JP SONY SONC15003-4 ワルター・ニューヨークフィル MAHLER SYMPHONY NO.5/BRUCKNER TE DEUM
商品番号 34-23758
通販レコード→日本CBSソニー NOT FOR SALE見本盤 豪華布張りカートン入り
これがワルター唯一のマーラー交響曲第5番 ― 数多くの優れた音楽家がナチス・ドイツの暴挙を嫌い、憤怒の涙を流しながらヨーロッパからアメリカに亡命した。20世紀の悲劇。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並び称されたドイツの大指揮者、ブルーノ・ワルターもそのひとりである。ワルターが6歳からピアノを学び、シュテルン音楽院に入学した神童であったことはファンの間ではよく知られていますが、彼がピアノを弾いている演奏は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番の弾き振りと、ロッテ・レーマンの歌うシューマンの歌曲の伴奏、自宅でのショパンなどの録音。キャスリーン・フェリアーの伴奏をかって出たエディンバラ音楽祭でのシューベルト、シューマンにブラームスの歌曲集や本盤で聴くことができるデジ・ハルバン(Desi Halban, 1912.4.10 – 1996.2.12)とのマーラーの歌曲集《若き日の歌》からの8曲。「思い出」「別離と忌避」「再び相まみえずに」「私は緑の森を楽しく歩いた」「夏に小鳥はかわり」「ハンスとグレーテ」「春の朝」「たくましい想像力」。根っからのロマン主義者であったワルターでしたが、指揮と同様、このピアノ伴奏でも過剰なルバートやデュナーミクを多用することなく、ここでもハルバンの歌をより格調高く歌わせるような、巧みな指さばきを見せています。ハルバンは、ウィーンの生まれで幼少時よりワルターと親交のあった名ソプラノ。画商であったユダヤ系オランダ人と結婚したことにより、ナチスに追われ渡米を余儀なくされました。失意のハルバンを救ったのがやはりワルターで、マーラーの交響曲第4番のソリストとしてハルバンを度々起用。コロムビアにも高名なスタジオ録音を遺しました(1945年)。ハルバンの声質は当時のハリウッド女優的な可愛らしい高さが特徴でチャーミングの一言です。美しく、芯のある歌声で、さすがにワルターに認められただけのことはある。ハルバンはワルターとの共演を次のように語っています。
ワルターとは数え切れぬほどの共演をいたしました。ニューヨーク・フィルとはもちろんのこと、フィラデルフィアやクリーブランドを始め、共演は全米にくまなく致しましたが、そのすべての演奏会、すべての練習が天啓だったと申しても過言ではありません。ユダヤ人であったワルターだが、キリスト教の宗教曲は積極的に録音している。ワルターによるモーツァルトの「レクイエム」を1956年にザルツブルグ音楽祭で聴いた植村攻は、その著書「巨匠たちの音、巨匠たちの姿」(東京創元社)に於いて、
ある時は神の怒りそのものが乗り移ったかのように、タクトを深くつよく刻んでオーケストラやコーラスを咆哮させたが、(中略)怖いほどの威厳に溢れた激しさであった。ところが次の瞬間、一転して天上の神に訴える謙虚でうやうやしい調べを歌わせるとなると、もうこれは彼の独壇場で、メロディのあやのすべてを歌手の歌いまわしの隅々まで行き届かせ、限りない優しく美しい法悦の世界を造りだした。激しい戦慄が平和な法悦を引き立たせ、それが溶け合いながらまた次に移る、千変万化の豊麗な輝きに、この時ほど陶酔出来たことはないと書いている。特にブルックナーの《テ・デウム》に関しては第二次世界大戦後のウィーンでの復帰コンサートなど、特別の日に演奏しており、思い入れも深かったようである。1953年3月録音、ワルター76歳。演奏はニューヨーク・フィルハーモニック。そのせいか、演奏は一期一会的な力演となっている。ブラインドで聞かせられたらワルターとはとっさに思い浮かばないほどの比類のない迫力がある。ちょっとアップテンポな演奏で、モーツァルトの〝ト短調交響曲〟と等しく音楽が叫び、合唱とオーケストラはともに渾身の力で走り続けている。尋常一様のものではない迫真性がある、こういう技術的なものを乗り越え論理を超越した有無を言わせぬ感動を与えてくれる演奏は、やはり良い。ワルターは、作曲家と解釈者との共感が不足しているときは
もっともまじめな意味での平凡な解釈の欠点となるが、
(マーラーのような)霊感のあるすぐれた解釈者の場合になると、(中略)法悦は個人を超越させ(中略)、人の作品を再生することが正しい創造になるのであると述べている。マーラーと親密だった弟子として、早くから作品紹介に務めたワルターのマーラー演奏には特別な説得力があります。師への畏怖の顕れか、迷いがない。ワルターの洞察しぬいた確信に満ちた、「マーラーの5番はこういう音楽なのだ!」という演奏を明示する。ニューヨーク・フィルの演奏も骨太で力強い。マーラーの再生芸術(演奏)について、ワルターは
