定番を聴く。 ― 若い頃のアイザック・スターンは本当に美しい音と、不安を感じさせない表現をしていました。それが、良い形で現れたのがこのメンデルスゾーンです。スターンのヴァイオリン演奏の音色は美音というより、時に荒々しく、豪放磊落。それはハイフェッツにはないものだったと思われます。ヤッシャ・ハイフェッツはスターンの登場により、自分のテクニックを鍛えなおす為に演奏活動を中断して1年間練習したそうですが、ハイフェッツがオイストラフを意識して、オイストラフはスターンを意識して、それぞれが刺激し有って、それが巡り巡ったのです。そもそもハイフェッツが大衆向けの最高のパフォーマーなら、オイストラフは、より深い作品の表現を求めたのに対して、スターンは専門家的な分析から必要以上の脚色を避けた演奏が多いと三者三様。ハイフェッツはアグレッシブ ― 積極的で刺激的。テクニックではスターンの演奏に、いつも鳥肌が立ちます。それは自分の音楽性に絶対の自信が感じられる。多少、人を見下したぐらいの余裕の表れでしょう。そこに、イツァーク・パールマンやピンカス・ズーカーマンから人望厚く慕われているところ。その昔、クラシック音楽が特別なものだった時代がありました。1950年代~60年代が顕著で、「偉大な」、「世紀の」、「完璧」、「この上ない」、「巨匠」などの文字が躍った時代です。既に忘れ去られてしまった人も少なくない中で、この時代に活躍して今も名を残すふたりのヴァイオリニストがいます。旧ソビエトのダヴィド・オイストラフ(David Oistrakh 1908~1974)とアメリカのスターン(Isaac Stern 1920~2001)です。教養主義、レコードの普及、コマーシャリズム、米ソの冷戦に伴う文化政策などと、レコード文化と経済成長や演奏家は国の戦略とも無関係ではなかったのでしょうが。この時代は、皆が本気で「芸術」の存在を信じていた時代です。それは演奏家にも、レコードを作るエンジニアにも感じられるところですが、彼らの堂々とした表現、甘さの無い音色は、1960年代のスターンはヴァイオリンの世界で「大国」を背負って立っていたことと無関係では無いと思います。「強い存在」が失われた現代には見られないタイプの演奏家と言って良いでしょう。スターンの演奏は技術的にも安定しており聴きごたえがあります。スターンのメンデルスゾーンの録音は複数ありますが、おすすめはオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団との共演(1958年録音)が、聴く者の心に直接突き刺す説得力がある。それは良い映画や舞台の緊張感に似て、しなやかで美しい音でありながらも辛口で硬派の内容になっている演奏です。
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ドイツの大作曲家のいわゆる「3大B」 ― バッハ、ベートーヴェン、ブラームスのことを少々意地悪に、音楽史上の「3大退屈男」と呼んだことがある。とはいえ、はなから拒絶したわけでもなくベートーヴェンは全交響曲や協奏曲をしばしば演奏し、レコーディングも行っている。現在では「トルコ行進曲」と序曲しかレコーディングされることがほぼない劇付随音楽『アテネの廃墟』全曲をレコーディングしている。自慢の財力と持ち備えたセンスで若い頃から大々的な活動を繰り広げたビーチャムを突き動かしたのは、ある意味「音楽の開拓者」という使命感だったと言われている。その演奏は世界各地で絶賛され、独特の熟成した美しいアンサンブルにマイルドでエレガントな音色はビーチャムの時代から変わらぬ名演に満ちています。英国音楽界を牛耳っていたとも言われるほどの存在だった怪物だからこそ成し得た、満足できる音楽を自由にやりたいように演奏、録音をした。その演奏内容の多彩さには驚くべきものがあります、定評あるディーリアスでは独特の空気感を伝える絶妙な美しい演奏をおこなう一方、フランス音楽やベートーヴェン、モーツァルトなどでは、ときに過激なまでの思い切った表情付けで楽想をえぐり、さらにハイドンではスケール大きく懐の深い演奏を聴かせるといった具合で、それぞれの作品に真摯に向き合う姿は実に感銘深いものがあります。また、レオポルト・ストコフスキーを初めとして1950年代にレコードをたくさん録音した指揮者は楽譜にはない演奏を良くしている。ビーチャムのレコードもそういった演奏がとても多くあって新鮮に楽しめます。