この歳になってこの曲・この演奏の良さが身にしみるようになりましたね ― エーリヒ・ラインスドルフ(Erich Leinsdorf, 1912~1993)はウィーンのユダヤ人家庭に生まれ、アントン・ウェーベルン率いる労働者合唱団の練習ピアニストからキャリアを始め、22歳の若さでザルツブルク音楽祭に招かれ、1934年からブルーノ・ワルター、アルトゥーロ・トスカニーニの下で練習ピアニストとして修行を積んだ後に、ヒトラー率いるナチス・ドイツ政権によるホロコーストから逃れて渡米しました。1942年に米国籍を取得。その後クリーヴランド管弦楽団、ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団、ニューヨークのシティ・オペラの音楽監督やメトロポリタン歌劇場の音楽顧問も歴任し、1962年からシャルル・ミュンシュの後任としてボストン交響楽団の音楽監督に就任。この時期にドイツ音楽のスペシャリストとして評価を固め、膨大な数の録音を残しています。1969年にボストン響から離れた後はウィーン交響楽団、ベルリン放送交響楽団の音楽監督となるなど、主にヨーロッパを中心として活躍しました。ラインスドルフは耳の良さに定評があり、あまりにも厳格な要求は楽員たちから煙たがられた。演奏に3時間を費やすヨハン・ゼバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」のような大曲でも隅から隅まで暗譜、リハーサルにも楽譜なしで臨みながら楽団員に対し、「そこのオーボエの君、最後4分の1音だけずれていたよ」と詳細に指摘。すわ、パート譜を確認すると、マエストロの指摘通りといった具合で、逃げ場がない。リハーサルは、みっちり油をしぼられる。でも本番は楽員たちの自由に弾かせていた。『音楽は自由であるべきだ』との信条に従い、ぐっと手綱を緩めるから奇跡の名演になる。またオペラからコンサートレパートリーまで、何でも振れる職人気質が災いして、実力のわりには日本での評価は低かった。若い頃の演奏は整ってはいるものの幾分冷めた部分があって、その点が人気のなかった原因とも思えますが、来日は1978年にニューヨーク・フィルハーモニックと、レナード・バーンスタインの代役としてでしたが、べートーヴェンの交響曲第3番「英雄」は〝驚くべき巨匠の音楽〟と、玄人筋から絶賛された。1980年代以降の晩年の演奏は、知的でよく整ったバランス感覚の優れた音楽造りに格調の高さとヒューマンな暖かさが備わったのを感じさせます。けれんみの無い音楽作り、またオーケストラビルダーとしても知られたラインスドルフは独墺系中心に幅広いレパートリーを誇りますが、マーラーも主要レパートリーとしてボストン響常任就任早々、第1、3、5、6番を録音。このロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団との1番はデッカへの一連の録音の中でのステレオ再録音となります。ラインスドルフといえば知的で整理された中にも、時としてピリッとしたスパイスを効かせた玄人好みの音楽造りをする人です。本盤に聴ける物語と音楽の完全な把握、そしてその流れを明快かつ感動的につなげる手法は、ラインスドルフらしい技といえるでしょう。ロイヤル・フィルを自在にドライヴしながら、第3楽章では可憐な唄を聴かせるなど、さすがの秀演です。
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グスタフ・マーラーの交響曲第1番。通称は、『巨人』。いわゆる、名曲である。ドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルが、1800年から1803年にかけて執筆した長編教養小説『巨人』を、マーラーは青年時代から愛読していたとされている。この小説の題名がタイトルの由来である。ドイツ語だと、〝Titan〟。英語でも、〝Giant〟ではなく同様。『巨人』というタイトル及び各楽章の標題を、小説の内容にあやかって名付けたが、後にマーラー本人の手で削除されてしまっている。マーラーにとって曲のタイトルと各楽章の標題は、本作品を一般の人々に理解しやすくするための「道しるべ」的な位置づけに留まるものであった。すなわち、これらの趣旨は、本作品に文学的な意味をもたせることではなく、楽章相互間、楽章と全体との関係を理解してもらうための、手がかりを与えることにすぎなかったのである。しかし、作品理解の目的に、タイトルと各楽章の標題が独り歩きしてしまうことで、先入観から、かえって聴衆の誤解を引き起こし、本作品を正当に理解する妨げになることを後に懸念し、マーラーはタイトルと各楽章の標題を全て除去してしまったというわけである。マーラーの交響曲第1番を『巨人』とする呼び名は、作曲の成立を知る人が継承してきた、通称にすぎないのである。とはいえ、『巨人』交響曲の作曲当時、マーラーはまだ20歳代後半の血気盛んで、かつ悩み多き若者であった。