34-25778

商品番号 34-25778

通販レコード→JP CBS/SONY前日本コロムビア社製 1966年3月発売初期盤 米コロムビア同一スタンパー使用盤。

電気蓄音機を聞いている空気に包ませてくれる魅力的な音作り。「未完成」は最高度にロマン的な演奏で、特に第2楽章の美しさはたとえようがない。

ドイツの偉大なる指揮者ブルーノ・ワルターは、20世紀の歴史に翻ろうされた人といえる。シューベルトは彼岸の風に誘惑され死に親しむ様な「未完成」を作ったが、敢然とそこに背を向けグレイトの偉大な世界を湧出させた。

春分の日。熊本は昨夜からの雨が本格的になっているが、東京では天気は持ちこたえていてお花見をしている様子がニュースショーで伝えられている。その朝のニュースショーも、朝8時からのWBC準決勝の中継で、放送開始は12時からとなった。決勝進出に湧いている日本全土だが、お彼岸でもある。
お彼岸の今日に、明日の決勝に期待が高まる明るいニュースを届けてくれた、大谷選手、村上選手、日本人選手たち。そして、岸田首相がウクライナに電撃訪問。ゼレンスキー大統領との懇談が未来を開くか。その様な今日に聴くレコードに、これは最適だった。
『未完成」と『運命」はこの一枚のレコードがあれば、いい。そうも言いたい歴史的大名盤。電蓄で聴いているような、録音は申し分なく、ニューヨーク・フィルとの『未完成』は最高度にロマン的な演奏で、特に第2楽章の美しさはたとえようがない。長年の信頼関係。オーケストラ側からの指揮者への献身。古くはマーラー、トスカニーニから叩き込まれたことがワルターの指揮のもと最高の演奏を生み出した。
ドイツの偉大なる指揮者ブルーノ・ワルターは、20世紀の歴史に翻ろうされた人といえる。シューベルトは彼岸の風に誘惑され死に親しむ様な「未完成」を作ったが、敢然とそこに背を向けグレイトの偉大な世界を湧出させた。一方ワルターはナチにヨーロッパを追われた。だがアメリカでは持ち前の叙情性に加えて晩年には力強い造型と人格が作り上げたとしか言い様のない、愛に満ちた精神的な響きを奏でた。両者とも深い悲しみと喪失感、癒しようのない心の傷をおいながら、偉大な芸術を作りあげたのだ。シューベルトとワルターの魂が重なりあったような演奏と言いたい。
最近では「未完成」もウィーン風の優美な情緒よりも、よりシリアスにシューベルトの内面を掘り下げていく、いわば辛口の名演が増えつつある。先般、近衛音楽研究所がパート譜から起こした戦時下での「近衛版・未完成交響曲」を再現演奏できるようにした。「玉木宏 音楽サスペンス紀行~マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」は「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~」を嘗て観た時よりはっきりと「慟哭」の第1楽章、「祈り」の第2楽章を確信したが、ひところは「未完成」の名盤といえばこの演奏が五指に入ったものだった。今聴いても素晴しい。第1楽章は比較的あっさり淡々と進むのだが、第2楽章は遅いテンポで情緒たっぷりに歌い上げる。ウィーン・フィルとの1936年の録音の耽美的なサウンドも忘れがたいが、この色彩感のあるニューヨーク・フィルの演奏は、がさつさのあるアンサンブルと左右チャンネルへの振り分けが明快なステレオ録音は、電気蓄音機を聞いている空気に包ませてくれる魅力的な音作りだ。
ブルーノ・ワルターは1876年ベルリンに生まれ、1962年アメリカに没した大指揮者ですが、生涯に大きな影響を与えたのは1896年のグスタフ・マーラーとの出会いでしょう。ハンブルク歌劇場の音楽監督、ウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の楽長、ミュンヘン宮廷歌劇場(現バイエルン国立歌劇場)の音楽監督、ベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ)音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長等の要職を歴任、ヨーロッパ中を席巻した人気指揮者でした。
ウィーン・フィルやベルリン・フィル、ザルツブルク音楽祭にも度々招かれ、特にベルリンでは『ワルター・コンサート』という特別な演奏会も担当していた。1933年、ナチス政権樹立後はドイツから出ざるを得なくなりウィーンへ。そして、38年にオーストリアが併合されるとスイスのルガーノへと逃れ、さらにはフランスの国籍を得てドイツ・オーストリア帝国の手が及ばないように活動を続けた。
第二次大戦の戦火を逃れるためにアメリカへ脱出し、常任のポストには就かずにニューヨーク・フィルやメトロポリタン歌劇場でタクトをとることになります。戦後はヨーロッパ楽壇にも復帰しますが本拠はアメリカで、1960年、ロス・フィル及びヴァン・クライバーンとの共演を最後に『演奏会活動』からは引退。が、コロンビア・レコードがドイツ、オーストリアの交響曲を体系的に録音したいというアプローチに共感し、レコーディングだけに組織されたコロンビア交響楽団との中身の濃い数々の名演がレコードに刻み込まれることになります。
『運命』は、お仕着せのコロムビア交響楽団との録音になったことは惜しいところだ。こちらもニューヨーク・フィルで録音してほしかった。この猛々しい『運命』に於いても、好々爺は柔和な表情をつける。変奏の名手であったベートーヴェンは、優しさから力強さまで、主題に隠された要素を巧みに引き出している。その第2楽章の、丁寧な表情付けは聴きどころ。こまかいところではカラヤン指揮の、ベルリン・フィルのアンサンブルの上手さに叶うところではない。
  • Record Karte
  • 1958年ニューヨークでのステレオ・セッション録音。
  • 1966年3月発売初期盤日本コロムビア社製, STEREO 1枚組 (170g)重量盤, 米コロムビア同一スタンパー使用盤。見開きジャケット。

