34-17329
商品番号 34-17329
通販レコード→蘭レッド・ラベル銀文字盤
重厚な中にもショパンのロマンティシズムが息づいている ― ドイツ・ピアニズムの正統的な継承者、クラウディオ・アラウの堅固で濃厚なロマンティシズムが漂うショパン。ショパンの作品はピアノ独奏曲が圧倒的多数を占めていますが、本盤はLP、3枚組で2曲のピアノ協奏曲をはじめピアノと管弦楽のための作品をすべて収録しています。20世紀が生んだ最高のピアニストのひとりであるアラウは「最後のロマン派の巨匠」ともいわれていたようにドイツ・ロマン派の作品を中心に、その周辺の作曲家の作品も多く取り上げ広いレパートリーを誇っていましたが、ベートーヴェンとともにショパンは彼が最も心を通わせる作曲家で数多くの録音を競しています。ピアノの詩人・ショパンの音楽に、アラウはいたずらな感傷に溺れることなく作品の内部に深く立ち入り、瑞々しい情感を湛えた見事な演奏を繰り広げます。彼の味わい深い詩的な演奏を堪能してください。そして、若きインバルの精妙な指揮が見事に支えている。1963年のグイード・カンテッリ国際指揮者コンクール優勝後、メジャー・レーベルのフィリップスに在籍して本格的に指揮者としてのキャリアをスタートした30歳半ばのエリアフ・インバルは、1970年~72年にかけてアラウ&ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と2曲のピアノ協奏曲を含むショパンのオーケストラ付きピアノ曲のアルバムを録音していた。この仕事でインバルのことを非常に気に入ったアラウが「将来この指揮者は必ず偉大な指揮者と呼ばれるだろう」という予言を遺していたのだという。ピアノ協奏曲について、ショパンのオーケストレーションの稚拙さについては皆様もご存知のように、インバルはとくにその稚拙な部分を修正して演奏するようなことはせず、むしろ若きショパンの天才的なアイデアが生きるように細心の配慮を施して演奏していると評価された。アラウはショパンであれ「純粋な抽象音楽」として、音のみによるイメージを追求しながら自らの表現を作り上げていく。オーケストラ伴奏だろうと、この巨匠のヒューマニティが深く感じられます。テンポは時に著しくゆっくりとしており、そうでない場合でも各フレーズの特徴や形態を深く考えたという印象を与える。インバルの指揮もアラウの演奏に合わせてか、ゆったりとしたスケールでピアノに絡みついていきます。その結果ショパンの瑞々しい抒情を闊達で柔軟性に富んだフレージング、そして堂々たる構築性があり明晰です。青年期の渦中に起こる感傷や感情に駆られる音楽ではなく、仄かな憂いや優しい感情が籠っている。神経質な所が全く無いので、なにか爽やかな印象すらあるスケールの大きな「陽性」のショパン演奏です。
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チリ出身でドイツで学んだクラウディオ・アラウは、20世紀の名ピアニストのなかでも屈指の名匠の1人に数えられる。神童として知られチリ政府によって、7歳でベルリンに留学していたアラウは、8歳でベルリンのシュテルン音楽院に留学する機会を得る。ドイツ音楽の権威、リストの弟子のマルティン・クラウゼに師事。後述しますが、アラウはピアノ演奏における師弟関係の影響力の強さが演奏に現れている典型的な例である。本来ラテン的な血を引いているはずのアラウながら、正統的なドイツ音楽の継承者として名声を高めた。母国語のスペイン語よりもドイツ語を得意にしていた。そういう背景からも感じられる通り、ドイツのピアニストもはるかに及ばないと謳われた重厚なピアニズムの健在ぶりは特にベートーヴェン演奏の権威として ― ソナタ全曲の彼の校訂版がペータースから出版されており ― 多数のレコード録音が、その証明として知られています。しかし、リストやショパン、ドビュッシーなどレパートリーは広い。その素晴らしい演奏で彼はロマン派音楽の分野でも〝最後のロマン派芸術の巨匠〟ともいわれていました。ショパンも彼が愛着を持つ作曲家のひとりで多くの録音が残されていますが、パッと聴きで感動するようなものではなく、じっくりと味わいながら聴く類のものとなっており、どれも個性的でアラウにしか表せないショパンの魅力を湛えた名演奏として高い評価をうけました。ショパンのオーケストラ付きピアノ曲を出版順に並べると ― モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』のアリア『お手をどうぞ』の主題による変奏曲 変ロ長調 作品2、ピアノ協奏曲第1番ホ短調 作品11、ポーランド民謡による幻想曲 作品13、コンサート・ロンド〜クラコヴィアーク へ長調 作品14、ピアノ協奏曲第2番へ短調 作品21、アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22 ― ポーランド時代に限られる。