34-460

商品番号 34-460

通販レコード→波ブラック銀文字 フラット重量盤[オリジナル]

これは掘り出し物。聴く精神安定剤。 ― アナログ・レコード時代もレンタルレコード屋ブームを経て、1977年になると、個人経営の輸入盤専門店が熊本でも登場する。それもタワーレコードのような店構えとか、欧米直輸入盤の品揃えの輸入盤専門店とは違う。手書きの開店広告か友達からの口つてから、地図と住所を頼りに探し当てて、広いとは言えぬ店内に所狭しと並べられた海外のマイナー・レーベルや、プレスは大丈夫なんだろうなと期待を勝手に思いながら、自主録音に近い様な音源の怪し気な、しかも国内盤より高額なLPレコードを〝店主のおススメ〟の口車(?)に乗せられるままに何枚も購入、ワクワクしながら帰るその間に想像が膨らんでいったのを思い出します。そうした期待半分、不安半分で買ったレコード盤は、それこそ玉石混淆でハズレも随分掴まされたけれど、そうした中に時折歴史の中に埋もれさせるには惜しい珠玉の様な作品を発見した時の喜びは一入でした。放送録音や、協会盤、トスカニーニやマスカーニ自身が指揮した、オペラのライブ録音など、CD時代には次々に正規盤になっていく。そうした中にカリンニコフの交響曲や、後日「レコード芸術」誌の「秘曲特集」で〝◯◯音楽の精化〟などとの賛辞を与えられている一文を見て、思わず膝を打つことになる。「運命」や「未完成」と言った超有名曲は、無論長い年月の試練を越えて愛されて来た訳なので、素晴らしいのは間違いないのだけれど、ジャーマン・プログレッシブ・ロックが好きだった私は、ジャズの掘り出しライヴ音源よりも、クラシック音楽の「秘曲・珍曲」を漁るのが好きになった。それから数十年。まだ珍しい部類とはいえ、NHK-FMの「きらクラ」でもプログラムされる曲になっている、ハンス・ロットの作品等は、この頃に〝発掘〟したもので、誰も知らない作曲家ではなくなっている。
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第2回(1952年)ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールで第1位、イーゴリ・オイストラフ(ソ連)、第2位にユリアン・シトコヴェツキー(ソ連)とワンダ・ウィウコミルスカ(ポーランド)が入賞した年の、第4位入賞者がイーゴリ・イワノフ(Igor IWANOW, ポーランド)。2位入賞が2人いること。第3位が3人、第4位には4人が並び、第6位以下入賞者無しだったことから接戦だった。ところで日本では「ヴィエニャフスキ国際コンクール」と呼ばれることがあるが、ポズナニで開催される「ヘンリク・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール」とは別に、ヴィエニャフスキの名前を冠した音楽コンクールがある。リピンスキ・ヴィエニヤフスキ国際コンクールはカルロ・リピンスキとヴィエニャフスキを記念する若いヴァイオリニストのための国際コンクールで、1979年に第1回が開催され、以後、3年に1回開催されている。リピンスキ(Karol Jozef Lipiński, 1790〜1861)は〝ポーランドのパガニーニ〟という異名をとったヴィルトゥオーゾ系ヴァイオリニスト、作曲家で、ショパンがポーランド音楽にピアノで成したことを、ほぼ同時代にヴァイオリンで取り組んでいた。ポーランド東部のラズィン・ポドラスキの貴族の家に生まれ、幼い頃から音楽の英才教育を受け、8歳の時には協奏曲を演奏するほどに才能に恵まれていました。彼の父はモーツァルトのような演奏旅行を考えましたが、もとより控え目な性格であったリピンスキはそれを拒否、宮廷音楽家として作曲と演奏に勤しみました。一時期はチェロ奏者になるための練習をしましたが、結局はヴァイオリンに戻り、リヴォフ(現ウクライナ)で指揮者、ヴァイオリン奏者として出発した。19歳の時にはオペラ指揮者として地域のオーケストラを指揮し、22歳の時に楽長に昇格。1817年にパガニーニに会うためにイタリアのミラノに行き、翌年ジョイント・コンサート=演奏試合を開いたことで名声を高め、パガニーニはリピンスキに「ヴェニスの謝肉祭」変奏曲を捧げ、リピンスキはOp.10の「3つの奇想曲」をお返しとして献呈しあう仲となった ― やがてライバル意識から2人の仲は破綻したこともあったが、パガニーニの死後に愛器AMATIを譲り受けたことでも知られています。各地で演奏して成功を収め、1810年以降はルイ・シュポアとも交流を持つようになります。1835〜36年にはシューマンにドイツ・ライプツィヒで会い、『謝肉祭 Op.9』を献呈されている。1939年にはドイツ・ドレスデンに移り、国立歌劇場管弦楽団のコンサート・マスターを務め、リストとベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』を演奏したこともあった。
