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馥郁とした古典的名演 ― 〝新即物主義の旗手〟として、高い評価を得ていたヴァルター・ギーゼキングの美質を引き立てていくカラヤンの巧みな指揮ぶりが耳に残ります。いつもの事ながらギーゼキングの演奏は独特な快活さで早めのテンポ設定。スカットする演奏スタイルで、決して自分のスタイルを聴衆に押しつけるような演奏はしない。しかし、受け手に勝手な想像をさせる表現ではない。そんなギーゼキングに影響されてかヘルベルト・フォン・カラヤンも丁寧で美しく素直に伴奏に取り組んでいる。カラヤンのフィルハーモニア管弦楽団時代には、良さがある。地方の小劇場でキャリアを始めた頃の、オーケストラの楽団員や歌手、合唱団員との意思疎通はフィルハーモニア管弦楽団の名手たちと協調し合いながらの関係で仕事をしていたのが想像できる。純粋で美しい表現を求めたカラヤンの演奏もあったのだと分かる、この演奏は好演である。昨年は鶴屋での鑑賞会で、3回に分けて説明しましたが商業録音としては、光学式も含めると1940年のレオポルド・ストコフスキーのファンタジアが最初のステレオ録音である。そしてレコードのための、クラシック音楽のまとまった作品全曲のステレオ・テープ録音としては、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』が、戦時下のベルリンでおこなわれたマグネトフォンによるステレオ・レコーディングが現存する最古のものとされています。これがリリースされた時は、「爆撃音が聞こえる」とも話題になった。第二次大戦末期の1945年1月23日、当時のベルリンは連合軍から空爆を受けており、この『皇帝』の録音でも一部の弱音部で爆撃とも高射砲ともとれる音を遠くに聞くことができます。そうした危険な環境下で、ギーゼキングで見事な演奏が行われたことには驚くほかありません。第二次大戦中にドイツの帝国放送局が行なったステレオ録音のテープは現在、5点が確認されていますが、ギーゼキングの『皇帝』以外は一部の楽章でしかない。光学式のステレオ録音が良好だったのは納得しやすいですが、モノラル録音で無いためか、1960年代の録音といわれても不思議ではないくらいで、とても戦時中とは思えない高音質に感動。当時のドイツの音響通信技術水準の高さを改めて確認できます。戦後、ベルリンを占領したソ連軍が放送局の機材やアーカイブを全て持ち去ってしまい、ステレオ録音技術が断絶してしまったことが残念でなりません。
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趣味とはいえ「蝶類研究」の分野でも名の知れた顔を持っていたヴァルター・ギーゼキングはフランスのリヨン生まれでドイツで活躍したピアニストですが、彼はまた世界で初めて「ピアノのために書かれた作品は全て演奏できる」と公言したピアニストでもありました。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの古典派から印象派、そして現代音楽のブゾーニ、シェーンベルク作品に至るまでもが彼のレパートリーとなっていました。特にモーツァルトやベートーヴェン、フランス印象派ドビュッシーの演奏は定評があり語り継がれている。ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲では、ギーゼキングの演奏は曲の分析力が明晰であったことで、当時のつたないSPレコード初期のアコースティック録音にもかかわらず、ニュアンスに富んだ繊細な音色と多彩な表情の変化に満ちている。ドビュッシーやラヴェルといった、繊細な音楽がよく聴き取れるレコードとなっていた。こうした特長のために、学習者の模範として使われてきただけでなく、後世のピアニストからはドビュッシーやラヴェル演奏の完成者として、到達目標として仰がれたのである。さて「皇帝」はベートーヴェンがつけた愛称ではないそうです。かつてベートーヴェンが交響曲第3番を奉げ様としたほど尊敬していたナポレオンが自ら「皇帝」に就いたので激怒、失望し、「ナポレオンのために」と書いた表紙を破り捨て「ある偉人の思い出のために」と書き換えたと伝わっています。そのナポレオンが率いるフランス軍がオーストリアを攻め、ウィーンを落とした年の1809年に大砲轟く中、完成させた。正にいわく因縁がある。べートーヴェンが俗物というナポレオンのイメージで「皇帝」と呼ぶ訳が無いですね。この曲をお聴きになれば壮大で華麗で、大きく構築されている音楽と感じられ、誰でも理念の「皇帝」と呼びたくなるでしょう。
