34-19805

商品番号 34-19805

通販レコード→米ダーク・レッド黒文字盤

これがワルター唯一のマーラー交響曲第5番 ― マーラーと親密だった弟子として、早くから作品紹介に務めたブルーノ・ワルターのマーラー演奏には特別な説得力があります。マーラーがハンブルク歌劇場の音楽監督(1891年〜1897年)だった時代、その下で副指揮者を務めながら研鑽したワルターが唯一残したマーラーの交響曲5番は、ワルターがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督時代の録音です。全体的に速めですが、第1楽章のクセのない葬送行進曲から、第2楽章第1主題は激しさを増し、第2主題で叙情性強く変化させ王道の解釈。第3楽章第3主題はマーラーの「より遅く、落ち着いて」の指定が見事に展開されます。そして、ゆったりと冷静なアダージェットを経て、最終楽章は軽量軽快な第1主題と第2主題が絡みながらフィニッシュまでは迫力いっぱい盛り上げて、アッチェレランドを強烈に決めます。マーラーの演奏に関しては別格の完成度を見せる、このオーケストラとの共演ならではの深い理解に基づく美しく雄大な名演奏です。心臓病を患った後のコロムビア交響楽団との一連の録音よりドラマティックな感情の表出が烈しく、彼が本来歌劇場育ちだったことを思い起こさせる。20世紀の悲劇。数多くの優れた音楽家がナチス・ドイツの暴挙を嫌い、憤怒の涙を流しながらヨーロッパからアメリカに亡命した。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並び称されたドイツの大指揮者、ワルターもそのひとりである。一度も来日しなかったのに、今もなお日本で最もファンの多いワルターの指揮した『大地の歌』は現在、ライヴも含めると複数の録音が知られています。しかし、その中での双璧は1952年、キャスリーン・フェリアーが歌っている英デッカのモノラル録音と1960年、ミルドレッド・ミラーが歌って米コロムビア盤にステレオ録音した2種のセッションでしょう。ワルターの指揮によるフェリアーの黄金のコンビによるマーラー。このコンビの出会いは、1947年に「亡き子をしのぶ歌」によって共演したことから始まります。清冽で暖かみを持ち伸びやかな彼女の歌声は、指揮者の気に入るところとなり、後に数多くの録音を残すことになったのでした。ワルター指揮によるマーラーの「大地の歌」や「亡き子をしのぶ歌」の名唱は、フェリアーの録音は今なお決定盤と称えられています。ワルターも彼女の声の資質を高く評価し残された「大地」の録音のうち3回、彼女をソロに起用しました。「亡き子をしのぶ歌」の歌詞の内容は本来、愛児を亡くした父親の悲哀ですから、男声であるべきだという向きもありますが、フェリアーの歌唱技術は、そうした男声・女声の区別を超越した素晴らしさを持っていると、高く評価されています。フェリアーが当時有名な声楽教師であったバリトン歌手のロイ・ヘンダーソンについて学んだこと。卓越した指導者のもとにあったとはいえ、天賦の才能で、音楽と詩のひと次元高い合一を成就させてしまう歌手もいないではない。私はフェリアーがそうした人だったと思っている。
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最初から終わりまでほとんど変わりない遅いテンポで、しかも終曲を除いてはあまり劇的変化もないこの曲を、一貫した情緒で、じっとテンポを抑え、リズムを正確に歌うことは容易ではないし、また、漂うように起伏する表情が巧みに歌に出なかったら退屈になってしまうのであるが、フェリアーはいささかも崩れず乱れず、良く表情を出して微妙な変化を与えているところ、非凡な歌手に違いない。昭和28年(1953年)のレコード芸術6月号で「亡き子を偲ぶ歌」推薦盤として初めて彼女のレコードを紹介している。彼女を聴いて思うこと。楽器の音の美感は、多く人声を理想とする。そしてキャスリーン・フェリアーの声は、人の声の中でも、至高の美しさだった。フェリアーは1953年にわずか41歳の若さで亡くなりましたが、その馥郁たるコントラルトは不世出の声として歴史に刻まれています。彼女の歌う「マタイ受難曲」は伝説的名演として語り継がれているものです。この録音はDECCAの企画で1947年にセッションが始まったのですが、当時としてはあまりにも大曲であったためか、彼女の契約の関係で年内に録音が完了することはなく完成はその翌年まで持ち越されました。この入念な準備に裏打ちされた演奏、もちろん完成度の高さには目を見張るものがあります。フェリアーの声はコントラルト特有の深い豊かな共鳴の中に清冽で透明感ある気品が漂うもので、本盤もその特徴が如何なく出ているフェリアーの遺産の一枚。
声をエロティックなものとすることは、性的な差異としての役割とはほとんど関係がない。実際、もっともエロティックだと考えられる声、つまり聴く者がこれ以上ないほど魅了されてしまう声は、男性のものであろうと女性のものであろうと、性を超越していると言われるであろう声なのだ。つまり女性であれば低い声(キャスリーン・フェリアやマレーネ・ディートリッヒ)、男性であれば高い声(カストラートやテノール歌手)となる。ミッシェル・ポワザ:「オペラ、あるいは天使の歌声」