ひとつの音楽の表現からどれが作曲家の魂のことばであるか、またどれが解釈者のそれであるか、またどこまでが両者の融合であるか、これは音楽再生の実際上の秘訣に触れる問題で一概には決定できないが、(中略)自己の積極的な個性によって信念を遂行できたかどうか、またその自己告白の直接的な力によって、深い感情をわきたてることができたかどうかが問題なのであると著書「マーラー 人と芸術」(村田武雄訳)で述べている。マーラーがハンブルク歌劇場の音楽監督(1891〜1897年)だった時代、その下で副指揮者を務めながら研鑽したワルターの《交響曲第5番》は、意外にも古典的な手堅さを見ることができる演奏です。またワルターがニューヨーク・フィルの音楽監督時代の録音です。意外にも、これがワルター唯一のマーラーの《交響曲第5番》の録音です。演奏はこちらも全体的に速めですが、第1楽章のクセのない葬送行進曲から、第2楽章第1主題は激しさを増し、第2主題で叙情性強く変化させ王道の解釈。第3楽章第3主題はマーラーの「より遅く、落ち着いて」の指定が見事に展開されます。そして、ゆったりと冷静なアダージェットを経て、最終楽章は軽量軽快な第1主題と第2主題が絡みながらフィニッシュまでは迫力いっぱい盛り上げて、アッチェレランドを強烈に決めます。彼が本来歌劇場育ちだったことを思い起こさせる。心臓病を患った後のコロムビア交響楽団との一連の録音よりドラマティックな感情の表出は烈しく、1953年の現役のワルターの力強いさが刻まれています。一度も来日しなかったのに、今もなお日本で最もファンの多いワルターはマーラーの演奏に関しては別格の完成度を見せる、このオーケストラとの共演ならではの深い理解に基づく美しく雄大な名演奏です。こういう音楽と出会える喜びにこそ蒐集の醍醐味があり、ますます抜け出せなくなってしまう。モノラル録音ですが、この時期はRCAやコロムビアからステレオ録音も始まっていていますがまだまだ黎明期、モノラル録音集大成実現した優秀録音で音質は文句有りません。
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第9交響曲は未完に終わり、第4楽章の完成はかなわないと察したブルックナーは、この交響曲を演奏するときには終楽章の代わりに《テ・デウム》を演奏して欲しいと言い残した。〝ベートーヴェンの第9〟が脳裏をかすめたのか、未完で終わった自分への鎮魂を手向けて欲しかったのかは今となっては知れない。ブルックナーの《テ・デウム》とモーツァルトの『レクイエム』を組み合わせることも曰くがある。1892年4月15日にハンブルクでグスタフ・マーラーの指揮により《テ・デウム》とモーツァルトの「レクイエム」が演奏され、その大成功を翌日マーラーは師であるブルックナーに次のような手紙を送り報告している。「昨日(聖金曜日)私はあなたの素晴らしい、そして力強い《テ・デウム》を指揮しました。一緒に演奏した人たちもすべての聴衆も、力強い構成と真に崇高な楽想に深い感動を与えられました。そして演奏の最後には、私が作品の最大の勝利と考えているものを体験しました。聴衆は黙って座り続け、身動きすることもなく、指揮者である私と演奏者たちが席を離れてから、はじめて喝采の嵐が巻き上がったのです…。『ブルックナー』は、今やハンブルクへの勝利に満ちた入場を成し遂げたのです」。マーラーの言う「最大の勝利」を体感できる演奏会となった同日、聖フローリアンではベルンハルト・ドイブラーの指揮により、ブルックナー最後の教会典礼用作品である「王の御旗は翻る」が初演された。まことにモニュメンタルな人生一度きりであろうと思ったのであろう、「生きている」ことに感謝した演奏に出会うことがある。本盤で聴くことができる音楽がそうで、LPレコード時代は第9交響曲の後に《テ・デウム》が収まったレコードはブルーノ・ワルター盤しか昔はなかった。
ブルーノ・ワルターはマーラーに才能を認められ、20世紀初頭にウィーンとミュンヘンの宮廷歌劇場で名をあげた。ナチス台頭後もしばらくヨーロッパにとどまっていたが、1939年に渡米、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めた。戦後、ヨーロッパの楽壇に復帰し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺すために組織されたコロムビア交響楽団とのセッションに専心し、1962年2月に85歳で亡くなった。レコーディングの仕事には戦前から積極的に取り組んでおり、1930年代のウィーン・フィルとの録音は絶品と評されている。
ブルーノ・ワルターはクラシック音楽を聴きはじめた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者として現れる。そして、ライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。これはワルター受容の一つのパターンと言えるだろう。そんな人物像を前提にして、想い出される《田園交響曲》に代表される温和で情緒的なワルター・イメージに支配されているなと気付かされる。ワルターはトスカニーニのようにオーケストラに対して威圧的な態度をとることがなく、穏和とか柔和というイメージがついているが、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。その両面を堪能させるのが、ニューヨーク・フィルを指揮したドヴォルザークの交響曲第8番(1948年ライヴ録音)やブラームスの交響曲第2番(1953年録音)だ。ブラームスの交響曲第2番は聴き終えるのが惜しくなるほどの素晴らしさで、哀愁も優美も情熱も歌心も極まっている。