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ロンドンっ子の熱狂ぶりを今に伝える感動的な演奏 ― イギリスの名指揮者、サー・マルコム・サージェント(1895〜1967)は、プロムスへの長年の貢献により国民的人気を得ていました。もともとオルガニストで作曲家だったサージェントの指揮者デビューは1921年のプロムスのことで、以後、オーケストラの指揮と合唱指揮の分野で活躍して1947年にサーの称号を授与され、翌1948年から亡くなるまでの約20年間に渡ってプロムス(プロムナードコンサート)の首席指揮者を務め、500回以上も指揮をしたことから、多くのイギリス国民に親しまれる存在となっていました。サージェントの指揮ぶりは華麗なスタイルでしたが、実際の演奏の方は洗練された趣味の良いものが多く、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したシベリウスやロッシーニ。ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲3番『英雄』、シューベルトの『未完成』交響曲、スメタナの連作交響詩『わが祖国』、ホルストのバレエ組曲『どこまでも馬鹿な男』、本盤のブリテンの《シンプル・シンフォニー》、ウォルトンの《ファサード 第1&2組曲》。BBC交響楽団とのホルストの組曲『惑星』、本盤のブリテンの《青少年のための管弦楽入門》。シベリウス作品等々、かつてLP時代にはサー・トーマス・ビーチャムやサー・エイドリアン・ボールト、サー・ジョン・バルビローリと並んで人気を博していた。彼らの演奏を聴いて改めて思うのは、演奏芸術は時代の変遷を問わないということ。また、サージェントは合唱にも強い指揮者で作曲家でもあったことから合唱大作を好く取り上げており、1928年にはロイヤル・コーラル・ソサエティの合唱指揮者に就任。1931年、ウォルトンのカンタータ『ベルシャザールの饗宴』の初演を指揮しています。得意のヘンデルのオラトリオ『メサイア』に至っては4度も録音(1927、1946、1959、1965年)しているという徹底ぶりでした。ほかに、ハーモニカの名手ラリー・アドラーと共演したレイフ・ヴォーン=ウィリアムズの「ハーモニカと弦楽のためのロマンス」や、サージェントがその普及に情熱を注いだアフリカ系イギリス人作曲家で「アフリカのマーラー」とも称えられたサミュエル・コールリッジ=テイラーの『ハイアワサの婚礼の宴』などといった興味深いレパートリーが代表する有名録音盤としてある。モダン・オーケストラの能力を最大限効果を上げ、英EMIのノウハウを十全に駆使して時にはハッと生演奏のような錯覚すら覚えさせる、聴いた後の爽快感がいい。最もイギリスの聴衆に愛された指揮者ともいわれています。
  • Record Karte
  • ブリテン:シンプル・シンフォニー~ロイヤル・フィル[録音:1961年]/ブリテン:青少年のための管弦楽入門~BBC交響楽団[録音:1959年]/ウォルトン:ファサード 第1&2組曲~ロイヤル・フィル[録音:1961年]、セッション・ステレオ録音。
  • JP 東芝音楽工業(赤盤) AA7145 サージェント・ロイヤルフィ…
  • JP 東芝音楽工業(赤盤) AA7145 サージェント・ロイヤルフィ…
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サー・トーマス・ビーチャム、サー・エイドリアン・ボールト、サー・ジョン・バルビローリと並ぶイギリスの名指揮者サー・マルコム・サージェントは決して派手な芸風を売り物にする指揮者ではなかったが、20世紀イギリスを代表する指揮者の一人であり、遺された録音もイギリスの音楽作品を中心に高水準の名演がめじろ押しです。何故かイギリスの指揮者は、ブリテンの青少年の管弦楽入門を例にとるまでもなく将来の顧客ないしは演奏家になるであろう子供達にクラシック音楽を啓蒙したい傾向が有る様です。私たちは幼い時から年末には必ず、彼の作品に親しんでいるのですが、それを知らずに育っているのです。ケント州のアシュフォードに生まれた20世紀イギリスを代表する名指揮者。石炭商人を務めながらも聖歌隊の指揮者、オルガニストとして活躍した父のもとで音楽に親しみ、サージェントは教会音楽についてじゃ少年時代から抜きん出た才能を見せた。またギルバート&サリバンの作品についても早くから親しみ、終生変わることのない愛情を抱き続けた、初め教会のオルガニストとしてキャリアをスタートさせているが、1921年ヘンリー・ウッドが主催していたプロムスに招かれ、自作の管弦楽曲「強い嵐の日の印象」(Impression on a Windy Day)作品9を指揮した。オーケストラはクィーンズホール管弦楽団で、これはサージェントがプロのオーケストラを初めて指揮したデビュー公演でもあったのだが大きな成功となり、以来、ウッドの勧めもあってサージェントは指揮者としてロンドンを中心に活躍するようになった。1932年サー・トーマス・ビーチャムがロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を創設すると、その中心的な指揮者の一人となっているし、1939年〜1942年にはリヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も務めている。また合唱指揮者としての名声はつとに知られるところとなり、1928年から亡くなる1967年までロイヤル・コーラル・ソサエティの指揮者として人気を博したし ― その合唱とオーケストラのために「きよしこの夜」を編曲 ― 、この間の1931年にはリーズ音楽祭でウォルトンの「ペルシャザルの酒宴」を初演している。また大戦中は戦禍の中、国内に留まり、慰問コンサートなどに尽力、国外に逃れる格好となったビーチャムに代わりイギリスでの人気を不動のものとした。戦後はさらに人気を高め、BBC交響楽団の指揮者として活躍した他(1950〜1957年)、プロムスの中核的指揮者として終生出演を続けた。またBBCを通して彼の解説も親しまれた。外国への演奏旅行では〝イギリスの音楽大使〟として愛された。ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」(1946年)、ウォルトンの交響曲第9番(1958年)の初演も行っている。1947年ナイトの称号を授与されている。決して派手な存在感を誇る指揮者ではないし、レパートリーも限定されているが、内なる情熱を秘めた感動の質の高い演奏を聞かせた。録音もイギリスの作品を中心に不滅の名演がならんでいる。1967年に亡くなるが、音楽好きのチャールズ皇太子との交流が晩年の巨匠を勇気づけ、絶筆は皇太子へのエルガーのチェロ協奏曲のレコードの献呈文だといわれている。