物悲しくも厳粛な歌声、高いレベルの音楽的才能。深く響く声を持つアルト歌手として、世界的名声を博したキャスリーン・フェリアー(Kathleen Ferrier)は、1912年4月22日にランカシャーに生まれ、1953年10月8日に乳がんのため41歳の若さでロンドンで没しています。ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラー、エイドリアン・ボールト、ジョン・バルビローリ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、エドゥアルト・ファン・ベイヌムら錚々たる指揮者達が賛美を惜しまなかったその歌唱は実に素晴らしく、独特の美しい艶ののった声質で豊かなコントラルトの響きを獲得した声は常に見事な水準に達していました。誰がつけたあざ名か「〝普通の〟ディーヴァ」とは言い得て妙。電話交換手で日々の生計を立てていたイギリスのランカシャーの貧しい田舎娘が金持ちのバンカーに見初められ、やがて好きだった音楽で身を立てようとコンクールに出る。 ところが得意だったピアノではなく、余技のはずのコントラルトのヴォーカルでロンドンの聴衆のみならず全世界のクラッシック愛好家から女神と崇められる ― 地母神と敬われるようになるのだから、運命とは皮肉なものだ。ベンジャミン・ブリテン、ワルター、マルコム・サージェント、バルビローリなど名だたるマエストロに愛されたのは、聴く者の胸の奥に飛び込んでくる一度聴いたら二度と忘れられない、低く、柔らかく、優しい声に、すべての人のお母さんのように懐かしい声音であったことである。エリーザベト・シューマン、ロッテ・レーマンの後継として、ドイツ・リートの第一人者の位置に立ち、また美貌を兼ね備えたオペラのプリマとして活躍したエリーザベト・シュヴァルツコップフはドイツ語の正確なディクションと抑えめがちな表現、そしてやや深みのある美しい声で、力業にはよらなくとも圧倒的な存在感を示しました。フェリアーは決してシュヴァルツコプフのような音楽的教養と解釈力をうかがわせる存在ではないと思うが、もって生まれた声の美しさと音色表現の豊かさで聴き手をその世界に引きつけて離さない。ブラームスの声楽付きの管弦楽曲「アルト・ラプソディ」やリヒャルト・シュトラウスの管弦楽伴奏の歌曲集「四つの厳粛な歌」のたとえようもない深みもさることながら、イギリス民謡や小唄の類で聴かせるなつかしい遠い世界は、他の誰が聴かせてくれるだろうか。まるで、放課後の音楽室から歌声がきこえてきて、窓からのぞくと可憐なお嬢さんが歌の稽古をしている光景が思い浮かんでくる。フェリアーの歌を聴くと、そんな気持ちにさせられます。数少ない録音の中でも彼女の深く柔らかい声で歌われる英国民謡は、子供を見つめる若い母親の眼差しのような優しさのこもったもの、ただ聞いているだけで、心の奥の軋んだ扉が開放されるような感動が広がってきます。かの英DECCAのカリスマ・プロデューサー、ジョン・カルショーもその著で「単純さと正直さこそが本質であるこの歌に、キャスリーンは苦もなく生命を吹き込むことができたのだった」と大絶賛しています。歌のスタイルも、感情に流されない清冽なもので、マーラーでもバロックでも、作品の味わいが自然に滲み出るかのような気品ある歌唱には、様式を超えた特別な魅力が備わっています。
声は拡散であり、浸透であり、肉体の全領域、すなわち、皮膚を通過する。声は通過であり、境界、階級、名前の廃絶であるから …... 幻覚を生む特殊な力を持っている。したがって、音楽は視覚とはまったく別の効果を持っている。そもそも人間の耳そのものが trans-sexual (性域外)のものに「天使的な崇高」を見出す傾向が多いという特徴を持っている。いわば、小鳥のさえずりから天使の声への「生成変化」が起きているのだ。オペラの究極的な美学とは、実はこのような trans-sexual な声によって人間に常軌を逸した恍惚を与えることにあった。マリア・カラスとレナータ・テバルディは好敵手とされたが、彼女同士は仲良しだった。どちらが優れたソプラノか、ヒロインになりきっているだとかと対比されるが、それぞれの歌声が聴くものの身体に浸透し、オーガズムを引き起こす歌声がどちらかということだろう。歌声の安定や演技の完璧さとは別な次元で、その声が恍惚とさせる歌手がいる。ソプラノがヒロインの声ならば、アルトは母声。キャスリーン・フェリアーの声はその温かみと馥郁たる豊かさに満ちた、まさに「母なる声」でありました。コントラルトというのはアルトとほとんど同義とされますが、厳密に言えばコントラルトはアルトよりもう少し低い声域を指すようです。もっとも近年はアルトとメゾソプラノもあまり区別がされないようで、総体に低い声域の女声歌手が少なくなっているように思われます。わたしはメゾソプラノの名歌手と云えばクリスタ・ルートビッヒがまず第一に思い浮かびますが、ルートビッヒは「薔薇の騎士」のマルシャリンも歌った声域の広い歌手で、本来は声色はやや明る目であるのに少し低く暗めの声をコントロールできる器量だろう。コントラルトはドイツ人女声歌手が主なところから、更に狭義な特色のある低く暗めの声のことを言うのだろうと思います。少女と若い女性と、年老いてからの声というのでなしに若くても子供に話しかける時の母性のあらわれた声というものでしょうか。そういう意味では、これがコントラルトと言える女声歌手は意外と少ない、現代においては特に少ないようです。