数多ある同曲の録音の中でもトップクラスに位置する名演奏だ。ワルターのことがよく分からなくなるとドツボにはまる。戦前から5大指揮者に数えられ、ワルターも戦時下のウィーンの指揮者なのだ。あまりにも有名な1929年ベルリンのイタリア大使館で左からワルター、アルトゥーロ・トスカニーニ、エーリッヒ・クライバー、オットー・クレンペラー、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがならぶスナップがある。アルトゥール・ニキシュ、マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらしたワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はがさつとか下品と言われがちだったアメリカのオーケストラを使って、ヨーロッパのオーケストラの熟成された深みのある響きを自分なりのやり方で練り上げた。モーツァルトやブラームスで清澄で意味深い音楽を奏でるワルターは、勢い鈍重な表情を見せることで、一層の感銘を残す。強さだけでなく大きさを増していくようなこの指揮者の求心力には、心底驚かされる。ここが聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りを示す。本盤でも同様。
ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日〜1962年2月17日)はドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロンビア社(CBS)の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でのベートーヴェン〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。コロンビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。
天は永遠に青みわたり、大地はゆるぎなく立って、春来れば花咲く。けれど人間はどれだけ生きられるというのだ。
ブルーノ・ワルターが〝比類ない名演〟を残したのが、深い絆で結ばれていたマーラーの音楽だった。実質的に9番目の交響曲でありながら、「交響曲は9曲書くと死ぬ」というジンクスを嫌って交響曲と名付けなかった《大地の歌》の初演(1911年)を指揮したのも、ワルターだった。マーラーが高く評価していたワルターは、マーラーの死の半年後にこの曲を初演しました。マーラーは1908年の夏に、熱に浮かされたように中国の詩集をテキストにしたこの作品の創作に没頭しました。自分の苦悩と不安の全てをこの作品の中に注ぎこみました。それが「大地の歌」なのです。「5番」、「6番」、「7番」、「8番」の交響曲を作曲してきた次の声楽付きの交響的作品、彼は「大地の歌」を最初は9番のつもりで書き始めて、あとでこの番号を消したのでした。つまりマーラーは、この「大地の歌」に交響曲としての番号をつけることを避けようとしました。なぜならベートーヴェンもブルックナーも10番目にたどりつけなかったことから、第9交響曲という観念にひどくおびえていたからです。偉大な交響曲作曲家は9番以上は書けないという迷信におびえて、この作品を交響曲と呼ぶ勇気がなかったのです。そう呼ばずにおくことで、彼は運命の神様を出し抜いたつもりでいたのです。その後、現在の第9交響曲にとりかかっていたときに、妻アルマに「これは本当は10番なんだ。『大地の歌』が本当の9番だからね。これで危険は去ったというわけだ!」と思わず言わずには居られませんでした。あぁ、運命の歯車は動き出します。結局、彼は9番の初演には生きて立ち会うことができず、10番はついに完成にも至りませんでした。神様は間近で、その告白を聞いていたのです。
ベートーヴェンやモーツァルト、ブラームス、ハイドン、シューベルトなどの曲と違って室内楽的に個々の楽器が奏でられ、しかし大原則が潜んでいることに気が付かされる頃、それらが必然性を持って連携していて広大な宇宙を作っていく印象的な緊張感のある出だし。予想もつかない飛躍、劇的変化があり、しかしそれもやはり内的連関があって必然性がある。それらを一つの統一体にするところがマーラーの天才のなせる業であり、それをその通りに再現してくれるブルーノ・ワルターの素晴らしさ。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏での疾走する緊張感にも比類ない感動があるが、コロムビア交響楽団による演奏では激しく、ワルターが本来洞察していた姿を示してくれる。1938年録音のウィーン・フィルとの演奏は、この上ない素晴らしい演奏ですがワルター自身は、あの録音が異常な極限状態に置かれた場での演奏であったことから本当に自分が満足できるものではなかったことを何度か述べている。そして、このコロムビア響との演奏が自分の本来の演奏であることも述べている。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のインテンダントだったウォルフガング・シュトレーゼマンがカリフォルニアのワルター邸を訪問した際に、録音したばかりのマーラーの第9番とブルックナーの第9番のレコードを聴かせてくれ、「さながら目の前にオーケストラがあるように指揮をするのだった」と著書で述べている。