NL PHILIPS 6514 367 アンドレ・プレヴィン オッフェンバック・パリの喜び
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NL PHILIPS 6514 367 アンドレ・プレヴィン オッフェンバック・パリの喜び

ピッツバーグ響の饒舌ぶりに目(耳)を見張るととも晩年の充実期にプレヴィンが到達した境地で、パリ風な「粋」のエッセンスを次々ポケットから出し華やかな人生模様を表現していきます。 ― アンドレ・プレヴィンの演奏は、あくまでも淀みのない流れと瑞々しいリズムが信条。ロンドン時代のプレヴィンこそ、若き日にジャズピアニストとして培ったリズム感と、ハリウッド映画の作曲を通して身に付けた音楽のわかり易さと手際良さ、そして指揮法の師であるピエール・モントゥー譲りのオーケストラを自在に操るテクニックとが一気に開花した絶頂期にあった。いかにも、この曲に相応しい爽やかなテクスチュアと無理のないテンポが心地よく、奇を衒ったところのない素直なフレージングがどこまでも続きますが、さりげなく施されている内声の絡み合いの充実ぶりに、プレヴィンの天才的な冴えを感じずに入られません。オペレッタのこういう作品ではガチガチにアンサンブルを締め上げても良い結果は得られないでしょうから、これは適切なアプローチだったように思われます。それどころか、この演奏ではプレヴィンは〝シャンゼリゼのモーツァルト〟と評されたオッフェンバックの持ち味である美しいメロディラインを際だたせるために、かなりレガートをかけた響きをオーケストラに求めていて、上品さを保った中でピッツバーグ交響楽団も伸びやかに演奏しています。
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オッフェンバックはパリ人でした。でもフランス人ではありませんでした。生まれはドイツ人で、だからこそパリの粋を感じたし、だからこそ痛烈な社会風刺を含ませる、変化に富んだ音楽的感性を発動したのでしょう。ジャック・オッフェンバック(Jacques Offenbach)は1819年生まれ。1880年没。作曲家。本名はヤーコブ・エーベルスト。ドイツに生まれフランスに渡り、14歳の時パリ音楽院に入学し、生涯フランスで活躍した。音楽家としてはパリ・オペラ・コミックのチェロ奏者として出発している。メロディー・メーカーとしては天才的。のちにオペレッタ作曲家として、第二帝政下のパリで絶大な人気を誇った。痛烈な社会風刺と明晰で、変化に富んだ音楽的感性をもち、100を越えるオペレッタを作った。オペレッタ様式を確立した作曲家として、音楽史上に重要な位置を占めているが自ら経営する「ブッフ・パリジャン」劇場で、1858年に初演した「天国と地獄」で大成功を博しオペレッタの発展史上に一時期を画した。以後、1864年の「美しきエレーヌ」、1866年の「青ひげ」、「パリの生活」、翌年の「ブン大将』と次々に名作を発表、最後の未完成の傑作「ホフマン物語」までに90曲にのぼる作品を作曲した。当時のオッフェンバックの軽快な音楽はヨーロッパ各地で人気を博し、ウィーンではスッペやヨハン・シュトラウスを刺激して数多くのオペレッタの名作を生ましめている。オッフェンバックのオペレッタはナポレオン3世時代の風刺と自由主義を根本としているといわれる。音楽と喜劇との融合を果たした作曲家、オッフェンバックは美しいメロディーを次々と生み出すことからロッシーニはオッフェンバックを〝シャンゼリゼのモーツァルト〟と評した。一方で爆発的な人気と反比例するかのように痛烈な風刺、退廃的な快楽主義は知識人からの批判も多くエミール・ゾラは「オペレッタとは邪悪な獣のように駆逐されるべき存在」とまで毛嫌いしている。
パリのオシャレ度十分な「粋」な演奏を聴かせるアンドレ・プレヴィンも出生名はドイツ名でアンドレアス・ルートヴィヒ・プリヴィン(Andreas Ludwig Priwin)といい、アンドレ(André)はフランス風の名乗りである。ベルリンのユダヤ系ロシア人の音楽家の家庭に生まれ、ナチス政権を逃れて一時期フランスで教育を受けた後、1938年から家族に連れられアメリカへと渡り、1943年に合衆国市民権を獲得した。10歳代の頃からジャズを演奏し、1940年代当時黎明期にあった初期モダンジャズのビバップスタイルに影響を受けたプレイで「天才少年」として注目されライオンのイラストが可愛いピアノトリオでのアルバム『キング・サイズ』(King Size, 1958年)、ダイナ・ショアと共演した『ダイナ・シングス、プレヴィン・プレイズ』(Dinah Sings Previn Plays, 1960年)、シェリー・マン&ヒズ・フレンズでの『マイ・フェア・レディ』(Modern Jazz Performances of Songs from My Fair Lady, 1956年)などが代表盤に挙げられる。