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政治と芸術の狭間の市民生活に心痛めるフルトヴェングラーのブラームスは、曲の精神が要求した必然の結果 ― フルトヴェングラー/ベルリン・フィルの戦時中のライヴ録音の中でも、最も濃厚、強烈と言われる演奏。当日はオール・ブラームス・プログラムで、この他にハイドンの主題による変奏曲、エッシュバッハをピアノに迎え、ピアノ協奏曲の第2番が演奏されました。1945年1月に連合国側によりベルリンが空爆される一年余り以前の記録、その黄金ホールに繰り広げられたフルトヴェングラー芸術の緊張感ある演奏が今回のブラームスではっきりとうかがえます。1943年の録音であっても、その記録に弦楽器、管楽器の合奏アンサンブルの妙技性、はたまた、ティンパニー音楽開始の一打に、ホールの空間が実感させられて、素晴らしい事、この上ない。なにより、オーケストラ演奏の緊張感が伝えられるとき、音楽を鑑賞するベルリン市民聴衆の姿が浮かび上がる。何にも代えられない、フルトヴェングラー、その必死の指揮姿を思い浮かべられるのは、正にこのひと時以外に、なかなか経験できる世界ではありえない。フルトヴェングラーが指揮するベルリン・フィルの演奏会は、ヒットラーが政権を維持していた時期であり明らかに戦況は悪化していく、その只中にある。戦争状況の中でベートーヴェンやブラームスの音楽を求める市民の胸中を想像するに、政治と芸術の狭間の市民生活に心痛める。そこを想像せずに、この記録再生を過ごすことはありえない。特に民主主義は一人一票の政治体制、人々の死線を左右する政治家は、この事実を、いかに受け止めるのであろうか。市民の側の立場として、しっかり、体制選択を志向する責任こそ求められるのではないか。責任の所在は政治家にこそあり、一蓮托生の市民生活に、真に意義ある芸術体験に導かんとフルトヴェングラーは決死の覚悟で指揮をしている。
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フルトヴェングラーのライヴ音源は音楽ファンの間で需要が高く、その死後、つまり本人の許可無くレコード、CDとして市販されたものがかなりの割合を占めています。これだけ同曲異演が増えてくると愛好家、批評家から出来不出来をこまかく指摘される羽目になりますが果たして指揮者本人が満足する演奏だったのかどうか、という問題が第一にあります。今一つの重要点としては、実況盤は聴衆向けに行われた演奏を家庭での反復鑑賞という別目的に利用するものであって、レコードの感銘度が低い場合も安易に奏者の芸術性を否定できないという事です。素直に感動できる時は自分の耳を信じればよいですが、断じて会場でしか良さが伝わらない名演だってある。クラシック音楽のタイプには、聴衆を前に演奏されたほうが良い効果を生む音楽が多いと思えるのです。このブラームスについては、レコードとしても感銘を受ける要素が充分にあると思います。晩年のブラームスの孤独な寂寥感と枯れきった心境、それは主観的にしか捉えがたい、深い川底を流れるごとき感情であり、作品への共感や感動というものが、真実を導き出すのにどれほど確かな力を持つか ― この事をフルトヴェングラーは身をもって証明しています。彼は重く厳しい人生的な命題を提示します。悲観主義とも言われるその宿命的な悲劇性は、強い表現欲により凡庸なセンチメンタリズムを超克する意思を持っていると言えるでしょう。理智を欠いた「爆演」という種類のものではなく、高い教養を思わせる音色と造形美の上に成り立った音楽である点も見逃してはならないと思います。しかし、この時のフルトヴェングラーのブラームスには、曲の精神が要求した必然の結果のように聴こえます。全く機械的ではない指揮振りからも推測されるように、楽曲のテンポの緩急が他の指揮者に比べて非常に多いと感じます。しかし移り変わりがスムーズなため我々聴き手は否応なくその音楽の波に揺さぶられてしまうのである。フルトヴェングラーはブラームスを評して「非常に客観的な音楽家」といい、「音楽における客観とは、音楽と精神、精神と音楽が結び付いてひとつになった時に起こるのである」といっています。この偉大な指揮者はブラームスの音楽は彼の哲学そのものであると喝破したのです。それがドイツの交響曲に対する彼の表現方法なのだろう。そしてベルリン・フィルハーモニーの世界的水準と大指揮者の芸術性は、すぐれた聴衆を育てたばかりでなく、反対に彼らの深い理解にも支えられていたという事実を、このすばらしい実況録音から感じ取る人も多いと思われます。
フルトヴェングラーは自身の著書「音と言葉」のなかで、ベートーヴェンの音楽についてこのように語っています。『ベートーヴェンは古典形式の作曲家ですが、恐るべき内容の緊迫が形式的な構造の厳しさを要求しています。その生命にあふれた内心の経過が、もし演奏家によって、その演奏の度ごとに新しく体験され、情感によって感動されなかったならば、そこに杓子定規的な「演奏ずれ」のした印象が出てきて「弾き疲れ」のしたものみたいになります。形式そのものが最も重要であるかのような印象を与え、ベートーヴェンはただの「古典の作曲家」になってしまいます。』その思いを伝えようとしている。伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたカラヤンとの違いでしょう。その音楽を探求するためには、ナチスドイツから自身の音楽を実体化させるに必要な楽団を守ることに全力を取られた。そういう遠回りの中でベートーヴェンだけが残った。やはりフルトヴェングラーに最も適しているのはベートーヴェンの音楽だと思います。カラヤンとは異世界感のシロモノで、抗わずに全身全霊を込めて暖かい弦楽器が歌心一杯に歌い上げた演奏で感動的である。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。
