ワルターの、終始優しい眼差しもった明るい響きはロマン的 ― と題されるこの曲に相応しいものです。ブルックナーの最初の成功作となった《交響曲第4番》の特徴は、彼自身が付けた「ロマンチック」という副題が雄弁に語っている。これはドイツの奥深い森で味わう神秘的な感情をあらわしており、ベルリオーズやリストのような標題音楽と誤解されてはならない。ベートーヴェンの「田園交響曲」と同じように、ブルックナーの大自然に対する限りない愛情を盛り込んだもの、とでも思えば良い。そこには自然への憧れ、「遠い昔」への郷愁、神秘的幻想などが込められており、時代を超えて、私たちをそうした世界へと誘ってくれる。しかしブルックナーは無邪気にも、そういった誤解を招くような説明を、この交響曲に加えている。一種のこじつけであろうが彼は、この曲の第1楽章をワーグナーの歌劇「ローエングリーン」第2幕に出てくるような中世の情景画として説明している。自筆譜の作曲家自身の書き込みは物語的だ。「中世の町 ― 夜明け ― リンツの教会の塔から朝を知らせるラッパが吹かれる」 ― 朝霧を思わせる〝ブルックナー開始〟から、のどかなホルン独奏の第1主題が登場。夜が明けるようにクレシェンドした後、〝ブルックナー・リズム〟の副楽想が登場する。「目覚めた町の門が開かれ、馬に乗った騎士たちが野外へと駆け出す ― 森のささやき」 ― 2つの旋律が同時に歌われる第2主題は、ブルックナーが生まれ故郷の上部オーストリアでよく聴いた「チチチッ」というヤマガラの鳴き声に由来している。ホルンとテューバなどが力強くブルックナー・リズムを吹き下ろすと、それが第3主題である。深い深い霧の中から、何かが次第に姿を表してくるかのような、こうした手法はブルックナー一流のもので、これを称して俗に「原始霧」といっている。彼の他の交響曲によく見られるミサ曲からの旋律の引用が全く無く、明るくまたやわらかな変ホ長調がとられ、0番から3番までの交響曲に見られた悲劇的、あるいは神秘的な雰囲気から脱したオプティミスティック、あるいはロマンティックなものが感じられる。ブルックナーの音楽には、いたるところに素朴なオーストリアの風光が潜んでいるのだ。ブルーノ・ワルター盤はオーケストラの響きがやや薄手で明るすぎるのが欠点だが、ブルックナーの世界に陶酔しながらも、一点一画も疎かにせず、精緻に優麗に田園的情緒を豊かに描き出している点が素晴らしい。ブラスの輝き、弦の艶、内声部の明確さなど、鮮烈な音で再現されていきます。ロマン主義の白鳥の歌とされるブルックナーの交響曲と、前世紀のクラシック音楽のロマンの名残をとどめたワルターの音楽。「ロマンティック」をワルターは輝かしい響きで完全に演奏した名盤です。
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ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日〜1962年2月17日)はドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロンビア社(CBS)の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥーロ・トスカニーニの熱情や烈しさ、ウィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団での〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。ワルターの演奏スタイルの変遷を簡潔な言葉で表すと、戦前の典雅、戦後の雄渾、晩年の枯淡ということになると思う。コロムビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、彼は20年間で成熟をし続け、枯れることなく円熟に円熟を重ねることができた。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きくなければ、そして芯の部分が柔軟でなければ、こういう円熟の仕方は出来ない。ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、オランダ・フィリップス・レーベルにはクララ・ハスキルやアルテュール・グリュミオー、パブロ・カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、ヴィヴァルディの協奏曲集「四季」(和声と調和の試み作品8)であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。レコード産業としては、英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から1960年にかけてのレコードには、米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。フィリップスは1982年10月21日コンパクト・ディスク・ソフトの発売を開始する。ヘルベルト・フォン・カラヤンとのCD発表の華々しいCD第1号はイ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ作曲の協奏曲集「四季」 ― CD番号:410 001-2。1982年7月のデジタル録音。現在は、フィリップス・サウンドを継承してきたポリヒムニア・インターナショナルが、これら名録音をDSDリマスタリングし、SACDハイブリッド化しています。
1960年2月13,15,17,25日、1961年3月24,27日ハリウッド、アメリカン・リージョン・ホールでのセッション、ステレオ録音。ジョン・マックルーアの制作。
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