キャリア初期のロサンゼルス時代にはハリウッドの大手映画会社MGM専属となり、多くの映画において映画音楽の作曲や編曲、音楽監督を務めている。彼のその多彩な活動の当初は映画音楽の分野において頭角を現し、4回ものオスカー賞を獲得する傍ら、1963年には指揮者としてもデビューします。『キス・ミー・ケイト』(1953年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973年)など時代の好みを反映させ、ハリウッドの著名人にはよくあるようにプレヴィンは結婚回数の多い人物であり、音楽家、男としての興味の衰えない姿を見せる存在だ。クラシック音楽の指揮者としては、その後アメリカ、イギリスのオーケストラ音楽監督を歴任し、着実なキャリアを重ね、管弦楽曲の演奏・録音が活動の中心であり、とりわけスラヴ系の音楽とイギリス・アメリカ近現代の音楽の録音で評価を得てきた。近年では、現在ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振って最もウィーン・フィルらしさを引き出させるなど、ウィーン・フィルとの間に厚い信頼関係を築きあげています。クラシック音楽における自作品としては、ウラディーミル・アシュケナージへの献呈作『ピアノ協奏曲』やハインリヒ・シフに献呈された『チェロ協奏曲』、2002年に当時の新妻アンネ=ゾフィー・ムターのために作曲した『ヴァイオリン協奏曲』、ジョン・ウィリアムズのために書かれジャズバンドも加わる1971年の珍しい『ギター協奏曲』、金管アンサンブルでは『金管五重奏のための4つの野外音楽』、また声楽のジャンルでは最初のオペラとなった『欲望という名の電車』(1998年にサンフランシスコにて初演)や歌曲集『ハニー・アンド・ルー』、室内楽では『オーボエ、ファゴット、ピアノのための三重奏曲』などが挙げられる。一方ではジャズアルバムも制作し、また自らが作曲を手掛けた新作のオペラを録音するなどアグレッシヴな活動を展開していた。
アンドレ・プレヴィンのアナログレコード晩年の初期デジタル録音での演奏だが、上手い。堂々と大柄、シンフォニックな演奏。オッフェンバックの音楽がもつ洗練された小粋な味わいを見事に表現した気品のある演奏です。ロザンタールがオッフェンバックの歌劇からいいところばかりを選んで編曲したバレエ音楽『パリの喜び』は、全23曲それぞれ聴いたことのある名旋律が次から次に繰り広げられて、めっぽう楽しい。バレエの内容は、19世紀末のパリのカフェを舞台にした華やかな人生模様、音楽もストーリーも劇的にドラマティックは帯びないが、その楽しい気分に無条件で浸ることも生活の伴奏にも出来ていい。プレヴィンはパリ風な「粋」のエッセンスを次々ポケットから出し、華やかな人生模様を表現していきます。プレヴィンの指揮する演奏は、息づかいが自然で無理がなく音楽が気持ちよく流れてゆく。作為が感じられずに、音楽そのものを楽しめる演奏になる。もちろん、聴かせどころではそれなりに工夫しているのだが、あざとくないので気持ちよく聴けてしまう。こと音楽を快適に聴けるということに関しては、この人以上の指揮者は誰だろうか。語弊覚悟で表現するとフィルム・スコアを手掛けるように楽譜が眼前に繰り広げられるようで、一見脳天気風な紙芝居にピタリとつけるピッツバーグ交響楽団の饒舌さとともに、指揮者プレヴィンの充実期の記録です。多少腰が重く真面目すぎるのが唯一の難点のドイツ系の音色のオーケストラだったが、ヨーロッパ風の柔らかな響きを引き出したプレヴィンが指揮すると軽やかでマイルドになった。録音はフィリップスだけに、ホールトーンが豊か。ヘンデル『水上の音楽、王宮の花火の音楽』(6514 366)と連番で発売。PHILIPSの熱心ぶりが伺える。最近では、ドイツ・グラモフォンで録音することに強い憧れを持っていたと言っていたのを思い出す。EMIでのロンドン交響楽団と、ピッツバーグ響での、こちらは同じ指揮者なのかと思うくらい落ち着き払った表情で、音響もかなり整理し尽くされている。低俗になりがちな部分とのスタンスが実にスマートなのだ。1982年10月、ピッツバーグのヘインズホールでのセッション、ステレオ・デジタル録音。初発は1983年。
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