先輩格のアルトゥール・ニキッシュ(Nikisch Artúr)から習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。戦前、ベルリン・フィルハーモニーやウィーン・フィルハーモニーをヨーロッパの主要都市で演奏させたのは、ナチスの政策の悪いイメージをカモフラージュするためであった。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任しナチス政権が始まった。25歳のヘルベルト・フォン・カラヤンは、この年の4月8日、オーストリアのザルツブルクでナチスに入党した。カラヤンはそれからすぐにドイツのケルンにおもむき、同年5月1日、党員番号3430914としてケルン―アーヘン大管区であらためて入党した。オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、ブロニスラフ・フーベルマン、 マックス・ラインハルトなどが、次つぎと亡命し、ついにゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者であったブルーノ・ワルターがドイツを去ることになった。世界はフルトヴェングラーがどのような態度をとるか興味ぶかく見守っていた。アルトゥーロ・トスカニーニやトーマス・マンなどは、フルトヴェングラーはドイツに留まることによってナチスに協力し、それを積極的に支持したと非難した。しかし、フルトヴェングラーは1928年に、「音楽のなかにナショナリズムを持ち込もうとする試みが今日いたるところに見られるが、そのような試みは衰微しなければならない。」と厳しく警鐘を鳴らしていた。1933年7月、フルトヴェングラーはプロイセン首相のゲーリングから枢密顧問官の称号を与えられた。この称号は、総理大臣(ゲーリング)、国務大臣、総理が任命する50名の高官、学者、芸術家によって構成された。枢密顧問官は名誉職であり、たとえば鉄道が無料となるなどの特権があった。ほかに総理から必要な費用の支払を受けることができ、この費用の受け取りを拒否できないとあった。
フルトヴェングラーはこの称号をなにかで利用することはなかったし、1938年11月の「水晶の夜」が起こってからは、この称号をけっして使うことはなかった。しかしフルトヴェングラーをナチスの一員として非難する人たちは、この称号を受けたことを立派な証拠とみなしていた。フルトヴェングラーはドイツにおいて高額所得者であったが、仮にイギリス、アメリカに移住しても金銭的に不自由することはなかったであろう。それどころか反対に、より豊かになったことは間違いない。フルトヴェングラーがなぜ、ナチスと妥協したりせずに外国に移住しなかったのだろうか。フルトヴェングラーのきわめて、おそらくは過渡に発達した、使命感だった。つまり、彼がひきつづきドイツに留まり音楽を創造していくことが、彼と同じ気持ちを懐いているすべての『真正なる』ドイツ人に慰めを与えるのだという確信だった。フルトヴェングラーはたしかに国外にいるよりは国内にいることによって、迫害された人たちをより多く助けることができたのだった。 … トスカニーニはムッソリーニにどれほどの打撃を与えたか。マンはヒトラーにどれほどの打撃を与えたか。やはりドイツの伝統を維持していたウィルヘルム・ケンプと対比してユーディ・メニューインは推察した。「もしも現代においてウィルヘルム・ケンプが、どこにいようとも、ドイツの伝統を守ることができるのであれば、フルトヴェングラーはかくも深く過去に根ざしていたので、彼は国外移住が独自性を危険にさらすこと、山や平原と同様に国にも属している種族や国民の魂が存在すること、彼の音楽的ヴィジョンがドイツにおいてドイツの公衆を前にしたドイツのオーケストラにより、最良の状態で存在が可能となることを信じていたのかもしれない」フルトヴェングラーがベルリン・フィル、つまりドイツのオーケストラの演奏を維持し続けることに大義があった。1947年5月1日、ついに非ナチ化委員会はフルトヴェングラーに対して全面無罪を宣告した。フルトヴェングラーが戦後、2年ぶりにベルリンに復帰した演奏会は1947年5月25日、フルトヴェングラーは満員の聴衆の興奮と熱狂のるつぼと化したティタニア・パラスト館で、ベルリン・フィルハーモニーとオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏した。この復帰コンサートのチケットはまたたく間に完売となった。ベルリンの市民は、空襲の恐怖の中でも、彼の指揮するベルリン・フィルの演奏会が唯一の心の慰めであり支えであったことを忘れていなかったのである。戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。コンサートは同じプログラム ― エグモント序曲、「田園」「運命」の3曲 ― で5月25、26、27、29日の4日間行なわれた。62歳のフルトヴェングラーはけっして老いていなかった。しかし重ねた年輪はベートーヴェンの悲劇的な力をこれまで以上に刻印を深くし、聴衆との再会はフルトヴェングラーが心から願った共同体の理念をふたたび呼び覚ました。
1943年6月27〜30日(コリオラン)、12月12〜15日(ブラームス)ベルリン、旧フィルハーモニーでの録音。
RU MELODIYA D-09867-68 ヴィルヘルム・フルトヴ…
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