34-24347

商品番号 34-24347

通販レコード→JP LONDON最初期FFSS盤 170g重量盤 1963年発売 輸入メタル使用盤 1E/2E最初期期スタンパー 裏面最初期ブルーバック

重低音に酔いしれよう。 ― 「ロマンド管の音を味わっていただくのには、ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで聴いてもらわなくてはなりません。」アンセルメが来日時のインタビューで語った、ダニエル・バートン設計の同ホールは低音が極端に抑えられ、高音は艶やかさと華やかさにあふれた独特の響きをもつために、ドイツ音楽には不向きだがフランス音楽には最適とされる。ここでは管楽器の独特の音色やニュアンス、とくに鼻にかかったような木管のイントネーションとラテン的で華麗なブラスの響きに特徴があり、今では失われてしまったフランスの古き良き香りが引き立つ。ヴィクトリア・ホールは優れた音響を誇るうえに、レコーディング・スタジオとしても最適でした。本盤はオルガンの音でオーケストラ全体を包みこむように録る〝デッカ・ツリー〟のマイク・セッティングによるもので、やわらかな金属和音がオーケストラにしっとりと溶け合う。19世紀後半にパリで活躍していた、サン=サーンスの傑作交響曲。古典的な様式によりながら、色彩感に溢れたオーケストラとパイプ・オルガンの音響で壮麗さを演出した作品。アンセルメが見事に表現した名盤ですが、とりわけサン=サーンスはオルガンの重低音をとらえた優秀録音として名高いものです。ヴィクトリア・ホールは、上方のパイプオルガンからステージにむけて非常に勾配の急な〝ひな壇〟がある。つまりこのひな壇に管楽器・打楽器を配置することでメイン・マイクに対して、立体的に音源となる楽器を配置できるという強みがあったのだ。指揮台の頭上に吊るした3本のマイクロフォンのみで収録されたにもかかわらず、圧倒的な色彩感と空間性が再現されています。個別にマイクを向けたオーケストラとオルガンの演奏を合成して仕上げた不自然な響きとは次元の異なる質の高いサウンドを堪能させてくれる。極端に急勾配のひな壇に楽器群からマイク迄をほぼ等距離に設置したワンポイントマイク録音だから位相差が少なくリアルに聴こえる。表面はサラッと流しているようだが、その実、細部まで神経のよく行き届いた表現で、ことに管楽器のバランスと、リズムの扱いの巧妙さという点では抜群だ。オルガンの明るい音色とスイス・ロマンド管弦楽団との息がぴったりと合っているのも、こころよい。かつてはアリスティド・カヴァイエ=コル(1811〜1899)の名器と呼ばれたオルガンがここに設置されていて、ヴィドールなどのフランス近代を代表するオルガニスト、作曲家たちがここでよく演奏していたそうですから、ヴィクトリア・ホールのオルガンは、大変由緒のある楽器でもあったようです。大変反応の良い、キビキビとしたオルガンの音で、ホールの残響も美しいもの。オルガンの響きが豊かな残響に支えられて、運動性に富む作品でその真価を発揮するのは、快感ですらある。残念なことにヴィクトリア・ホールは1980年代に火災に遭い、大変美しい内装もオルガンも灰にしてしまい、アンセルメの名盤や、ヴィルヘルム・バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集などで知っていた美しい響きと、カール・リヒターの演奏や本盤で聴かれたヴィクトリア・ホールのオルガンの音は、永遠に失われた。エルネスト・アンセルメの響きは英デッカの技術の恩恵で出来上がった。ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ、デ・ファリャのバレエ音楽など彼らが世に紹介し広めてきた音楽の、その演奏が多くの人々に支持されたことによってアンセルメとスイス・ロマンド管は第一級の「売れる」オーケストラとなっていった。1968年の日本公演で「オーケストラが二流」、「名演奏はレコード録音のマジック」という風評が巻き起こり、このコンビの評価と人気は急落する事態を招くが、決して一流ではなかったスイス・ロマンド管をヴィルトゥオーゾ・オーケストラように聴かせたデッカ・サウンド最大の〝マジック〟を、オーディオファイルは身を持って体感したという。英DECCAが潜水艦認識技術を応用して開発した高音質録音ffrr録音により瞬く間に世界を席巻。全然土臭くない都会的な表現。しかし、アンセルメのニュアンスに富んだ表現はまさに絶妙である。スコアを十全に見据えた解析力を感じます。最もアンセルメは指揮者になる前は数学者だったと言うから当たり前かも。キビキビとしたテンポで、聴き慣れたムソルグスキーの「展覧会の絵」も、アンセルメ・マジックにかかると新鮮に感じます。勿論、DECCAの優秀な録音技術やヴィクトリア・ホールの響きの素晴らしさも手伝って、フレージングと楽器の音色がクッキリと浮かび上がってくる。DECCAの申し子 ― 子と云うより御爺さん ― FFSS STEREOの頂点がここにあるとでも言いたくなる。
  • Record Karte
  • 1962年5月ジュネーヴ、ヴィクトリア・ホールでの、セッション・ステレオ録音。1963年発売、LONDON最初期FFSS 170g重量盤、輸入メタル使用1E/2E最初期期スタンパー、裏面最初期ブルーバック。
  • JP LONDON SLC1214 アンセルメ・スイスロマンド管 サ…
  • JP LONDON SLC1214 アンセルメ・スイスロマンド管 サ…
サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン」/フランク:交響曲
