイロイトを後にしています。だから録音は、演奏の記録以上のものにはなり得ないのである。そのことは恐らく、フルトヴェングラー自身が一番良く分かっていたではなかろうか。しかし、万全のレコーディングが準備されていたとしてもカラヤンのシベリウスのような物事も起こるし、このレコードでもリハーサルを録音したもので補っている部分がどういう判断でなされたのはレッグに尋ねる以外にないでしょう。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが足早に立ち去ったのは、8月1日にはザルツブルク音楽祭でモーツァルトの歌劇《魔笛》を指揮するためだったが、8月31日までザルツブルクに滞在し、最後は《第9》だった。音楽祭が終わると、新築されたシラー劇場の柿落としとしてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と、9月5日に《第9》を演奏。さらに、6日と7日には、ティタニア・パラストでベルリン芸術週間の催しとして、またも《第9》を指揮した。でも演奏家の芸術作品は、記録以上のもので後世に伝えられることは絶対にないのです。録音は貧しい音でも、単なる記録に過ぎないものですら、多くの人々を感動させることの出来るフルトヴェングラーという芸術家は、真に偉大な巨人であろうと思います。であるから、この録音にも無限の価値があるのです。鶴屋で行った鑑賞会で第一楽章が終わったあとで、参加者から感嘆のため息が漏れた。みんなが息を詰めて聞き入っていたのだが、どんな人でも感動させる力がこの演奏にはある。編集の違いがあることが長年取り沙汰され、後年、当日のライブ音源がバイロイト音楽祭のライブラリから発売されるに至って、本盤はリハーサルでの録音がほとんどだと判明した。それで初版では最後に拍手がないのが納得できる。しかし、それなら無難なテイクを使うだろうが、クライマックスは崩壊寸前になっている。そこが歴史的演奏会のドキュメンタリーだ。名演、名録音ではないけど聴きこむほどに感じられて来る。これは大名盤だ。録音は、演奏の記録以上のものにはなり得ないのである。でも演奏家の芸術作品は、記録以上のもので後世に伝えられることは絶対にないのです。フルトヴェングラーは「音楽における客観とは、音楽と精神、精神と音楽が結び付いてひとつになった時に起こるのである」といっています。それ故に、崩壊寸前のクライマックスを選んだのは、ライヴの緊迫を際立たせる演出だったのではないだろうか。
先輩格のアルトゥール・ニキッシュ(Nikisch Artúr)から習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。戦前、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団をヨーロッパの主要都市で演奏させたのは、ナチスの政策の悪いイメージをカモフラージュするためであった。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任しナチス政権が始まった。25歳のヘルベルト・フォン・カラヤンは、この年の4月8日、オーストリアのザルツブルクでナチスに入党した。カラヤンはそれからすぐにドイツのケルンにおもむき、同年5月1日、党員番号3430914としてケルン―アーヘン大管区であらためて入党した。オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、ブロニスラフ・フーベルマン、 マックス・ラインハルトなどが、次つぎと亡命し、ついにゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者であったブルーノ・ワルターがドイツを去ることになった。世界はフルトヴェングラーがどのような態度をとるか興味ぶかく見守っていた。アルトゥーロ・トスカニーニやトーマス・マンなどは、フルトヴェングラーはドイツに留まることによってナチスに協力し、それを積極的に支持したと非難した。しかし、フルトヴェングラーは1928年に、「音楽のなかにナショナリズムを持ち込もうとする試みが今日いたるところに見られるが、そのような試みは衰微しなければならない。」と厳しく警鐘を鳴らしていた。1933年7月、フルトヴェングラーはプロイセン首相のゲーリングから枢密顧問官の称号を与えられた。この称号は、総理大臣(ゲーリング)、国務大臣、総理が任命する50名の高官、学者、芸術家によって構成された。枢密顧問官は名誉職であり、たとえば鉄道が無料となるなどの特権があった。ほかに総理から必要な費用の支払を受けることができ、この費用の受け取りを拒否できないとあった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはこの称号をなにかで利用することはなかったし、1938年11月の「水晶の夜」が起こってからは、この称号をけっして使うことはなかった。しかしフルトヴェングラーをナチスの一員として非難する人たちは、この称号を受けたことを立派な証拠とみなしていた。フルトヴェングラーはドイツにおいて高額所得者であったが、仮にイギリス、アメリカに移住しても金銭的に不自由することはなかったであろう。それどころか反対に、より豊かになったことは間違いない。フルトヴェングラーがなぜ、ナチスと妥協したりせずに外国に移住しなかったのだろうか。フルトヴェングラーのきわめて、おそらくは過渡に発達した、使命感だった。つまり、彼がひきつづきドイツに留まり音楽を創造していくことが、彼と同じ気持ちを懐いているすべての『真正なる』ドイツ人に慰めを与えるのだという確信だった。フルトヴェングラーはたしかに国外にいるよりは国内にいることによって、迫害された人たちをより多く助けることができたのだった。…アルトゥーロ・トスカニーニはムッソリーニにどれほどの打撃を与えたか。マンはヒトラーにどれほどの打撃を与えたか。やはりドイツの伝統を維持していたウィルヘルム・ケンプと対比してユーディ・メニューインは推察した。「もしも現代においてケンプが、どこにいようとも、ドイツの伝統を守ることができるのであれば、フルトヴェングラーはかくも深く過去に根ざしていたので、彼は国外移住が独自性を危険に晒すこと、山や平原と同様に国にも属している種族や国民の魂が存在すること、彼の音楽的ヴィジョンがドイツにおいてドイツの公衆を前にしたドイツのオーケストラにより、最良の状態で存在が可能となることを信じていたのかもしれない」フルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、つまりドイツのオーケストラ演奏を維持し続けることに大義があった。