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作曲家への共感を深めたバルビローリによる至高のエルガー演奏。

格言的な暖かさと寛大さを持ったキャリア、英国音楽の変革力、そして当時の偉大なアーティストと共演したバルビローリ。19世紀末、落日間近い大英帝国の「威厳」と「過去の栄光」が交錯する30分の音楽パノラマといっていい色彩感の強味ある2大名曲。そうした、この曲特有のノスタルジックな美しさをバルビローリは全面に出していて、しみじみとした味わいのある英国音楽らしさを堪能させてくれる。

クラシック・レコードの中古オリジナル盤蒐集家の間では、「チェロ協奏曲」や「エニグマ変奏曲」の人気が高いエルガーだが、「威風堂々」や、「交響曲」から抜き出したキャッチーなフレーズはテレビで良く使われているので、市井でもその作曲家、曲名は知らずに親しんでいる機会が多い。
《エニグマ》なら第9変奏の『ニムロッド』は当然、誰もが聞いていたことを知る。「エニグマ変奏曲」は、そのタイトル通り変奏曲であるが、エルガーが身の周りの人々を音符の中に隠している。『エニグマ』という名前の暗号装置があるが、〝謎〟という意味のあるイギリス人好みのミステリー小説の音楽版だ。
このサー・ジョン・バルビローリとフィルハーモニア管弦楽団による演奏も、聴いていてほとんど変奏曲というテクニカルさは意識させず、荘厳さ、メロディックな憂愁美みたいなところで、群を抜いた美しさがある。もうすこし性格変奏曲としてのメリハリがきっちりとついた演奏を聴きたい時はオーマンディが良い。
初版は白金ラベルで、コレクターが目を瞠る表紙は作曲家エルガーが自転車と一緒のアイキャッチの良い写真だった。それが、2版で指揮者バルビローリ卿の指揮姿に変わったのは ― マスタリングではなく ― プレスが見直されたことと無関係ではないだろう。
  • Record Karte
    • 1962年5月9日&8月27日(創作主題による変奏曲「エニグマ」Op.36)、8月27日(序曲「コケイン」Op.40)
    • 録音:キングズウェイホール、ロンドン


販売レコードの写真

  1. NL EMI ASD548 ジョン・バルビローリ エルガー・創作主題…
  2. NL EMI ASD548 ジョン・バルビローリ エルガー・創作主題…

エルガー:エニグマ変奏曲 他(UHQCD)
バルビローリ(ジョン)
ワーナーミュージック・ジャパン
2017-04-19

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ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli, 1899年12月2日〜1970年7月29日)は第二次世界大戦に従軍。「サー・ジョン」(Sir John)の愛称で知られる。1943年にハレ管弦楽団の音楽監督に就任するが、バルビローリが戦地から戻ると、オーケストラの楽団員は戦死したり、傷を負っていて演奏会どころではなかった。どれほどのオーケストラだったといえども指揮者だけでは何もならない。まずはオーケストラの立て直しからがバルビローリの仕事だった。しかし健全な男性奏者は集まりそうにない。空襲で荒廃した街に音楽を響かせるために、女性奏者を募ったり、バルビローリはオーケストラの再興に尽力しました。演奏会以外の時間はそういうことに費やし、一日は24時間じゃないとも頑張った指揮者でした。一日16時間の仕事一日1食も珍しくないといった勤勉ぶりで、技量やアンサンブルは超一流とはいかないがバルビローリ自らが採用したメンバーを含む心あたたまるサウンドは、感興の豊かさ初々しさは段違い。戦後間もない演奏で、演奏者の技量はまだまだながら音楽で復興を応援する気概に魅了される。
良質なワインのように、年を経るにつれて芳醇な味わいを醸し出した指揮者〟と評されるいうに、ジョン・バルビローリは多くの名指揮者を生み出したイギリスの最高の名匠である。生まれたのも没したのもロンドンだったが、祖父も父もイタリアのヴァイオリニストで、バルビローリが生まれた時、〝ジョヴァンニ・バッティスタ〟とイタリア風の名前が付けられたという。ロンドンの王立音楽院でチェロを学び、1916年にクイーンズ・ホール・オーケストラの最年少の楽員となり、翌年チェリストとして初のリサイタルも開いたが、19歳頃に指揮者に転身、ロンドンでオペラやコンサートを振りながら修練を積んで、1933年にスコティッシュ管弦楽団(現スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)の首席指揮者に就任した。1936年にニューヨーク・フィルハーモニックにデビュー。翌年に首席指揮者に就任したが、前任者がアルトゥーロ・トスカニーニであったためか楽員と肌合いが合わず、1943年に辞任してイギリスに戻った。同年マンチェスターのハレ管弦楽団に懇望されて首席指揮者となり、同オーケストラを飛躍的に成長させて名声を博し、1949年に〝サー〟に叙され、楽団からは終身指揮者の栄誉を贈られた(後の桂冠指揮者)。1968年に勇退後も同オーケストラとは親密な関係が続いた。この間の1961〜68年にはヒューストン交響楽団の音楽監督も兼任して、アメリカでも絶大な信望を得た。バルビローリは典型的な大器晩成型で、40歳代終わり頃から魅力的な演奏を聴かせた。極めてヒューマンな人柄と、リハーサルのたびごとに「その音符を愛してください、愛がそこから湧き出るように」と楽員に呼びかけたという音楽への奉仕者の姿は、聴衆と楽員の双方から敬愛を浴びた。その第一の理由はイギリス近代の作曲家たちの作品に、しみじみとした味わいの名演を聴かせたことで、残された多くの名盤ではハレ管とのディーリアス『管弦楽曲集」(1968〜70)がまっさきに挙げられる。これも十八番にした北欧音楽では、やはりハレ管弦楽団とのシベリウスの交響曲全集(1966〜70)が代表作だが、絶対に聞き逃せないのがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのマーラーの交響曲第9番(1964)。前年にベルリン・フィルに客演した際、感激した楽員の提案によって録音されたというエピソードで有名な、このマーラーにこそバルビローリの人と芸術の精華が結実しているとも言える。
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