ウィーンへ本格的な音楽修養に出発する以前のことで、ショパンがたどり着いたパリではサロン音楽がブームになっていた。アラウが弾くショパンのコンチェルトは、曲の隅ずみまで歌が浸み渡っている。弱音には儚げな優しさがあり、高音で弾く旋律は瑞々しい美しさがあり、左手のバスの深い響きが穏やかな落ち着きを感じさせる。ピアノの深い響きのなかには、澄みきっているけれど包み込むような優しさ。楽章ごとに性格の違いはあるけれど陰影が少なく色調が似ているし、強弱や濃淡などのコントラストがやや弱く、感傷や激情に揺れ動いたり軽やかで華麗なショパンとは違う。一般的に好まれる演奏ではないかもしれないけれど、今週アラウのショパン録音集を集中的に聴き返して「夜想曲集」と「ワルツ集」は勿論だ ― 「前奏曲集」は感心できなかった ― が「ピアノ協奏曲」には、この世界にはまるとなかなか抜けられなくなってしまった。
Frédéric Chopin / Claudio Arrau, The London Philharmonic Orchestra, Eliahu Inbal ‎– The Complete Works For Piano And Orchestra
  • Side-A
    1. Piano Concerto No.1 In E Minor, Op.11 1. Allegro Maestoso
  • Side-B
    1. Piano Concerto No.1 In E Minor, Op.11 2. Romance (Larghetto)
    2. Piano Concerto No.1 In E Minor, Op.11 3. Rondo (Vivace)
  • Side-C
    1. Piano Concerto No.2 In F Minor, Op.21 1. Maestoso
    2. Piano Concerto No.2 In F Minor, Op.21 2. Larghetto
  • Side-D
    1. Piano Concerto No.2 In F Minor, Op.21 3. Allegro Vivace
    2. "Krakowiak", Op. 14 (Concert Rondo In F) Introduction (Andantino Quasi Allegreto - Molto Allegro) - Rondeau (Allegro Non Troppo)
  • Side-E
    1. Don Giovanni Variations On "La Ci Darem La Mano" In B Flat, Op. 2
    2. Fantasy On Polish Airs In A, Op. 13
  • Side-F
    1. Fantasy On Polish Airs In A, Op. 13 (Conclusion)
    2. Andante Spianato And Grande Polonaise Brillante In E Flat, Op. 22
まだセルジュ・チェリビダッケはシュトゥットガルト放送交響楽団に就任した直後で、「幻の指揮者」と呼ばれていた時代。エリアフ・インバル(Eliahu Inbal)の初来日は1973年6月、そのチェリビダッケの高弟という事もあって大いに注目された読売日本交響楽団定期公演だった。フィリップスからニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮したシューマンの交響曲やスクリャービンの録音、名匠クラウディオ・アラウをロンドン・フィルを指揮してサポートしたショパンのピアノ協奏曲の録音なども登場した頃だった。このイスラエル出身の名指揮者は、1936年2月16日にイェルサレムに生まれた。イェルサレム音楽院でイスラエルの誇る作曲家パウル・ベンハイムに作曲を師事したインバルは、アメリカ=イスラエル財団の奨学金を得てオランダのヒルヴェルスムの講習会で名教師フランコ・フェラーラに師事、更にバーンスタインの勧めでパリ音楽院に学びイタリア、シエナのキジアーナ音楽院の夏期講習会でチェリビダッケに師事し、1963年のグィド・カンテッリ国際コンクールに優勝して華々しくデビューを果たす。アルトゥーロ・トスカニーニの後継者としてスカラ管弦楽団の首席指揮者に就任後、不慮の飛行機事故で夭折した天才指揮者であるグイード・カンテッリを記念する国際指揮者コンクールは、この人物に因んだスカラ座主催のコンクールで、1971年の第6回大会では井上道義も優勝している。1967年大会で優勝したリッカルド・ムーティは、それから20年後の1986年にクラウディオ・アバドの後継としてスカラ座の音楽監督に就任している。