34-20830
商品番号 34-20830

通販レコード→蘭ダーク・プラム銀文字盤 HI-FI STEREO
〝どちらも非常に満足している録音だ。〟 ― クラシック音楽を聴きはじめた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者として〝ブルーノ・ワルター〟の名前を覚えることになる。そして、勧められる名盤とされるレコード、CDのライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。レコーディングの仕事には戦前から積極的に取り組んでおり、デッカに行った1930年代のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との録音は絶品と評されている。ワルターの至芸、それは芯からエネルギーに満ちた音楽でさえ、オーケストラの歌わせ方が実にしなやかで、繊細な響きはどこか妖しさをたたえている。そう解説されて、クラシック音楽の入り口に立ったばかりでは魅力がわからないからだろう。温厚な男らしさでオーケストラを束ねたのはワルター唯一だ。しかし温厚とは女々しいことではない。トスカニーニやフルトヴェングラーと並ぶ、戦前、戦中、戦後を通して活躍して音楽好きを魅了した3大指揮者だが、ワルターだけはトスカニーニのように威圧的な態度をとることがなく、激をオーケストラに飛ばすことはなかった。ワルターは、ウィーン・フィルの楽員によく極端な対象を要求した。例えばモーツァルトの交響曲のピアニッシモのところで、オーケストラがまだ弾きはじめないうちに中断して、『皆さん、もう大きすぎます』と言うことがあった。また『フィガロの結婚』の序曲の練習では、やはりオーケストラが弾き始める前に中断して、『皆さん、もうテンポが遅すぎますよ』というのであった。ワルターは絶えず「先ず、ただきっちり弾け!」ということを要求していたわけだが、こうしたことはワルターの個性というより同世代の指揮者の特徴である。ワルターの演奏は情緒的とされながら、音の出し方は似ている。穏和とか柔和というイメージがついているが、尤も、1930年代の名録音はワルターが60歳前後であり、戦後のコロンビア交響楽団と一連の録音を行ったときは80歳になっていた。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きく、そして芯の部分が柔軟であってのことだろう。しかし、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。ワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はヨーロッパのオーケストラにある熟成された深みのある響きを、アメリカのオーケストラを使って自分なりのやり方で練り上げた。ニキシュ、マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらした使徒ワルターの功績はそれ以上にある。彼はグラマラスなサウンドのアメリカのオーケストラを使って、ヨーロッパのオーケストラの熟成された深みのある響きを自分なりのやり方で練り上げた。
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ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)は1876年ドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。1962年没。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロンビア社の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ウィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルでの〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。コロンビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。
ブルーノ・ワルターの演奏スタイルの変遷を簡潔な言葉で表すと、戦前の典雅、戦後の雄渾、晩年の枯淡ということになると思う。1930年代の名録音はワルターが60歳前後のときのものであり、コロンビア交響楽団と一連の録音を行ったときは80歳になっていた。にもかかわらず、彼は20年間で成熟をし続け、枯れることなく円熟に円熟を重ねることができた。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きくなければ、そして芯の部分が柔軟でなければ、こういう円熟の仕方は出来ない。一時は引退を表明して80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロンビア社の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始。ワルターがコロンビア響を指揮したステレオ録音によるブルックナーは1959年11月の9番、1960年2月の4番、1961年3月の7番の全3曲。一年一年大事に一曲ずつブルックナーを録音していったのですが、この《9番》は、短期間で録音を仕上げています。ワルターは、この曲を1959年の11/16と11/18に録音しています。コロンビア響との時代には録音の録り直しは何度も行い、完全に満足する出来映えになるまで妥協しなかった、とも言われています。その彼がかくも二日間で終えたのは、このセッションの数日前の11/12と11/13の両日、同曲をロサンゼルス・フィルと演奏していたようです。ご存知の通り、コロンビア交響楽団は元来ハリウッドやロサンゼルス近辺における演奏者を中心としたワルターの録音セッションのみの臨時編成のオーケストラ。その中にはロサンゼルス・フィルのメンバーも含まれていたとか。とすると、このセッションのオーケストラは実質、ロサンゼルス・フィルの公算が大きい。ブルックナーを1年ごとに1曲のペースだったのはロサンゼルス・フィルとスケジュールが合う時だったのかしら。この《9番》とマーラーの《9番》はワルターお気に入りの録音で、自宅を訪れた訪問者にステレオ録音のレコードを再生して聞かせ、「どちらも非常に満足している録音だ。」と、 しごくご満悦な様子だったといいます。迫力、緊張感、音響の厚み、全てがいつもの〝コロンビア交響楽団〟と違う。ワルターのブルックナー解釈は正攻法。ワルターの音楽活動のベースにワーグナー、ブルックナーがあることを強く意識させられる。その響きは若木ではないが枯れ木でもない。今が聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りがここにある。強さだけでなく大きさを増していくようなこの指揮者の求心力がオーケストラの響き隅々に行き渡っている。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはハスキルやグリュミオー、カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、本盤も含め米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。
1959年11月カリフォルニア、アメリカン・リージョン・ホールでのセッション、ステレオ録音。ジョン・マックルーアの制作。米Columbia MS6171原盤。
NL PHIL 835 561 ブルーノ・ワルター ブルックナー・交…
NL PHIL 835 561 ブルーノ・ワルター ブルックナー・交…