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ワルター最晩年にして初のステレオ録音。

ワルター晩年のマーラー、ステレオ録音はいずれも素晴らしい出来栄えだけど、ニューヨーク・フィルとの『復活』も絶対に外せない名盤。どう考えてもかなりいびつな構成をもつこの曲が、古典的な均衡をもつ名曲としか聞こえない不思議。

マーラーと親密だった弟子として、早くから作品紹介に務めたブルーノ・ワルターのマーラー演奏には特別な説得力があります。直接教えを受け止めて、マーラーの副指揮者を務めたワルターならではの深い理解に基づく美しく雄大な名演奏です。但し、ワルターはマーラーが事細かにスコアに書き込んだ指示をあまり忠実には守っていません。この録音を聞くと、「わかりやすく、多くの人に親しんでもらおう」というワルターワールド全開の圧倒的な世界が展開されます。現在ではそのいびつさもマーラーの音楽のえぐみとしての味わいなのですが、1950年代の次に来た、1960年代には共有されていた志向ではなかったのか、ゲオルグ・ショルティ指揮ロンドン交響楽団のDECCA盤を経て、RCAのユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団の豊麗な響きで以て、威厳を持って進行される名盤に至って完結しているように思える。晩年は80歳を越えた時、一時は引退を表明して米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア社の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音のカタログを充実させたいというレコード録音を開始。この『復活』は、その彼のステレオ録音の最初の1枚となったものです。やがて本格化するレコードのためのオーケストラ、コロンビア交響楽団ではなく、マーラーの演奏に関しては別格の完成度を見せる嘗ての手兵ニューヨーク・フィルハーモニックを、マーラーの弟子であったワルターが指揮してステレオで最初にとりあげたのが『復活』だったというのはまさに僥倖であったといえるでしょう。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じ。ワルターのステレオ録音が聴けるとは、米コロムビア社の英断に感謝せずにはいられません。20世紀の悲劇。数多くの優れた音楽家が、ナチス・ドイツの暴挙を嫌い、憤怒の涙を流しながらヨーロッパからアメリカに亡命した。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並び称されたドイツの大指揮者、ワルターもそのひとりである。一度も来日しなかったのに、今もなお日本で最もファンの多いワルターの指揮したマーラーの『大地の歌』は現在、ライヴも含めると複数の録音が知られています。ワルターはグスタフ・マーラーに才能を認められ、20世紀初頭にウィーンとミュンヘンの宮廷歌劇場で名をあげた。ナチス台頭後もしばらくヨーロッパにとどまっていたが、1939年に渡米、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めた。戦後、ヨーロッパの楽壇に復帰し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺したいという米コロムビアのプロデューサーからの誘いに絆されます。本盤を聞きながら、引退していたワルターを引っ張り出し、『マーラー直弟子のワルターが伝えるマーラー解釈の神髄。』とコピーが常套句になっていますがワルターの心情はどうだったのか、と考えます。この録音はニューヨーク・フィルとウェストミンスター合唱団。あとに続くレコードのためのオーケストラのとは違ったんじゃないか。ドイツものとしてマーラーを録音できることに特別な思いを強くしたのではないか。レコードを聴くと穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような、独特の味わいがあります。低音域を充実させたドイツ的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演。マーラーも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の一人だったように思う。マーラー直系の愛弟子ですから、当然と言えば当然ですが、同じユダヤ人として時代を共有したものでなければなし得ない強い共感に満ちあふれた演奏を聴かせている。歴史的名盤といえる録音だ。
  • Record Karte
  • 1958年2月ニューヨーク、カーネギー・ホールでのステレオ、セッション録音。ジョン・マックルーアの制作。2枚組。
  • US COLUMBIA M2S 601 ワルター/ニューヨークフィル…
  • US COLUMBIA M2S 601 ワルター/ニューヨークフィル…
マーラー:交響曲第1番「巨人」・第2番「復活」・第9番・大地の歌(完全生産限定盤)
ブルーノ・ワルター
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
2020-03-18