インバルの初来日当時、日本のオーケストラの定期にマーラーの交響曲第5番が登場する事も滅多になく、日本のオーケストラ音楽ファンには特に印象づけた。インバルがフランクフルト放送交響楽団の首席指揮者となったのがその来日の翌年、1974年の事であり、80年代に入ってからのあの意欲的なブルックナーの交響曲全集やマーラーの全集、そしてそれ以外の数多くの意欲的な録音については改めて述べるまでもないだろうし、日本フィルハーモニー交響楽団、東京都交響楽団、NHK交響楽団等の日本のオーケストラとの数々の名演も周知の通りであろう。インバルの攻撃的とも言えるような音楽作りは、研ぎ澄まされた厳しい音楽をオーケストラから引き出していた。ベートーヴェン演奏の伝統は、その中にスコアに無い慣習的なアゴーギグの変化も含まれている。インバルがフランクフルト放送響を指揮したベートーヴェンの演奏は、それまでのトラディショナルなアプローチとは完全に一線を画した、ひたすらにスコアに書かれた事のみに従った演奏であった。1987年のフランクフルト放送響初来日の際、「ヴィヴァーチェをアダージョのように演奏する」ブルックナーの演奏スタイルを「悪しき伝統」として批判していたインバルがブルックナー解釈の世界に「革命」を起こした時も、「非常にワイルドで、速くて、強い音楽としての姿(ブルックナー)」を窺い知ることができる。確信に満ちた楽曲解釈への探究心、そして並外れた表現意欲、そして抜群の耳の良さとバトン・テクニックによるオーケストラ・ドライヴの能力によって、俊英と呼ぶにふさわしい表現意欲と積極性がそこには存在していた。
ライプツィヒ楽派の名教師と呼ばれたクラウゼは『リストの曲は楽々と弾いているようにみせ、またよく響かせるためには普通以上のテクニックが要求される』とクラウディオ・アラウ(Claudio Arrau León 1903年2月6日〜1991年6月9日)に語っていた。アラウはまた、大作曲家でピアニストだったフェルッチョ・ブゾーニがリストのソナタを弾いた時に受けた啓示を絶対忘れることがなく、そこには深い情熱と意味があったと回想している。アラウはチリの首都サンティアゴ・デ・チレから400km南にある都市チリャンの名門の家系に、眼科医のカルロス・アラウ(Carlos Arrau)とアマチュア・ピアニストのルクレシア・レオン(Lucrecia León)の息子として生まれた。南北に7,000Kmを超える南アメリカ大陸は地殻変動は複雑で火山活動、地殻変形、地震など大半の地殻活動は活発でマグニチュード8から9クラスの巨大地震も起きており、1900年から2017年11月25日までの約118年間にマグニチュード8.0以上の地震は93回記録され、その津波による影響は東アジアまで達している。2010年のチリ地震で、チリャンは大きな被害をこうむった。犠牲者数は分かっていない。アラウ少年が3歳になった1906年8月18日、大地震がチリ中部のバルパライソを襲い、様々な物的な損害が出て、3,000人の犠牲者を出した。チリの首都サンティアゴ・デ・チレから震源地は熊本から福岡間、東京の新宿区から茨城県水戸市の距離。首都を新宿区とすると、岐阜県岐阜市でアラウは成長する。早くから神童として知られ、5歳で最初のリサイタルを持った。1911年にサンティアゴでデビューし、同年チリ政府の援助によってドイツに留学。ベルリンのシュテルン音楽院で、フランツ・リストの高弟であるマルティン・クラウゼ(Martin Krause, 1853〜1918)に師事。リストにはかなりの数の弟子がいたため、リストの孫弟子、即ちベートーヴェンの曾々孫弟子にあたる著名なピアニストは多い。クラウゼの弟子ではエトヴィン・フィッシャー(1886〜1960)はレコードファンは馴染みのある存在だ。
アラウによれば、クラウゼの印象は「凝結された体力」「ザクセン訛り」「ユーモア」「激しい気性」であったという。7歳の時からクラウゼ家に同居していてクラウゼの娘たちが、その練習を監視していた。クラウゼはアラウに毎日2、3時間ピアノを教え、さらに毎日1時間、一緒に散歩し世界文学の読み方を教えたり、ベルリンの博物館や国立オペラに連れて行った。クラウゼはそのための報酬を一切とらなかったという。そのおかげでアラウは8歳になるまでにワーグナー最後の楽劇である長大な『パルジファル』を聴くことが出来た。ベルリンでのデビューは1914年。大成功を収め、以後ニキシュ、ウィレム・メンゲルベルク、フルトヴェングラーらの大指揮者と共演。ヨーロッパでの名声を確立する。1918年のクラウゼの死後は、ほとんど独学で勉強を続け、他の先生にはつかなかった。1921年には故国でリサイタルを開き、1922年にはロンドン、1923年にはアメリカ・デビュー、1927年にはジュネーヴ国際ピアノコンクールに優勝して世界的な名声を不動のものとした。1924年から40年までは母校シュテルン音楽院の教授として後進の育成にも携わった。