SP時代から録音をおこない長いキャリアをもっていたビーチャムですが、晩年の録音ほど自由な個性、ウィットや豪快さが特によく示されていました。ビーチャムは幅広いレパートリーを誇り、正規レコーディングだけでも採り上げた作曲家の数は69人、そして録音曲の数は477曲を数えたという。ビーチャムの演奏は常に生き生きとした演奏をして、聴衆を大いに喜ばせた。ジョン・エリオット・ガーディナーは『アート・オブ・コンタクティング』の中で「彼の演奏は玉のような宝石があふれ出てくるようである」と評している。レコード録音のレパートリーのスタンダードも構築したような業績もあるので、親しんでいる曲からでもビーチャムの録音盤と聴き比べるのは面白く勉強に成る事でしょう。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはハスキルやグリュミオー、カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、本盤も含め米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。
サー・トーマス・ビーチャムは1879年4月29日、英国ランカシャー生まれの指揮者。また、アイロニー、ユーモア、ウィットに富んだイギリス楽壇の名物男でした。1961年3月8日ロンドンにて没。オックスフォード大学を中退し、ウッドとモシュコフスキに個人的に作曲を師事した他は、ほとんど独学で音楽を学んだ。1898年、急病のハンス・リヒターの代わりにハレ管弦楽団を指揮してデビュー。まずは巡業オペラ団を結成し、これは数年続いた。ディアギレフが主宰した伝説的なバレエ団「バレエ・リュス」の指揮者も務めました。同時代音楽の擁護者としてディーリアスやリヒャルト・シュトラウス、シベリウスとの交流はよく知られています。1909年には大富豪であった父の財産をつぎ込んで、ビーチャム交響楽団を設立、リヒャルト・シュトラウスなどの作品を英国に紹介した。1910年からはロイヤル・オペラ・ハウスを自腹で借り切って、自分の思うとおりのオペラ上演を開始した。半分以上はロンドン初演で当たり外れも大きく、決して充実した実入りにはならなかったものの、足らずと損失補填分は父に借財してどうにか凌いだ。1915年にはイギリス・オペラ・カンパニーを創設、しばらくはオペラ指揮者として活動したが1932年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(The London Philharmonic Orchestra)を創設、1946年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(The Royal Philharmonic Orchestra)を組織し現在も活動している。それ以前にも、1906年の新交響楽団(The New Symphony Orchestra)、1909年のビーチャム交響楽団(The Beecham Symphony Orchestra)を組織、ビーチャムは生涯4つのオーケストラを創設し亡くなるまで指揮者を務めた。現在まで続く製薬会社・ビーチャム製薬(現:グラクソ・スミスクライン)創業家一家の御曹司であった彼は、その類まれなる行動力と潤沢な資金を元手に気儘にオーケストラを創設し、自腹で音楽祭でのオペラ公演やコンサートをしていた。莫大な私財を投じて英国楽壇に貢献した功績は大きく、指揮者としては同時代の作曲家ディーリアスの作品の紹介に務めたことでも知られている。現在コンサートの前に演奏者などがプレトークと言って解説をすることもあるけれども、これもビーチャム卿が最初に始めた。ヘルベルト・フォン・カラヤンより先駆けて初のステレオ・レコードとして発売され、英EMIのカタログから消えることなく50年間以上も多くのクラシック愛好家が代々忘れずに愛聴しているのですから、評価の方も高いことは証明されているでしょう。ビーチャムは82歳まで生きた長寿だけども、1960年に自分の為に創設、編成したロイヤル・オーケストラ後継者にルドルフ・ケンペを指名して引退。1961年に他界しています。現在でも世界4番目と言われる製薬会社の御曹司に産まれたビーチャムは、やりたいことをやって生き抜いた音楽家として満足でしょう。
1958年録音。
YIGZYCN
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