34-21644

商品番号 34-21644

通販レコード→日赤盤[輸入メタル原盤使用]

芳醇で力に満ち、しかも繊細で優雅。そしてクリュイタンスの醸しだす南欧情緒。とびきりの逸品。 ― オーケストラと指揮者の相性は恋愛に似ている。永遠に受け継がれるレジェンダリー・パフォーマンス。アンドレ・クリュイタンスは、出身こそベルギーのアントワープですが、フランスでの広範な演奏活動と録音を通じて、20世紀を代表するフランス音楽の解釈者として知られる名指揮者です。第2次世界大戦直後、シャルル・ミュンシュとともにフランス音楽界の復興に尽力し、パリ・オペラ座の指揮者、パリ・オペラ・コミック座の音楽監督、そして1949年にはボストン交響楽団に移ったミュンシュの後任としてパリ音楽院管弦楽団(コンセルヴァトアール)の首席指揮者に就任し、その上品で洗練された粋の塊のような演奏でフランス音楽の魅力を世界中に伝えました。日本の音楽ファンにとっては、特に1964年4月~5月にかけて行われたパリ音楽院管弦楽団との来日公演が衝撃的で、この時初めてフランス音楽の神髄と粋に接したのでした。このビゼーの代表的な管弦楽曲を収めたアルバムは、日本公演が行われた1964年に録音されたもので、1965年に発売されて以来、カタログから一度も消えたことのない定盤として聴き継がれている名演です。クリュイタンスは、戦後フランスEMI(パテ)にオペラ全曲盤を中心に録音を開始した。何といっても手兵のパリ音楽院管弦楽団と録音した一連のステレオ録音は、1828年に創設されたこの伝統のオーケストラの美しく古雅な響きを記録した貴重なものです。鮮やかな色彩感の表出と、エレガントな棒さばきが端正で、第一級のパステル画を見るような趣が感じられる。1967年、クリュイタンスの予期せぬ死によって、パリ音楽院管も解散されるが、かつて存在したパリ音楽院管は、サウンドからアンサンブルまで色彩が豊かでニュアンスもあり、まさにフランス的なシックでエレガントな演奏を聴かせていた。フランス国立放送管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団とも広範なレパートリーで録音を残しましたが、当時のフランス音楽界はクリュイタンス一人が背負っていたといってもよいかもしれない。演奏は、フランスあるいはラテン的な意識を超えて、スケールの大きい名演を生み出している。ここではすべてが自在に振る舞われているようでいて、つくりものめいた要素は一切ない。しかも、必要なものはことごとくきちんと踏まえられている。ドラマティックとはいえないまでも、誇張がなくて抒情的であり、清潔感を漂わせている。その点では「アルルの女」に相応しい牧歌性があるといってもいいだろう。今や存在しないパリ音楽院管弦楽団の好演のレコードとしても貴重であり、管弦楽のうまさは特筆されてよい。最後の「ファランドール」のカノンなど、左右のスピーカーからはっきりと分離して聴こえるのは、いかにもステレオ初期の録音との思いを実感させられる。ある種の感慨を持たずにはいられぬ名演です。
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アルルは南フランス、プロヴァンス地方の田園的な美しい都市である。ゆったりとした流れのローヌ河に沿って、古代の遺跡や中世風の建物を多々残している。この落ち着いた田園都市を訪れると、そこに住む人々が同じフランスでも、北方のパリの市民とは全く異なった、率直で、暖かくて、人懐こくて、親切なことに気がつく。アルフォンゾ・ドーデ ― ビゼーより2つ歳下 ― は、アルルの近郊のカマルグという農村の一農家を舞台に「風車小屋だより」というタイトルの小説を書き、後に戯曲「アルルの女」とした。これをパリのヴォードヴィル座 ― の支配人、カルヴァロから ― で上演するに当たって、その付随音楽がビゼーに依頼されたのである。作曲の条件としては、費用の点からオーケストラは一組編成の26名 ― オーボエ1、クラリネット1、バスーン2、サキソフォン1、ホルン2、タンバリン、ピアノ、バイオリンが4本と3本、ビオラ1、チェロ5、コントラバス2と制限され、それに少人数の合唱を使うことであった。ビゼーは ― 6つの混声合唱付きの曲を含む計27曲の劇音楽を書き、1872年にヴォードヴィル座で初演した。この時の模様は、芝居の客は音楽には無関心で、音楽だけの時 ― 前奏曲や間奏曲など ― では平気で座席に出入りしたり、喋ったり、椅子をがたつかせたりして、ビゼーをひどく失望させた。この時の指揮にはアテネ座の指揮者のコンスタンティンがあたっていたが、ビゼーは時々オーケストラの席にいって、ギローやシューダンに代わってハルモニウムを弾いたり、合唱の指揮をしたりした。