エルネスト・アンセルメ
ユニバーサル ミュージック
2018-12-19

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第2次世界大戦の潜水艦技術が録音技術に貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereo Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけたイギリスDECCAレーベル。レコードのステレオ録音は、DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われたヴィクトリア・ホールでの録音セッションは、最低でもLPレコード3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてffss(Full Frequency Stereophonic Sound)が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
なんといってもバレエ音楽が卓出している。いちおうベートーヴェンの交響曲も得意のレパートリーにははいっており、すでに交響曲全集を完結してはいるが、異質である。その面白さはバレエ音楽の比ではない。
エルネスト・アンセルメ( Ernest Ansermet, 1883年11月11日〜1969年2月20日)のレコード歴は長い。英デッカがマイクを使った電気録音を商業化した時分からと古く、SPレコードも多い。1929年9月、デッカ・ストリング管弦楽団 ― 実態は1918年にアンセルメによって創設されたスイス・ロマンド管弦楽団だろう。 ― と録音したヘンデルの「合奏協奏曲」がアンセルメの初録音。1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、スイス・ロマンド管弦楽団はブルーノ・ワルターやヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カール・シューリヒトなど多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。骨格的にはやや弱いが極彩色の豊麗なオーケストラの響きに魅せられる、彫琢された美しさをもった演奏が聴きどころである。先般、近衛音楽研究所がパート譜から起こした戦時下での「近衛版・未完成交響曲」を再現演奏できるようにした。NHKが音楽ドキュメンタリーにした「玉木宏 音楽サスペンス紀行~マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」(2017年7月29日放送)は、その編曲が機会あるごとに書き足されたり、楽器の指定を変更していることが解ったことに端を発する。シューベルトはドイツの作曲家だが、その歌謡性がナチスに好まれていなかった。雄渾な編曲を加える事でナチスから演奏許可されたのだろうか。近衛秀麿はドイツ将校が多く住んでいた、フランスとスイスの国境で度々演奏会を開いている。両者が直接知り合ったかは明らかにならないが同時期スイス側では、ドイツからスイスに拠点を移動したアンセルメも多くの演奏家の亡命を助けていた。ユダヤ人を擁護したことで裁判で有罪になりドイツで仕事が激減したシューリヒトとは第2次世界大戦前から親交があったが、アンセルメが終戦の前(1944)年に彼をスイス・ロマンド管弦楽団に客演を依頼してドイツから亡命する手助けをした。ナチ政権末期、大指揮者ではあってもナチに対して反抗的な態度があったり、それに類する事件が以前にあると、ゲシュタポはさまざまな口実を求めて容赦なく逮捕しようとした。ユダヤ人音楽家たちを助けようと獅子奮迅の活躍をし、有名なヒンデミット事件の時、公然とナチスを新聞紙上で非難し、全ての公職を辞任するということまでしているフルトヴェングラーは逮捕されそうになり1945年1月30日の夜スイスに逃げる。
エルネスト・アンセルメは「ゲシュタポのブラック・リストに載っていること」や「逮捕間近」という噂などを聞いていたが、前日のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でフランクの《交響曲ニ短調》とブラームスの《交響曲第2番ニ長調》を演奏、当日、ベルリンに戻り、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でコンサートを指揮する予定だった。しかし、早朝5時の列車でウィーンを離れた。これは当に間一髪、10時にヴィルヘルム・フルトヴェングラーが泊まったホテルに踏み込んだゲシュタポは見事空振りに終わる。フルトヴェングラーは1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演していた。そのことから以前からの契約で行われたことは間違いないが、1945年2月12日には亡命した体裁で、スイス・ロマンド管弦楽団の指揮台に立っていた。ローザンヌで行なったこの演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの《交響曲第1番》と《レオノーレ序曲第2番》、ブラームスの《交響曲第2番》。2月14日にはジュネーヴで同じプログラムによるコンサートが行われ、2月23日にはヴィンタートゥーアに客演しブルックナーの《交響曲第8番》を演奏している。