アイドルグループがチヤホヤされる御時勢だから暗めの声は好まれないのでしょうかね。正真正銘のコントラルト歌手と云えるのはキャスリーン・フェリアーあるいはマリアン・アンダーソンといったところでしょう。マーラーの交響曲を一通り聴き進めていくうち、ワルターとの「大地の歌」、「亡き児を偲ぶ歌」は、ほとんどの人が必ず通る道である。個人的にもマーラーと親交の深かったワルターは当然のことながらマーラーの作品を好んで取り上げましたが、なかでも「大地」にもっとも親近感を覚えていたと言われます。彼は生涯この作品を5回録音していますが、その中でももっとも評価が高いのが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を率い、歌姫フェリアーをソロに迎えた1952年盤です。
ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日〜1962年2月17日)はドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア社(CBS)の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥーロ・トスカニーニの熱情や烈しさ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でのベートーヴェン〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。コロムビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。
天は永遠に青みわたり、大地はゆるぎなく立って、春来れば花咲く。けれど人間はどれだけ生きられるというのだ。
ブルーノ・ワルターが〝比類ない名演〟を残したのが、深い絆で結ばれていたマーラーの音楽だった。実質的に9番目の交響曲でありながら、「交響曲は9曲書くと死ぬ」というジンクスを嫌って交響曲と名付けなかった《大地の歌》の初演(1911年)を指揮したのも、ワルターだった。マーラーが高く評価していたワルターは、マーラーの死の半年後にこの曲を初演しました。マーラーは1908年の夏に、熱に浮かされたように中国の詩集をテキストにしたこの作品の創作に没頭しました。自分の苦悩と不安の全てをこの作品の中に注ぎこみました。それが「大地の歌」なのです。「5番」、「6番」、「7番」、「8番」の交響曲を作曲してきた次の声楽付きの交響的作品、彼は「大地の歌」を最初は9番のつもりで書き始めて、あとでこの番号を消したのでした。つまりマーラーは、この「大地の歌」に交響曲としての番号をつけることを避けようとしました。なぜならベートーヴェンもブルックナーも10番目にたどりつけなかったことから、第9交響曲という観念にひどくおびえていたからです。偉大な交響曲作曲家は9番以上は書けないという迷信におびえて、この作品を交響曲と呼ぶ勇気がなかったのです。そう呼ばずにおくことで、彼は運命の神様を出し抜いたつもりでいたのです。その後、現在の第9交響曲にとりかかっていたときに、妻アルマに「これは本当は10番なんだ。『大地の歌』が本当の9番だからね。これで危険は去ったというわけだ!」と思わず言わずには居られませんでした。あぁ、運命の歯車は動き出します。結局、彼は9番の初演には生きて立ち会うことができず、10番はついに完成にも至りませんでした。神様は間近で、その告白を聞いていたのです。
ベートーヴェンやモーツァルト、ブラームス、ハイドン、シューベルトなどの曲と違って室内楽的に個々の楽器が奏でられ、しかし大原則が潜んでいることに気が付かされる頃、それらが必然性を持って連携していて広大な宇宙を作っていく印象的な緊張感のある出だし。予想もつかない飛躍、劇的変化があり、しかしそれもやはり内的連関があって必然性がある。それらを一つの統一体にするところがマーラーの天才のなせる業であり、それをその通りに再現してくれるワルターの素晴らしさ。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏での疾走する緊張感にも比類ない感動があるが、コロムビア交響楽団による演奏では激しく、ブルーノ・ワルターが本来洞察していた姿を示してくれる。1938年録音のウィーン・フィルとの演奏は、この上ない素晴らしい演奏ですがワルター自身は、あの録音が異常な極限状態に置かれた場での演奏であったことから本当に自分が満足できるものではなかったことを何度か述べている。そして、このコロムビア響との演奏が自分の本来の演奏であることも述べている。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のインテンダントだったウォルフガング・シュトレーゼマンがカリフォルニアのワルター邸を訪問した際に、録音したばかりのマーラーの交響曲第9番とブルックナーの第9番のレコードを聴かせてくれ、「さながら目の前にオーケストラがあるように指揮をするのだった」と著書で述べている。これはワルターが完全に満足した演奏であることを証言している。本盤は録音状況がよく、かつ細部まで目届きされたマーラー解釈が濃縮されているコロムビア響との演奏である。