この上演は、音楽の演奏は素晴らしく、レイエルのように「若い音楽家よ〈アルルの女〉を聞きにゆくが良い」と語ったほどの評判もあったが、大勢は音楽には無関心で、それに劇自体も受けず、15回の上演で打ち切りになり、以来13年間も陽の目を見ないでしまった。しかしビゼーは全27曲から組曲を作り、これをその年の11月にジュール・パドルーの指揮のコンサートで初演して評判をとった。この組曲の好評に気を良くした友人のエルンスト・ギロー ― ビゼーより1年年長の作曲家 ― は、もう一つ新しい組曲を、ビゼーの死後に作ったが、ビゼーがすでに最初の組曲で良い材料を殆ど使ってしまったので、新しい組曲の編作にはかなり苦労したという。ドーデの小説に基づく戯曲「アルルの女」の大意。カマルグの一農家、カストール家の長男、フレデリ(20歳)は家の意志によって、この農家に仕える老羊飼い、バルタザールの昔の恋人(今は老人)のルノー婆さんの孫娘のヴィヴェットとの結婚話が進んでいる。しかし、フレデリはアルルの町からやってきた魅惑的な女(戯曲では名前は明らかにされていない)に夢中になり、その恋が片思いと知るや、絶望して自殺を遂げる。
ジョルジュ・ビゼー(1838〜1875)は音楽史上に登場する幾多の天才作曲家の中に、必ず数えられるべき人である。父親が声楽教師兼作曲家で、母もピアノが上手く才媛の誉れの高かった婦人だが、ビゼーはこの両親の異才を受けて、幼時から神童ぶりを発揮した。エピソードの一、二を挙げると、父の歌のレッスンを扉越しに聴いて、後でそれを伴奏を付けて正しく歌ったとか、8歳の時には難曲でも初見で歌ったという。そして9歳になるともう両親は教えることがなくなってしまったのである。そしてわずか10歳にして、異例のパリ音楽院入学となった。音楽院学生のビゼーの天才ぶりは相変わらずで、入学の翌年には早くもソルフェージでプルミエ・プリをとり、入学の3年後には ― まだやっと13歳、オーケストラのスコアを所見でピアノで楽々と弾いてのけた。音楽院ではいろいろの教師に就いたが、一番重要なのはジャック=フロマンタル・アレヴィ(1799〜1862) ― ビゼーよりも39歳も年上の、当時のフランス楽界で重要な地位を占めていた作曲家である。その門からビゼーの他にシャルル・フランソワ・グノーも輩出している。和声法、フーガ、作曲法を学び、10年間研鑽を積む中で様々な賞を獲得した。特筆すべきは、1857年のローマ大賞受賞である。ローマ大賞は毎年フランス美術アカデミーが絵画、彫刻、建築、音楽のコンクールを行い、その一等に与えられる賞で、音楽部門はパリ音楽院の作曲科の学生の中から選ばれる。受賞者には4年間ローマのフランス・アカデミーに留学する権利が与えられ、受賞した作曲家にはベルリオーズ、ドビュッシー、イベールが名を連ねている。色彩感豊かな表現力が全編を覆うビゼーの音楽には、生き生きとした生命力が宿っている。様々なジャンルの作品を書いたが、就中劇音楽の分野で才能が存分の発揮された。ビゼーの名は劇音楽《アルルの女》と歌劇《カルメン》によって不朽となり、就中《カルメン》は現在最も人気の高いオペラの一つに数えられている。このように世界中のオペラハウスで上演されている《カルメン》も、初演当時は内容の悲劇性と不道徳性に危惧を抱く人が多く、聴衆には認められず、批評家は無関心を装った。作曲家が時代を先取りした斬新な作品を書いたり、あまりにも内容がユニークなために初演が失敗に終わり、自信を失って病気になるケースは数多く見られる。ビゼーも、《カルメン》初演の失敗が命を縮めることになったようだ。ビゼーは不評に大きな精神的ショックを受け、心臓と咽喉の持病が悪化し、1875年6月3日、わずか37歳でパリ近郊のプージヴァルで亡くなっている。
アンドレ・クリュイタンス(André Cluytens)は、1905年3月26日、ベルギーのアントワープ生まれ。父、祖父共に指揮者という家系であった。17歳の時、同地の王立歌劇場で補佐指揮者などをつとめ、22歳の時にビゼーの歌劇「真珠採り」で同劇場の指揮者としてデビュー。1949年にシャルル・ミュンシュの後任としてパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者に就任し、1964年には同管弦楽団を率いて来日。その名演は今も語り草になっている程である。1967年6月3日にガンのためパリで死去。指揮者として最も脂ののった62歳という若さであった。クリュイタンスが1967年に僅か62歳で世を去ってから、既に50年の月日が経つ。