その前のチューリッヒのトーンハレ管弦楽団との2月20日と25日のコンサートは、「ナチスの手先であった」フルトヴェングラーに対するデモが起こって、中止に追い込まれていた。このコンサートも、警察によるデモの鎮圧を受けて、やっとのことで行われたのだった。結局、このヴィンタートゥーア管弦楽団を振ったコンサートが戦前の最後の演奏となったのです。この後、フルトヴェングラーはスイス国内で、一切、公式、非公式に関わらず自分についての発言を行わないという約束をもって、ようやくスイスに留まることができたのであった。そして、フランス・アルプスから名山ダン・デュ・ミディに至るアルプスの雄大な風景がレマン湖に映えて美しいこの地で彼は2年間、ナチの戦犯容疑で演奏活動を禁止され、半引退の日々を送ることになったのです。スイスに来る時、彼は殆ど何も持っていなかった。旅券さえもいい加減なもので、彼はそれを見逃してくれた国境警備隊員が「音楽ファンで私のことをきっと知ってくれていたからだろう」と語っているが、その程度であったためフルトヴェングラーはスイスで行ったたった3回のギャラを使い果たすと無一文になるという困窮を体験することとなる。フォルクマール・アンドレーエやヴィンタートゥーアの富豪、オスカー・ラインハルト卿をはじめパウル・ザッヒャーやヘルマン・シェルヘン、エルネスト・アンセルメなどがこうした事態に手を差し伸べた。
人間が集中を持続できるのは最大3秒と科学者が説明するのを、興味深くヘルベルト・フォン・カラヤンは聞いていたという。音楽家が熱心だったのが珍しかったと解説しているが、カラヤンはウィーン工科大学にも通っていた。古今の詩歌は、どんな言葉も3秒で読み取れるという。それをカラヤンは自分の音楽に反映させていった。テクノロジーへのカラヤンの関心は、ルドルフ・バウムガルトナーの影響もあるだろうが、レコードで残せば未来永劫カラヤンの演奏で古今の名曲が世界中で聞かれる、と強く思っていたからだ。自宅に編集室まで持ち、レコード会社の編集室でミキシングを弄ってみせたのはエンジニアたちには苦笑させたが、CDの素晴らしさを説明しているムービーはデジタル時代を先へ進める貢献となった。また、ダーレンのイエス・キリスト教会を録音の常場に出来たことはカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団には幸いだった。そして、エルネスト・アンセルメ。アンセルメもまた幾何学者の父と小学校の教師を母に持ち、〝数学の神童〟として才能を発揮した。ローザンヌの工業学校と大学で数学と物理を、ソルボンヌ大学で数学と哲学を学んで数学の教師をやっていた。アンセルメは理知的な演奏を心掛ける指揮者であり、縦の線をあわせるドイツ流の拍節感から生ずるズレの感覚を逆手に取り、これを明瞭に示して聴き手に快感をあたえている。しかも「サラサラ」とやって小粋に聴かせているのが〝音の魔術師〟アンセルメの上手いところだ。鼻に掛かったフランス語のようなオーボエや、お洒落で軽みのある弦の歌が魅力的であるスイス・ロマンド管弦楽団の音がいい。アンセルメはサウンドが全体にしっとりしていて、ヘンデルの古典的なバロックスタイルを明らかにするよりは、きわめて自然体のものとして聴かせる。ジュネーヴのヴィクトリア・ホールの響きの良さは、名ピアニストのウィルヘルム・バックハウスがわざわざベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集をヴィクトリア・ホールで録音したことでもわかります。録音の調整室が無く、調理室を録音用に使うという、大変使いにくいホールにも関わらず、バックハウスがぜひにと使ったこのホールは、スイス・ロマンド管を育てました。1918年にアンセルメによって創設されたスイス・ロマンド管は、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とともにフル編成のオーケストラとしてはスイスを代表する歴史と評価を得ています。アンセルメはこのオーケストラを50年に亘って率い、彼自身の理想とするオーケストラを目指した。木管楽器と弦楽器の絶妙なバランスとそこから浮かび上がってくる目眩く音色感を、実に繊細に扱っていたことに気づき、その芸術的成果の高さに改めて思いを巡らせているドビュッシーやラヴェルの管弦楽曲全集といったフランス近代の音楽に対するセンスの良さは、素晴らしいもので、響き、バランスに対するアンセルメの実に鋭い耳が、こういった複雑なオーケストレーションから鮮やかなサウンドを引き出しています。ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、木管の扱いの巧妙さでは、音楽史の中で最も素晴らしい作品の一つです。ラヴェルのオーケストレーションの秘密もそこにありますし、アンセルメが得意にした、リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」などのオーケストレーションの特色の多くの部分は木管にありと言っても過言ではないベートーヴェンやブラームスといった作品は、レコード会社の意向もあって、なかなか録音させてもらえなかったアンセルメとスイス・ロマンド管で楷書でやられた演奏は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー等の演奏とは対極に位置するもので、アンセルメにとった解釈が時代を先取りしすぎていたとも言える古典の録音としては、LP初期にモーツァルトの録音があったりして、決してスイス・ロマンド管にとって不慣れなレパートリーとは言えなかったアンセルメとスイス・ロマンド管の響きの基本は木管楽器だったんだと、理解できます。