多くの聴きてが初めて〝マーラーの第9番〟の本質に触れた記念碑的音盤だったに違いない。ワルターの没後、レナード・バーンスタイン(1965年)、オットー・クレンペラー(1967年)らの非常な名盤の登場によって一気に「交響曲第9番」の普及がすすむ原動力となっているのは確実だ。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の綺羅星の如く存在する名録音の中でも、最も突出した名演として知られるものの1つに、ブルーノ・ワルターが1960年5月29日に行った「マーラー生誕100周年記念祭公演」があります。記念祭が、まずカーネギー・ホールで行われ、ウィーンでもワルターが招かれ交響曲第4番をエリーザベト・シュヴァルツコップのソロで演奏している。マーラーの作品ではウィーン・フィルとの交響曲第9番(1938年録音)、キャスリーン・フェリアーが歌っている「大地の歌」(1952年録音)が昔から知られている2大名盤。それに、コロムビア交響楽団との交響曲第1番「巨人」(1961年録音)もワルターの意図をしっかりと汲んだ演奏になっている。レコーディングの仕事には戦前から積極的に取り組んでおり、1930年代のウィーン・フィルとの録音は絶品と評されている。芯からエネルギーに満ちた音楽でさえ、オーケストラの歌わせ方が実にしなやかで、繊細な響きはどこか妖しさをたたえている。温厚な男らしさでオーケストラを束ねたのはワルター唯一だ。クラシック音楽を聴きはじめた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者としてワルターの名前を覚えることになる。そして、勧められる名盤とされるレコード、CDのライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。しかし温厚とは女々しいことではない。アルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並ぶ、戦前、戦中、戦後を通して活躍して音楽好きを魅了した3大指揮者だが、ワルターだけは激をオーケストラに飛ばすことはなかった。尤も、1930年代の名録音はワルターが60歳前後であり、戦後のコロムビア響と一連の録音を行ったときは80歳になっていた。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きく、そして芯の部分が柔軟であってのことだろう。しかし、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。ワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はヨーロッパのオーケストラにある熟成された深みのある響きを、アメリカのオーケストラを使って自分なりのやり方で練り上げた。アルトゥル・ニキシュ、グスタフ・マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらした使徒ワルターの功績はそれ以上にある。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。その響きは若木ではないが枯れ木でもない。今が聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りがここにある。強さだけでなく大きさを増していくような、この指揮者の求心力がオーケストラの響き隅々に行き渡っている。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺すために組織されたコロムビア響とのセッションに専心し、1962年2月17日に85歳で亡くなった。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、オランダ・フィリップス・レーベルにはクララ・ハスキルやアルテュール・グリュミオー、パブロ・カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、ヴィヴァルディの協奏曲集「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から1960年にかけてのレコードには、本盤も含め米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をオランダ・アムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。
交響曲第5番は1947年2月10日、ニューヨークフィルの本拠地であったカーネギーホールでライブ録音されました。意外なことに、これがワルター唯一のマーラー交響曲第5番の録音です。『亡き子を偲ぶ歌』はブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、キャスリーン・フェリアー(コントラルト)、1949年10月4日ロンドン、キングスウェイ・ホール録音。
US odyssey 32 26 0016 ブルーノ・ワルター マー…
US odyssey 32 26 0016 ブルーノ・ワルター マー…
マーラー:交響曲第5番
ニューヨーク・フィルハーモニック
ソニー・ミュージックレコーズ
1996-04-21