これはワルターが完全に満足した演奏であることを証言している。本盤は録音状況がよく、かつ細部まで目届きされたマーラー解釈が濃縮されているコロムビア響との演奏である。多くの聴きてが初めて〝マーラーの第9番〟の本質に触れた記念碑的音盤だったに違いない。ワルターの没後、レナード・バーンスタイン(1965年)、オットー・クレンペラー(1967年)らの非常な名盤の登場によって一気に「交響曲第9番」の普及がすすむ原動力となっているのは確実だ。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の綺羅星の如く存在する名録音の中でも、最も突出した名演として知られるものの1つに、ブルーノ・ワルターが1960年5月29日に行った「マーラー生誕100周年記念祭公演」があります。記念祭が、まずカーネギー・ホールで行われ、ウィーンでもワルターが招かれ交響曲第4番をエリーザベト・シュヴァルツコップのソロで演奏している。マーラーの作品ではウィーン・フィルとの交響曲第9番(1938年録音)、キャスリーン・フェリアーが歌っている「大地の歌」(1952年録音)が昔から知られている2大名盤。それに、コロムビア交響楽団との交響曲第1番「巨人」(1961年録音)もワルターの意図をしっかりと汲んだ演奏になっている。レコーディングの仕事には戦前から積極的に取り組んでおり、1930年代のウィーン・フィルとの録音は絶品と評されている。芯からエネルギーに満ちた音楽でさえ、オーケストラの歌わせ方が実にしなやかで、繊細な響きはどこか妖しさをたたえている。温厚な男らしさでオーケストラを束ねたのはワルター唯一だ。クラシック音楽を聴きはじめた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者としてワルターの名前を覚えることになる。そして、勧められる名盤とされるレコード、CDのライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。しかし温厚とは女々しいことではない。アルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並ぶ、戦前、戦中、戦後を通して活躍して音楽好きを魅了した3大指揮者だが、ワルターだけは激をオーケストラに飛ばすことはなかった。尤も、1930年代の名録音はワルターが60歳前後であり、戦後のコロムビア響と一連の録音を行ったときは80歳になっていた。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きく、そして芯の部分が柔軟であってのことだろう。しかし、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。ワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はヨーロッパのオーケストラにある熟成された深みのある響きを、アメリカのオーケストラを使って自分なりのやり方で練り上げた。アルトゥル・ニキシュ、グスタフ・マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらした使徒ワルターの功績はそれ以上にある。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。その響きは若木ではないが枯れ木でもない。今が聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りがここにある。強さだけでなく大きさを増していくような、この指揮者の求心力がオーケストラの響き隅々に行き渡っている。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺すために組織されたコロムビア響とのセッションに専心し、1962年2月17日に85歳で亡くなった。
- Record Karte
- 交響曲第5番は1947年2月10日、ニューヨーク・フィルハーモニックの本拠地であったカーネギーホールでライブ録音されました。意外なことに、これがワルター唯一のマーラー交響曲第5番の録音です。ブルーノ・ワルターがピアノ伴奏した「若き日の歌」より8曲[第1集第2曲「思い出」(レアンダー詩)、第3集第3曲「別離と忌避」(「子供の不思議な角笛」より)、第3集第4曲「再び相まみえずに」(「子供の不思議な角笛」より)、第2集第2曲「私は緑の森を楽しく歩いた」(「子供の不思議な角笛」より)、第3集第2曲「夏に小鳥はかわり」(「子供の不思議な角笛」より)、第1集第3曲「ハンスとグレーテ」(作曲者詩)、第1集第1曲「春の朝」(レアンダー詩)、第2集第4曲「たくましい想像力」(「子供の不思議な角笛」より)]はデジ・ハルバン(ソプラノ)、1947年12月16日、ロスアンジェルス録音。ブルックナー:テ・デウムは、フランセス・イーンド(ソプラノ)、マーサ・リプトン(メゾ・ソプラノ)、デイヴィッド・ロイド(テノール)、マック・ハレル(バス)、ウェストミンスター合唱団、1953年3月録音。
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