
ミュンシュ・パリ管弦楽団のセンセーショナルなデビュー盤。 ― シャルル・ミュンシュは音楽が持っているストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。〝ベルリオーズの幻想交響曲〟と〝ブラームスの第1交響曲〟でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセルヴァトアールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。このパリ管弦楽団との録音の前にすでに3回の正規セッション録音を重ねていることからも、その得意ぶりが判ります。パリ管弦楽団との最後の幻想は、老ミュンシュの豊富な演奏経験の蓄積と、最晩年に鮮やかに燃え上がった音楽への情熱が融合して、録音史上最もドラマティックな演奏へと結実したものです。収録は、当時EMIでオーケストラ録音に常時使用していたサル・ワグラムで行われ、録音を手掛けたのは、名プロデューサーとして知られているルネ・シャルランと名エンジニア、ポール・ヴァヴァッスールのコンビです。ホールに分厚く渦巻く演奏の熱気が余すところなく捉えられています。この〝幻想交響曲〟は、ミュンシュもパリ管もデビュー戦。持ち前の大きく、粗っぽい程に、気合い、情熱が入りまくった演奏です。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることからブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。そのアイデンティティあってこそのベルリオーズなどのフランスものでの情熱的な指揮ぶり、爆発的な熱気あふれる音楽表現で感動的。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。解釈は当然ながら徹底していて、ベルリオーズの標題性とドラマ性を思い切りよく描き出した。一度聴いたら忘れられない名演。ベルリオーズの作品はミュンシュが得意としたフランス音楽の中でも最も定評のあったレパートリーで、中でも〝幻想交響曲〟はミュンシュが世界各地で取り上げたトレードマーク的な作品でした。作品に盛り込まれた感情のダイナミズムを余すところなく表現しきる思い切りの良さ、作品全体を俯瞰するスケールの大きさ、夢中になってのめり込んで行くようなクレッシェンドやアッチェレランドの激しさの点で〝ミュンシュの幻想交響曲〟ほど熱い演奏は他にはありません。ミュンシュの美学を背負って立つオーケストラも傑出、聴き手を演奏芸術の神髄に立ち会わせてくれる。指揮者と作曲家、指揮者と作品とが特別なきずなで結ばれている、そんな感銘に浸らせる名盤である。ドラマティックな解釈も素晴らしいし、演奏にかける情熱、覚悟にもただならぬ気配が充満しているが、その背景にはこの名作だけが持つ真実性を、全身全霊をかけて明らかにしようとしたミュンシュの使命感があり、それが強烈な説得力となって演奏全体に輝きとスリルを与えている。座右の宝である。思うがままに棒の振れた充足感に溢れている。ミュンシュのザ・ベストとなれば、まずこれがあげられよう。
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シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891.9.26〜1968.11.6)のキャリアはヴァイオリニストからスタートしていますが、若かりし頃、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任、その時の楽長がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。毎日その巨匠の目の前に座って多くのことを習得したことから、しらずと例の拍子をぼかす内容重視の指揮法はフルトヴェングラーの指揮姿から身につけたものと推察出来ます。ミュンシュは音楽が持っているストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。出生名の綴りはCharles Münchで、ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク(ストラスブール)出身であることから、れっきとしたドイツ人であるがゆえにブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。1949年からボストン交響楽団の常任指揮者に就いたミュンシュは、このオーケストラと数多くのレコーディングを行い、ミュンシュの録音はほぼすべてをリチャード・モーア、ルイス・レイトンというRCAのステレオ録音の礎を築いたコンビが手がけた。『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、いまここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする“命懸けの豪胆さ”が、私たちの心をひしひしと打つのです。
ミュンシュが、その最晩年に持てるエネルギーの全てを注いだのがパリ管弦楽団(Orchestre de Paris)の創設と育成でした。1967年6月、フランス文化相アンドレ・マルローと文化省で音楽部門を担っていたマルセル・ランドスキのイニシアチブにより、139年の歴史を誇りながらも存亡の危機を迎えていた名門パリ音楽院管弦楽団(Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)の発展的解消が行われ、新たに国家の威信をかけて創設されたのがパリ管弦楽団で、その初代音楽監督に任命されたのが〝フランスの名指揮者〟としてのミュンシュでした。第2次世界大戦前にパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者を務めていたミュンシュ以上にこの新たなオーケストラを率いるのにふさわしい指揮者はおらず、同年10月2日からの綿密なリハーサルを重ねてむかえた11月14日の第1回演奏会は、国内外に新しいフランスのオーケストラの誕生をアピールする大成功を収めたのでした。その1年後、1968年11月、パリ管弦楽団の北米ツアーに同行中にリッチモンドで心臓発作のため急逝するまで、ミュンシュは30回ほどの共演を重ねるとともに、EMIにLP4枚分の録音を残しました。その中の1枚がこの〝ベルリオーズの幻想交響曲〟で、11月14日の第1回演奏会でも取り上げられた作品であり、EMIはそれに先だって4日間のセッションを組み、巨匠の叱咤激励のもと覇気に燃える新生オーケストラの息吹を捉えたのです。仲間と音楽を作りたい。そう思ったのかどうか、若い時にオーケストラは組織し、自己流で指揮法を編み出した男の情熱の行き着いた終結点。パリの巨大キャバレーのようなサル・ワグラム・ホール。だだっ広いスペースを音楽で充満させられたのはミュンシュの熱意か。指揮者ミュンシュは、この交響曲でありながら標題音楽でもある〝幻想〟のもつストーリー性を小説家の様な視点で語りかけてくる。ロマンティックな曲想は、ベルリオーズの実体験にもとづいたストーリーあってのものだということを熱を持って表現する。ミュンシュがドライヴするパリ管の燃焼ぶりは、30年以上経った今でも色褪せることがない。
1968年リリースの豪華見開きジャケット。当時の「東芝音楽工業株式会社」製レコードは丁寧な造りで英国直輸入スタンパー使っていた所為か高音質なものが多い。ADFディスク大賞受賞。
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