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ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日〜1962年2月17日)はドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア社(CBS)の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でのベートーヴェン〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSPレコード盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。コロムビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。
ブルーノ・ワルターが〝比類ない名演〟を残したのが、深い絆で結ばれていたマーラーの音楽だった。実質的に9番目の交響曲でありながら、「交響曲は9曲書くと死ぬ」というジンクスを嫌って交響曲と名付けなかった《大地の歌》の初演(1911年)を指揮したのも、ワルターだった。マーラーが高く評価していたワルターは、マーラーの死の半年後にこの曲を初演しました。マーラーは1908年の夏に、熱に浮かされたように中国の詩集をテキストにしたこの作品の創作に没頭しました。自分の苦悩と不安の全てをこの作品の中に注ぎこみました。それが「大地の歌」なのです。「5番」、「6番」、「7番」、「8番」の交響曲を作曲してきた次の声楽付きの交響的作品、彼は「大地の歌」を最初は9番のつもりで書き始めて、あとでこの番号を消したのでした。つまりマーラーは、この「大地の歌」に交響曲としての番号をつけることを避けようとしました。なぜならベートーヴェンもブルックナーも10番目にたどりつけなかったことから、第9交響曲という観念にひどくおびえていたからです。偉大な交響曲作曲家は9番以上は書けないという迷信に怯えて、この作品を交響曲と呼ぶ勇気がなかったのです。そう呼ばずにおくことで、彼は運命の神様を出し抜いたつもりでいたのです。しかし ... その後、現在の第9交響曲にとりかかっていたときに、マーラーは妻アルマに「これは本当は10番なんだ。『大地の歌』が本当の9番だからね。これで危険は去ったというわけだ!」と思わず言わずには居られませんでした。その時、あぁ、運命の歯車は動き出します。結局、彼は9番の初演には生きて立ち会うことができず、10番はついに完成にも至りませんでした。神様は間近で、その告白を聞いていたのです。ベートーヴェンやモーツァルト、ブラームス、ハイドン、シューベルトなどの曲と違って室内楽的に個々の楽器が奏でられ、しかし大原則が潜んでいることに気が付かされる頃、それらが必然性を持って連携していて広大な宇宙を作っていく印象的な緊張感のある出だし。予想もつかない飛躍、劇的変化があり、しかしそれもやはり内的連関があって必然性がある。それらを一つの統一体にするところがマーラーの天才のなせる業であり、それをその通りに再現してくれるワルターの素晴らしさ。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏での疾走する緊張感にも比類ない感動があるが、コロムビア交響楽団による演奏では激しく、ワルターが本来洞察していた姿を示してくれる。1938年録音のウィーン・フィルとの演奏は、この上ない素晴らしい演奏ですがワルター自身は、あの録音が異常な極限状態に置かれた場での演奏であったことから本当に自分が満足できるものではなかったことを何度か述べている。そして、このコロムビア響との演奏が自分の本来の演奏であることも述べている。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のインテンダントだったウォルフガング・シュトレーゼマンがカリフォルニアのワルター邸を訪問した際に、録音したばかりのマーラーの第9番とブルックナーの第9番のレコードを聴かせてくれ、「さながら目の前にオーケストラがあるように指揮をするのだった」と著書で述べている。これはワルターが完全に満足した演奏であることを証言している。本盤は録音状況がよく、かつ細部まで目届きされたマーラー解釈が濃縮されているコロムビア響との演奏である。多くの聴きてが初めて〝マーラーの第9番〟の本質に触れた記念碑的音盤だったに違いない。ワルターの没後、レナード・バーンスタイン(1965年)、オットー・クレンペラー(1967年)らの非常な名盤の登場によって一気に「交響曲第9番」の普及がすすむ原動力となっているのは確実だ。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の綺羅星の如く存在する名録音の中でも、最も突出した名演として知られるものの1つに、ブルーノ・ワルターが1960年5月29日に行った「マーラー生誕100周年記念祭公演」があります。記念祭が、まずニューヨークのカーネギー・ホールで行われ、ウィーンでもワルターが招かれ交響曲第4番をエリーザベト・シュヴァルツコップのソロで演奏している。グスタフ・マーラーの作品ではウィーン・フィルとの交響曲第9番(1938年録音)、キャスリーン・フェリアーが歌っている「大地の歌」(1952年録音)が昔から知られている2大名盤。それに、コロムビア交響楽団との交響曲第1番「巨人」(1961年録音)もワルターの意図をしっかりと汲んだ演奏になっている。レコーディングの仕事には戦前から積極的に取り組んでおり、1930年代のウィーン・フィルとの録音は絶品と評されている。芯からエネルギーに満ちた音楽でさえ、オーケストラの歌わせ方が実にしなやかで、繊細な響きはどこか妖しさを湛えている。温厚な男らしさでオーケストラを束ねたのはワルター唯一だ。クラシック音楽を聴き初めた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者としてワルターの名前を覚えることになる。そして、勧められる名盤とされるレコード、CDのライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。しかし温厚とは女々しいことではない。アルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並ぶ、戦前、戦中、戦後を通して活躍して音楽好きを魅了した3大指揮者だが、ワルターだけは激をオーケストラに飛ばすことはなかった。尤も、1930年代の名録音はワルターが60歳前後であり、戦後のコロムビア響と一連の録音を行ったときは80歳になっていた。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きく、そして芯の部分が柔軟であってのことだろう。しかし、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。ワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はヨーロッパのオーケストラにある熟成された深みのある響きを、アメリカのオーケストラを使って自分なりのやり方で練り上げた。アルトゥル・ニキシュ、マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらした使徒ワルターの功績はそれ以上にある。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。その響きは若木ではないが枯れ木でもない。今が聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りがここにある。強さだけでなく大きさを増していくような、この指揮者の求心力がオーケストラの響き隅々に行き渡っている。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺すために組織されたコロムビア響とのセッションに専心し、1962年2月17日に85歳で亡くなった。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはクララ・ハスキルやアルテュール・グリュミオー、パブロ・カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。
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