リピンスキの作品はヨーロッパ音楽の歴史において全く顧みられることもなく、演奏会でもほとんど俎上に載ることがありません。そんな作曲家の作品をまとめて取り上げたのがポーランドの名手、コンスタンティン・アンジェイ・クルカ(Konstanty Andrzej Kulka, 1947-)でした。彼は2007年の来日時に小泉純一郎元首相と会い、そこでもリピンスキの素晴らしさについて熱く語った。日本経済新聞夕刊(2007年7月7日)にのった「巨匠クルカと小泉前首相」と題した記事があった。当時は安倍晋三内閣で、前首相だった小泉氏が、クルカ、平澤真希のリサイタルに出席し、〝特にカルロ・リピンスキーの作品に惹かれ、CDを集めてきたが、クルカさんの演奏が最も素晴らしい〟とコメントしたと書かれていた。パガニーニが好きな人、そしてオペラが好きな人は一度は聴いていただきたい。代表作とされる、ヴァイオリン協奏曲第2番ニ長調作品21《軍隊風》(1825〜1826年)のベスト5に挙げられる録音です。太鼓連打の開始から、トランペットのファンファーレ、行進曲のリズムと軍隊を思わせる威勢のよさが満載の、魅力的な ― パガニーニ風のヴィルトゥオーゾ系協奏曲です。次に、ズビグニェフ・ジェヴィエツキ(Zbigniew Drzewiecki, 1890.4.8〜1971.4.11)は、〝ショパン弾き〟のピアニストとしても知られるが、20世紀の有名なピアニストを数多く育成したピアノ教師としてむしろ名高く、その影響は著しい浸透力を持っていた。父親にピアノの手解きを受けた後、ワルシャワでゲルト・オベルフェルト(Gerd Oberfeldt)やピレツキ(W. Pilecki)に入門する。大学進学のため1909年から1914年までウィーンに行き、同地のテオドール・レシェティツキーの教室で、レシェティツキーの助手マリー・プレントナーに師事。ポーランドの都市やウィーンを中心に、プラハやベルリンでもリサイタルを行なった。1915年にワルシャワ音楽院のピアノの上級クラスでの教授に就任し、没年まで指導に携わった。ショパン国際ピアノコンクールの設立を輔佐し、1927年の初回から没年までその審査員を務めた。第二次世界大戦後、とりわけユゼフ・トゥルチンスキの没後は、ポーランドで最高のピアノ教師と看做された。フランティシェク・レッセル(Franciszek Lessel, 1780〜1838)はポーランドの作曲家で、ウィーンでハイドンに師事したのちポーランドで活躍した。ショパン(1810年生まれ)より1世代前の作曲家になり、ベートーヴェンより10歳年下の作曲家が30歳の時(1810年)の作品となる《ピアノ協奏曲ハ長調作品14》で、時代の先端をいくスタイルとは言えないものの、ギャラントな雅さと明るい愉悦感に溢れ、幸せな気分にしてくれる。1950年代にポーランドMUZAレコードのテスト・プレスは、ドイツ・グラモフォン工場にて製造されていた。そのためか、音質もモノラルとは思えない生きいきとしたサウンドで、1950年代のポーランドで弾かれていた熱気のようなものが、ひしひしと伝わってきます。
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  • 「Polskie Nagrania Muza」はポーランドの国営レーベル。
  • PL MUZA XW351 IGOR IWANOW リピンスキー・V…
  • PL MUZA XW351 IGOR IWANOW リピンスキー・V…
CHOPIN, F. POLONAISES & MAZURKAS & PRELUDES
ZBIGNIEW DRZEWIECKI
FRYDERYK CHOPIN INSTITUTE
2016-04-08