ヴァルター・ギーゼキングは、死去から半世紀を迎えた今なお、伝説のピアニストとして語り継がれてギーゼキングのレコードは何度も回を重ねて発売され、今尚倒産の危機に瀕していた英EMIの屋台裏を支えてたと言っても過言で無いのではと思えるほど。最早、貴重な文化財という側面を持っているのではと接しています。ギーゼキングの演奏はそのしっかりとした古典的な造形や盤石な楽曲の構築、そしてヴィルトオージティに裏打ちされた艶のある陰影を醸し出す美音等が特色ですが、本盤の演奏にも見事にこのことが当てはまります。本盤は、聴けばギーゼキングの演奏は曲の分析力が明晰で、盤石な構築の上に繰り広げられるビロードのような美音、ここでは一音たりとも彼の美学から逸した音を聞くことはありません。当時の拙いモノラル録音ながら音質はかなり良い。録音プロデューサーのウォルター・レッグ等の技術の良さも光る。ニュアンスに富んだ繊細な音色と、多彩な表情の変化が如実に聴き取れる。その上、演奏技巧に欠点がない。曲の解釈においても迷いが無く、凄い速さで押し切る気分爽快の快演。ギーゼキングのピアノ書法は、卓越した演奏技巧により、いささかの曖昧さも残さずベートーヴェンを完全にリアライズする。ギーゼキングの凄まじいまでのテクニックに裏打ちされたピアノの音が、ベートーヴェンの精神にそのまま直結し、作品に肉薄して終楽章を迎えるあたりは見事という他はありません。そしてギーゼキングのピアノ・テクニックの素晴らしさに若きヘルベルト・フォン・カラヤン(録音当時43歳、1951年)の感性が見事にマッチしたがっしりとした「皇帝」を聴かせている。カラヤンとギーゼキングのコンビで、この「皇帝」のほか協奏曲第4番ト長調作品58、グリーグのピアノ協奏曲イ短調作品16、フランクのピアノと管弦楽のための交響的変奏曲、モーツアルトのピアノ協奏曲第23番イ長調 K.488 の4作品を1週間足らずで一気にレコーディングしている。彼らのエネルギッシュな取り組みには驚かされる。このギーゼキングとの協奏曲集はカラヤンのフィルハーモニア時代の総ての録音の中でも屈指の名盤です。何よりもギーゼキングのピアニズムが聞くものを圧倒します。この時ギーゼキングは既に56歳~58歳。決してもう若いとはいえない年齢です。しかし彼のピアニズムは衰えを感じさせるどころか、豪快なテクニックと円熟の極みともいえる音色を聞かせてくれるのですから凄い。
ヴァルター・ギーゼキングというと、モーツァルト、ラヴェル、ドビュッシーのピアノ作品全集の録音で、カタログから落ちることはなく、未だにその高い評価は変わらない。レパートリーは広く、スカルラッティやバッハはもちろん、当時の現代音楽にも積極的で、録音があるだけでも、カセッラ、カステルヌォーヴォ=テデスコ、フォルトナー、ヒンデミット、プフィッツナー、ピストン、プーランク、ルーセル、トラップ、ヴィラ=ロボス等まで、しかも国を問わずに演奏してます。もちろんラヴェルもラフマニノフも、当時の「現代音楽」だったわけですが。これに比して、彼のベートーヴェンの録音となると、あまり評価は高くはない。そこには同じドイツ系のピアニストだと、同年齢のヴィルヘルム・ケンプは言うに及ばず、先輩のヴィルヘルム・バックハウスやアルトゥル・シュナーベル等が、いずれも全曲を録音していることにあるだろう。もっともギーゼキングは、20歳の時のデビューリサイタルで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲演奏会を行っており、戦前からピアノ・ソナタのみならず、協奏曲も録音してるほどのベートーヴェン弾き。ギーゼキングは戦前から度々渡米しており、高い評価を受けてました。しかし、大戦中にドイツに留まったため、ナチ協力者の嫌疑をかけられました。もちろん非ナチ化裁判で無罪となってます。そんな訳で、1949年の戦後最初の米国公演は、ユダヤ系団体をはじめとするグループの妨害によりキャンセルとなりました。彼の米国楽壇への復帰は1953年になってからで、その後1955年と没年の1956年にも訪米し、絶賛を浴びてます。この1956年の米国ツアーについてのニューヨークの新聞評が、「ギーゼキングはまたしても楽界随一のピアニストであることを証明した」と絶賛したほど。ギーゼキングは190㎝、体重100㎏ほどの巨漢だったと伝えられ、ピアノの弦が切れんばかりのフォルティッシモの爆発力はそれ相応に凄いですが、それ以上にその体躯からは想像の出来ない繊細なピアニッシモのコントロールの巧みさ、そしてバックハウスとは対照的なペダルの細心のコントロールで、音の混濁が極めて少ないことが特徴の一つです。両者の同じ曲の演奏を比べると、ペダルをよく言えば鷹揚に、悪く言えば無頓着に踏みっぱなしのバックハウスとは、ほんとうに対照的。むしろ極力ペダルに頼らない奏法にあるように思います。来日公演で聴衆を驚嘆させたという多彩な音は片鱗しか窺い知れないのは残念だ。