彼の死は音楽から、ある掛け替えのない宝を奪い去った ― という時、私たちが郷愁にも似た気持ちをもって想い起こすのは、彼がフランス音楽の演奏において聴かせてくれた、文字通りにフランス的としか言いようのない洗練と瀟洒な美感だが、クリュイタンスの音楽は単にそうした感覚的な喜びや快感だけで受け取るには、あまりにも情け深いものだった。そこには、最上の感覚的な戯れと背中合わせに、透徹した知性と、一切の過剰や誇張を厳しく拒否する節度があった。それだけではない。伸びやかで自由な愉楽と同時に、磨きぬかれたメティエと職人芸の確かさがあった。オペラやバレエを指揮して生き生きとした劇場的な効果とムードを生み出すかと思えば、宗教劇や教会音楽の演奏には限りなく敬虔な祈りがあった。更に、彼はフランス音楽だけのスペシャリストではなく、ベートーヴェンの交響曲の指揮はドイツでも高い評価を受けていたし、バイロイトでワーグナーを指揮した初のフランス系指揮者でもあった。つまり、クリュイタンスの音楽は、ある一つの概念で規定しようとすれば確実にそれと正反対の概念が浮かんでくるような多元性があったのだが、しかも彼はそうした多元的な要素を生々しい抗争として提出することは決してなかった。すべては自然で自由な美として呼吸していた ― クリュイタンスは常に微笑んでいるというベルナール・ガヴォティの言葉のように、彼の遺したレコードは、その清らかな微笑みがいかに意味深いものであったかを、様々な形で啓示している。それらを改めて聴き返すたびごとに、私たちは、クリュイタンスの死によって失ったものの大きさを、そしてこの50年の間二度と再び見出すことの出来なかった美を、思い知らされるのである。
オーケストラと指揮者の相性は恋愛に似ている。スター指揮者に成ったからってオーケストラに受け入れられないと続かない。アンドレ・クリュイタンスのパートナー、パリ音楽院管弦楽団は今から200年前に「前衛音楽」であったベートーヴェンをフランスの聴衆に受け入れられる働きをした。作曲されたばかりのベートーヴェンの作品を創立から20年間の間に取り上げた演奏会は191回中183回に及ぶ。このコンビのあまりの素晴らしさに「日本のオーケストラがこのレベルになる日は永遠に来ないのではないか」とまでいわれたという。両者の相性は抜群で、このレコードを録音するために人生を成長してきたのではないかと思いたいほどです。両者の幸福な結婚は1967年のクリュイタンスの死去で、パリ音楽院管弦楽団が140年間の楽団の歴史を解散という形で幕を引いたことでも、よほど相性の良い恋愛関係だったのだなぁと素敵で羨ましく思えるのです。クリュイタンスはフランス人ではない。お隣のベルギーはアントワープに生まれ公用語のフランス語以外にドイツ語も学んだ事からドイツ的な素養も身に付けていた。その為か彼がそもそも名声を得たのは1955年にフランス系として初めてバイロイトに登場したという経緯からしてベートーヴェンやワーグナーだった。そのせいかアンサンブルに雑なフランス人の指揮者に比べこの人の演奏は合奏が実にしっかりしているし、非常に計算し尽くされた響きのバランスに驚かされてしまう。まずはこの辺が仏パテ社を唸らせ、数々の名盤を算出し、それらを普遍的なものにしている要因だと思う。もちろんフランス的な色彩感覚も抜群に素晴らしい。これほど色彩的な精緻さでクリュイタンスを越える演奏はちょっと他では見当たらない。なんでこんなに優雅で精緻で色彩感があるのだろう。陶酔感があるのだけど、つねに制御を失わず、熱狂的になっても理性を失わず、エレガント。しかも巧妙にドイツ系の曲目は、本場ドイツの名門ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を起用するケースが多かった。ベルリン・フィル初のベートーヴェン全集を録音を担う訳ですが、1957〜1960年、ベルリン、グリューネヴァルト教会におけるステレオ録音です。これなどはクリュイタンスが言いたいことを良くおしゃべりしているように聴こえます。夫婦仲に会話が大切と言われます。指揮者の中にはオーケストラの上に君臨する亭主関白がいて、それはそれなりに強く訴えかけてくるものがあるのですがクリュイタンスの演奏からは、そうした人為的なカリスマ性は見えてきません。どうにも言葉にするのが難しい個性と雰囲気を持っていて、独特の質感としかいいようがない何かを表現している。どれひとつとっても見落とすことの出来ない貴重盤輩出したクリュイタンスは凄い。この人のもつ深い教養と音楽への真摯な想いが、そのままオーケストラに伝わり何のケレン味もなく響きとして紡ぎだされる様を思えば、オーケストラと指揮者の間の、深い信頼関係がどれほど重要なものかを改めて感じさせてくれるような気もします。
1964年1月13日~15日パリ録音。