ベートーヴェン、シューマンなどのドイツ系の作曲家の作品を得意とするピアニストとして世界的に有名だが、リストやショパンの演奏にも独自の境地を見せている。またベートーヴェンやウェーバー、シューベルトのピアノソナタ連続演奏会をヨーロッパや南米各地で行い、その名声を不動のものとした。アラウは11歳でデビュー・コンサートを開いたが、その時にバッハ「平均律クラヴィーア曲集」から数曲を弾いている。これは当時としては異例のことでした。まだまだコンサートでのバッハ演奏は一般的ではなかった。けれどもアラウはベートーヴェンやブラームスと並んで、バッハを積極的にレパートリーに採り入れていた。1923年頃にはバッハ・プログラムで4回のリサイタルを開き、1935年から翌年にかけてはベルリンで12回に及ぶバッハ「クラヴィーア作品全曲」リサイタル・シリーズを敢行、史上初の暗譜によるバッハ全曲演奏ということもあって、ヨーロッパで大絶賛された。ところがアラウは、その後バッハをあまり弾かなくなった。それまでベルリンを本拠に演奏活動を行なっていたアラウが、ナチスの台頭と戦局の悪化のためアメリカに移住し、1941年2月のニューヨーク・タウン・ホールとカーネギー・ホールでのデビュー・リサイタルで大成功を収め、翌年より本拠をアメリカに移す。
アラウの録音は何といっても1963年から亡くなるまで続いたフィリップス録音が質量ともに膨大であり、次いで1955年~62年までのモノラル~ステレオ初期のEMI録音もアラウ円熟期の姿を伝える名演ですが、この1941年~52年のRCAとコロンビアへの録音は、ちょうど30歳代後半から40歳代後半にかけての壮年期の颯爽たる演奏を聴くことが出来る。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍。この間、日本には1965年初来日。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。クラウゼは師リストを崇拝していたが、同様にアラウもリストを尊敬している。ベルリン仕込みのゲルマン魂。大柄で渋めの演奏が特徴で、抑制の効いた大人の世界は「噛めば噛むほど味が出る」と評される。アラウの重厚で神秘的なリストとしては、1960年代から70年代にかけての演奏に、その本領が発揮されている。ショパンの『練習曲集』やショパンが書いた最高の音楽とアラウが語った『夜想曲」の名演奏もあるが、さらに重要なレパートリーはシューマンである。重厚で黒光りするようなアラウのシューマンは聴くものの胸の奥底に響いてくる。〈じっくりと〉〈丁寧に〉〈繊細に〉、言葉に書くと微妙に少しずつ違う味わいを、ゆっくりしたテンポの中で複雑に描き分けてゆく。少しも力まず、まるで他人事のように弾いてゆくが、その味がたまらない。重いリズムがいかにもアラウらしく、絶えず語りかけるような弾き方が好ましい。
そして「ベートーヴェンは究極的には精神と神格との結合に到達している」と述べるアラウのベートーヴェンの晩年の録音ではニューヨーク・スタインウェイを弾き、解脱の境地とも思える天上の響きを聴かせてくれている。アラウは88歳で生涯を閉じましたが、80歳を前にしてからの円熟ぶりは著しい。人によっては爽やかさを欠くというかもしれないが、これこそ老アラウの味だ。良くもこれだけ落ち着けるものだ。アラウは、"演奏家は自分自身を変身させて異なった世界に入る道すじを探すべきだ"という考えを持っていたので、決してベートーヴェン弾き、リスト弾きというスペシャリストであるつもりはなかった。だから彼のレパートリーはかなり広い。そういう点でも ― 前もって演奏する楽譜を攫うことなく演奏会で弾きこなした鍵盤の獅子王 ― 特にベートーヴェン演奏の権威として『バックハウスの後継者』としては、もうひとつ訴えてくる力が弱かったが芸に突っ込みが出てきた。それとは別に遊びも出てきた。再録音したショパンの『ワルツ集(全19曲)』や、シューベルトの『即興曲集』『ソナタ作品120』など、いずれも遅いテンポと粘ったリズムでルバートを多用し、とても現代のピアニストとは思えないくらいロマンティックに弾いている。それは周囲の目を気にせず、彼の思うがままに感情を流露させていく。最晩年のテンポが非常に遅い録音が増えたのには〝バイロイトの第9〟以降のフルトヴェングラー、大賀会長の前で素顔を見せたカラヤンと同じ境地に至っていたと感じられ、演奏を続けているままに亡くなるような、晩年の深化を意識させなかったわけではない。
1972年リリース。3枚組。1970年10月、1971年6月、1972年6月ロンドンでのステレオ録音。
NL PHIL 6747 003 クラウディオ・アラウ ショパン・ピ…
NL PHIL 6747 003 クラウディオ・アラウ ショパン・ピ…
NL PHIL 6747 003 クラウディオ・アラウ ショパン・ピ…
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