1947年5月1日、ついに非ナチ化委員会はフルトヴェングラーに対して全面無罪を宣告した。フルトヴェングラーが戦後、2年ぶりにベルリンに復帰した演奏会は1947年5月25日、フルトヴェングラーは満員の聴衆の興奮と熱狂の坩堝と化したティタニア・パラスト館で、ベルリン・フィルとオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏した。この復帰コンサートのチケットはまたたく間に完売となった。ベルリンの市民は、空襲の恐怖の中でも彼の指揮するベルリン・フィルの演奏会が唯一の心の慰めであり支えであったことを忘れていなかったのである。戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。コンサートは同じプログラム ― エグモント序曲、「田園」、「運命」交響曲の3曲 ― で5月25、26、27、29日の4日間行なわれた。62歳のフルトヴェングラーはけっして老いていなかった。しかし重ねた年輪はベートーヴェンの悲劇的な力をこれまで以上に刻印を深くし、聴衆との再会はフルトヴェングラーが心から願った共同体の理念を再び呼び覚ました。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)は自身の著書「音と言葉」のなかで、ベートーヴェンの音楽についてこのように語っています。『ベートーヴェンは古典形式の作曲家ですが、恐るべき内容の緊迫が形式的な構造の厳しさを要求しています。その生命にあふれた内心の経過が、もし演奏家によって、その演奏の度ごとに新しく体験され、情感によって感動されなかったならば、そこに杓子定規的な「演奏ずれ」のした印象が出てきて「弾き疲れ」のしたものみたいになります。形式そのものが最も重要であるかのような印象を与え、ベートーヴェンはただの「古典の作曲家」になってしまいます。』その思いを伝えようとしている。伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたヘルベルト・フォン・カラヤンとの違いでしょう。その音楽を探求するためには、ナチスドイツから自身の音楽を実体化させるに必要な楽団を守ることに全力を取られた。そういう遠回りの中でベートーヴェンだけが残った。やはりフルトヴェングラーに最も適しているのはベートーヴェンの音楽だと思います。カラヤンとは異世界感のシロモノで、抗わずに全身全霊を込めて暖かい弦楽器が歌心一杯に歌い上げた演奏で感動的である。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。
エリーザベト・シュヴァルツコップ(Olga Maria Elisabeth Frederike Schwarzkopf)は1915年12月9日、ドイツ人の両親のもとプロイセン(現ポーランド)のヤロチン(Jarotschin, 現Jarocin)に生まれたドイツのソプラノ歌手。ベルリン音楽大学で学び始めた当初はコントラルトでしたが、のちに名教師として知られたマリア・イヴォーギュンに師事、ソプラノに転向します。1938年、ベルリンでワーグナーの舞台神聖祝典劇『パルジファル』で魔法城の花園の乙女のひとりを歌ってデビュー。1943年にウィーン国立歌劇場と契約し、コロラトゥーラ・ソプラノとして活動を始めます。第2次世界大戦後、のちに夫となる英コロムビア・レコードのプロデューサー、ウォルター・レッグ(Walter Legge)と出会います。レッグはロッシーニの歌劇『セビリャの理髪師』のロジーナ役を歌うシュヴァルツコップを聴いて即座にレコーディング契約を申し出ますが、シュヴァルツコップはきちんとしたオーディションを求めたといいます。この要求に、レッグはヴォルフの歌曲『誰がお前を呼んだのか』(Wer rief dich denn)を様々な表情で繰り返し歌わせるというオーディションを一時間以上にもわたって行います。居合わせたヘルベルト・フォン・カラヤンが「あなたは余りにもサディスティックだ」とレッグに意見するほどでしたが、シュヴァルツコップは見事に応え、EMIとの専属録音契約を交わしました。以来、レッグはシュヴァルツコップのマネージャーと音楽上のパートナーとなり、1953年に二人は結婚します。カール・ベームに認められ、モーツァルトの歌劇『後宮からの誘拐』のブロントヒェンやリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタなどハイ・ソプラノの役を中心に活躍していましたが、レッグの勧めもあって次第にリリックなレパートリー、モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』伯爵夫人などに移行。バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭にも出演し、カラヤンやヴィルヘルム・フルトヴェングラーともしばしば共演します。1947年にはイギリスのコヴェントガーデン王立歌劇場に、1948年にはミラノ・スカラ座に、1964年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュー。1952年には、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』の元帥夫人をカラヤン指揮のミラノ・スカラ座で歌い大成功を収めます。以来、この元帥夫人役はシュヴァルツコップの代表的なレパートリーとなります。オペラ歌手としてもリート歌手としても、その完璧なテクニックと、並外れて知性的な分析力を駆使した優れた歌唱を行い20世紀最高のソプラノと称賛されました。ドイツ・リートの新しい時代を招来したとまで讃えられシューマンやリヒャルト・シュトラウス、マーラーの歌曲を得意とし、中でもとりわけヴォルフの作品を得意とし、1970年代に引退するまで男声のディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウと並んで最高のヴォルフ歌いと高く評価されています。1976年にオペラの舞台から、1979年には歌曲リサイタルからも引退し、後進の指導にあたっていました。2006年8月3日、オーストリア西部のフォアアルルベルク州シュルンスの自宅で死去。享年90歳。
1951年7月29日、バイロイト祝祭劇場でのウォルター・レッグによる録音。
US 	RCA 	LM6043	フルトヴェングラー 	ベートーヴェン…
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