販売レコードの写真

  1. JP COLUMBIA OS497C ワルター/コロムビア響/ニュー…
  2. JP COLUMBIA OS497C ワルター/コロムビア響/ニュー…

CDはアマゾンで

ベートーヴェン:交響曲第5番
ニューヨーク・フィルハーモニック
ソニー・ミュージックレコーズ
1999-08-04



マーラー:交響曲「大地の歌」
ヘフリガー(エルンスト)
ソニー・ミュージックレコーズ
1999-07-23




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CD時代になって一時期レコード業界は過去最大の売り上げを記録したこともありました。判らないではありません。以前は、200枚もLPレコードを保有しておればマニアの部類に近かったのです。それがCD時代になると、高校生でも200枚や300枚のCDを保有しているのが当たり前になりました。レコード、CDは、ここ何十年も価格は変わっていません。むしろ安くなっているほどです。それで安易に保有数が増えたのです。LP時代は、所得との比較で、レコードはやはり高い買い物で、そのため大事に保管し、大事に使用していました。また、不要・不急のレコードを購入することは無かったのです。それだけに大事に取り扱い、真剣に音楽も聴きました。アルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏がいかによくても、音盤はモノラルばかり。家庭用の一体型ステレオ装置から出てくるステレオ録音の音響は、非常に魅力的であった時代に宝物のように大事にされたのが、音のよいステレオ録音のブルーノ・ワルターのコロムビア盤だった。しかしその時代は、おいそれと新譜レコード盤が買えなかったから、友達の家にあるのを頼み込んで繰り返し貸してもらったりした。それでもなんとしてもワルターのレコードが欲しくてたまらなく、思いが強く残ったのか、CBSコロムビアからSONYになって発売された音盤だとかで聴き揃えていった。それに比べてもCD初期に発売になった、いずれのワルターの音盤も、少年期の家庭用のステレオ装置から、出てきた音に勝ることが無かった。それがステレオ録音に最初に接したという、非日常的体験がもたらした錯覚、幻想の思い出だったとされればそれまでだが、未だ記憶の中の瑞々しい音響は聴けていない。CDはどれも高音域と低音域が分離して中音部が薄い感じに聞こえるものだ。そんな音でモーツァルトを聴いていいはずもなく、どうしてワルターのコロムビア盤での芸術が理解できないのだと思っていたほどだ。クラシックというのは同じ音源が何度も手を変え品を変え出てくる。どれも同じと思っている方も多いが、実はぜんぜん別物というほど音が違っているケースもある。音によってその演奏のイメージはかなり変わる。明治8年生まれの指揮者の最晩年がステレオ録音初期に重なったのは幸運だった。ワルター晩年の指揮を〝温厚〟と評言される傾向があるが、〝篤実〟と対になる四字熟語の意味は、温かで情が厚く、誠実なさま。ワルターのリハーサルは、最晩年でも青年のように頭の回転が速く、早口で情報量が多い。フレージング、音価、強弱の注文が多く気に入らないと何度も裏声も交えてリアルに歌って指示するが、総じて進みのテンポが速いのは、コロムビア交響楽団が録音のための臨時編成で、発売する曲を限られたリハーサル時間でこなさざるを得なかったからだろう。曲に必要な楽器奏者を近隣のオーケストラから雇って製作された。ピアニストだったワルターは、リスト、ワーグナー、ブラームスと深く交わったハンス・フォン・ビューローの指揮を聴いて指揮者になる決意をした。マーラーの弟子でもあった彼が米国に渡ってコロムビア響と残した録音は、オーケストラの定位が当時としては良く、悪くいえば楽器があちこちから聞こえる感じがあるが、これがオーケストラピットの中からのイメージであり、ワルターの造りたかったバランスが良くわかる。

録音のワルターは穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがある。

ワルターはポートレイトから受ける温厚な紳士のような印象で、その音楽を記録したレコード、CD。特にCDはかなりの割引感で受け止められているんじゃないかしら。一度で良いからSPレコード盤で聴いて欲しい演奏家です。気持ちを入れるには、まずは形からと言いますけれども、フォーマル、カジュアル、ファッション次第で仕草から変わってきます。 着ているもの、それを着ていく場所にふさわしい動きがあると言ったらいいでしょうか。オーケストラは指揮者にとって、着るものではないかしら。指揮者、ワルターはオーケストラを変わる度に、音楽が変わっていった指揮者ではないでしょうか。 いや、オーケストラに会わせた音楽を生み出す指揮者だったのでしょう。 極端な表現かも知れないけれども、SP時代とLPレコードの時代のワルターは別人のようです。 ワルターを語る時に、どの時代のワルターを聞いていたのかで印象が違うようで面白いものです。

〝戦前の典雅、戦後の雄渾、晩年の枯淡〟

ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日〜1962年2月17日)はドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア社(CBS)の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ウィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団での〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。ワルターの演奏スタイルの変遷を簡潔な言葉で表すと、〝戦前の典雅、戦後の雄渾、晩年の枯淡〟ということになると思う。コロムビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、彼は20年間で成熟をし続け、枯れることなく円熟に円熟を重ねることができた。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きくなければ、そして芯の部分が柔軟でなければ、こういう円熟の仕方は出来ない。ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。