1860年にボヘミアのカリシュテという村の、比較的裕福な家庭にて生誕したマーラーは、幼少の頃から非凡な音楽の才能を示して、1875年(15歳)にはウィーンに上京し、学友協会付属の音楽院に入学。ピアノ、作曲、指揮等を学び、3年間で優秀な成績を修めて修了した。音楽院卒業後の1880年に、歌劇場の指揮者の地位に就いたのを皮切りに、ヨーロッパ各地のオーケストラを指揮し、着実に名声を上げていった。1897年にはウィーンの宮廷歌劇場の指揮者に就任し、以降ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に移るまでの10年間、ウィーンのオペラに黄金時代をもたらした。シーズン中はオペラ座の指揮者としての仕事に忙殺される中、マーラーはいわば「夏休み作曲家」として精力的に腕をふるっていた。自作交響曲を指揮することも多く、1889年に『巨人』のブダペストでの初演を振っている。この最初の交響曲である『巨人』を作曲した1888年から1911年に死去するまでの約25年間で、9曲 ― 『大地の歌』も含めると10曲のいずれも傑作揃いの交響曲を残している。なお、多くの管弦楽伴奏付き歌曲も残しており、オペラの指揮者として定評があったにも関わらず、オペラは作曲していない。さらに、指揮者の経験も活かされて、譜面上の演奏に関する指示が他の作曲家に比べ数多く、実際的な詳細さは、曖昧がないところも、大きな特徴である。
一般的に、マーラーはベートーヴェンの系譜に連なる最後の交響曲作曲家であると言われている。やっつけ仕事はひとつもなく、脱稿後も改訂補筆を繰り返す等、いずれの作品も細部のオーケストレーションにまでこだわりぬいている。交響曲第1番は、作曲された当時は2部構成5楽章からなる〝交響詩〟であった。 ― ドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルの長編教養小説『巨人』に基づく各楽章の標題は、『第1部 青春の日々から。若さ、結実、苦悩のことなど。』〈第1楽章 果てしなき春。序奏は明け方のはじまりのころの自然のめざめを描く。〉〈第2楽章 花の章〉〈第3楽章 帆に風をはらんで〉、『第2部 人間の喜劇』〈第4楽章 座礁。カロの書式による葬送行進曲。〉〈第5楽章 地獄から天国へ。〉 ― このうち、第2楽章『花の章』は、1896年のベルリンでの演奏会にあたり削除され、本作品は現在のかたちである4楽章からなる「第1交響曲」となった。この楽章のカット理由については、正確な理由は未だ明らかになっていない。しかも、そのカットの時から第2次世界大戦後に譜面が発見されるまで、『花の章』は演奏されることがなかった。また、ほぼ同時期に作曲された歌曲『さすらう若人の歌』の第2曲『朝に野辺を行けば』と、第4曲中の『菩提樹』の旋律が『巨人』の1楽章第1主題と、第3楽章中間部がそっくりそのまま用いられている。マーラーの歌曲と交響曲との関係について、素材や様式的類似性の共有が認められるものは多いが、『巨人』と『さすらう若人の歌』ほど不即不離の関係がわかりやすい例はない。この歌曲は、恋人を他の男に奪われてしまった若者の悲運を歌ったものであり、内容的に『巨人』作曲の背景ともつながりがあるように見える。当時まだ20歳代の若者であったマーラーは、自分の生き方に迷っていた『さすらう若人』でありつつ、音楽界の『巨人』への道を着々と歩み始めていた。20歳代といえば、社会の荒波に否が応でももまれ始める、誰もが体験する大変かつ多感な時期。マーラーも今後の生き方に悩みつつも、周囲をとりまく環境や世界に全力でぶつかっていく、そんな情熱に満ち溢れていた。情熱的な青年の「若さ故」の感情を原動力として、本作品となっていく過程で、小説『巨人』の内容はガイドラインとなっていたのは確かだろうが、最終的には若い作曲家マーラーの『巨人』として自立した。それで、標題は無用になったのだろう。
- Record Karte
- Engineer – Arthur Lilley, Producer – Raymond Few. 1971年ロンドン録音。英DECCAが開発した4チャンネルステレオ再生システム、〝Phase4ステレオ〟は、1963年にデッカ・アメリカが開発した20chマルチ録音を4トラックに収録するという、当時としては画期的な録音方式でした。その後ヨーロッパへもデッカはこの方式を取り入れ、クラシック音楽のLPは1964年に初発売され約200枚のクラシックLPが〝Phase4〟で発売されました。DECCAでは1960年代前半からSXLと並行して、PFSという番号でCONCERT SERIESを出版していた。SXLと同等のプレス。指揮者はSXLシリーズに属さない人々ではあったが、モントゥーやストコフスキーといった大物指揮者が登場。どちらかと言えばデモンストレーション的傾向があったとは言え、無視するには惜しい録音が多い。当盤の初発は、SPC 21068、PFS 4232で、本盤は1983年リリース盤。
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