戦前には晩年より激しい演奏が多く、晩年のモーツアルトと同じ人とは思えないほどの、乱暴と言ってよいほどのものもあるが、他のドイツ系の演奏家のようにタメをつくるタイプではないので、直接懐に飛び込んでくるような直裁さである。ギーゼキングは亡くなる直前にベートーヴェンのソナタ全集に着手しながら⅓程度を残して急逝したのが惜しまれるのだが、これらの作曲家だけを録音してた訳ではなく、早すぎる晩年にはこれらの録音と並行して、シューベルト、シューマン、ブラームス、メンデルスゾーン、グリーグ等の作品も大量に録音してます。そしてEMIへの商業録音とは別に、大量の放送用の録音を残しています。特に彼が戦後音楽院の教授を務めていたザールブリュッケンにあるザールラント放送協会が、相当数の録音を残していて、その中にベートーヴェンのピアノ・ソナタがあります。この中には、EMIには録音できず終いだった「ハンマークラヴィーア」も含まれてます。晩年には自宅スタジオでの録音もしている。
ヴァルター・ギーゼキング(Walter Wilhelm Gieseking)は1895年11月5日フランスのリヨン生まれのピアニスト。1956年10月26日、ロンドンにて没。両親はドイツ人だったため、ファミリーネームがドイツ名となっている。4歳でピアノを始め、5歳で読み書きができるほどの神童で6歳でシューマンの「幻想曲」を弾いたという逸話が残っている。両親はピアノの才能を伸ばすために北ドイツに戻り、ハノーヴァー市立音楽院に16歳で入学、1911年から音楽院の名教師カール・ライマーの元で新しいピアノ演奏のシステムの指導を受ける。1913年にはコンサートデビューし、このコンサートは大成功を収めた。その後もリサイタルを開き、特に1915年、20歳でベートーヴェンのピアノソナタ全曲演奏会は大きな話題となった。1916年に同音楽院を卒業したが、本格的な演奏活動は第1次大戦後となった。1920年からはベルリンを皮切りにヨーロッパ、1926年からはアメリカデビューも果たし、特に本人の自伝によると1937年の演奏会で名声を確立したということである。ギーゼキングは世界中で行う演奏会や録音に加え、レッスンも行う鉄人であったらしい。そしてその異常なスケジュールをこなす事が出来たのは素晴らしい記憶力のおかげであったという。録音も暗譜で行い、新曲も軽く目を通しただけで演奏ができたということである。レパートリーはドイツの作曲家やフランスの作曲家でベートーヴェンやモーツァルト、ラヴェルやドビュッシーを得意とした。政治的には全く関心が無く、彼の興味は蝶の標本収集と音楽だった。そのためナチスが台頭してきた際も第2次大戦中も亡命せずにコンサートを続けたため、戦後はナチ協力容疑で取り調べを受け戦後のアメリカ公演も一度は流れることとなった。親即物主義の作曲家、ヒンデミットやプフィツナーの現代音楽を積極的に紹介したため親即物主義の信奉者とみなされがちだが、メカニックな意味で「楽譜に忠実」なのではなく作曲家の精神に忠実な演奏であった。「モーツァルト弾き」と「ラヴェル・ドビュッシーの大家」という2つの顔を持ち、その両方で他の追随を許さなかった。録音では戦前より長く英コロムビアの専属ピアニストとして活躍し、とくにモーツァルト、ドビュッシー、ラヴェルのピアノ作品全集は歴史的名盤として知られています。1951年、自動車事故。1953年には戦後初めてのアメリカ公演を実現したが、1955年の秋に乗っていたバスが事故を起こし、夫人を喪い、自身も2度目の重傷を負います。しかし、復帰した翌年の1956年、その喪も明けやらぬうちに、ロンドンにて録音中に体調を崩し、死去。円熟の最中、60歳で亡くなったため全曲録音を目指していたベートーヴェンのピアノ・ソナタ録音は未完に終わり、バッハ作品も戦後のレコード録音が残りませんでした。ところがギーゼキングはレコード録音と並行して各地の放送局にまとまった分量の放送録音を行っており、バッハの主要作品については1950年1月~6月、ザールブリュッケン放送局に録音していました。これを1970年、ドイツ・グラモフォンがレコード化の権利を獲得しヘリオドール・レーベルで次々とLP化し、一部は日本でも発売され大きな話題を呼びました。透明で美しい音色と完璧な技巧で20世紀を代表する名ピアニスト。
ギーゼキング&カラヤン名演集
カラヤン(ヘルベルト・フォン),フィルハーモニア管弦楽団 ギーゼキング(ワルター)
EMIミュージック・ジャパン
2008-03-26

1951年6月、モノラル・セッション録音。
US COL ML4623 ギーゼキング&カラヤン ベートーヴェン・…
US COL ML4623 ギーゼキング&カラヤン ベートーヴェン・…
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