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これが全世界を100年間、感動させてきたクラシックの名盤だ ― 合唱もオーケストラも、壮大な演奏を繰り広げているのが伝わってくる。壮麗な響きと速めのテンポによる緊迫感に満ちた解釈はモーツァルトの音楽の核心を突き、人類愛に満ちた歴史的名演として刻まれている。音楽そのものを掘り深く描き尽くした、ブルーノ・ワルターならではのモーツァルト『レクィエム』。神に愛された天才音楽家ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1791年12月5日午前0時55分に神の身元へ逝った。ハイドンやベートーヴェンの葬儀と比べると彼の死を悲しむ参列者は僅かでしかなかったが、天衣無縫の音楽は忘れ去られることなく人々に愛され続け、1956年にモーツァルトの生誕200年を記念して録音されたレコードは多数が現在も愛聴されている。そうした中にあって本盤は『レクィエム』の歴史的名盤。大編成のオーケストラと合唱団を壮麗に鳴らし、ワルターのモーツァルトへの愛、ひいては人類への愛すらも滲み出る名演を成し遂げています。ワルターとオットー・クレンペラーのレパートリーはモーツァルトとマーラーの音楽が大きな柱の一つになっている。周知の通り、ともにユダヤ人であるワルターとクレンペラーはマーラーの直弟子にあたり、マーラーを熱心に取りあげていた。ワルターの演奏は情緒的とされながら、音の出し方は似ている。ワルターは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の楽員によく極端な対象を要求した。例えばモーツァルトの交響曲のピアニッシモのところで、オーケストラがまだ弾きはじめないうちに中断して、『皆さん、もう大きすぎます』と言うことがあった。また歌劇『フィガロの結婚』の序曲の練習では、やはりオーケストラが弾き始める前に中断して、『皆さん、もうテンポが遅すぎますよ』というのであった。こうしたことはワルターの個性というより、同世代の指揮者の特徴である。ワルターの演奏スタイルを簡潔な言葉で表すと、戦前の典雅、戦後の雄渾、晩年の枯淡ということになると思う。どれも魅力があるが、ニューヨーク・フィルハーモニックとのモノラル録音では固まりとなってぶつかってくるような音は出さず、その出す音色は綺麗に磨き抜かれていることを強く感じる。ニューヨーク・フィルと言わなければヨーロッパのオーケストラの演奏だと錯覚しそうな仕上がりで、名花イルムガルト・ゼーフリート(Irmgard Seefried)、黒人歌手の草分けの一人ウィリアム・ウォーフィールド(William Warfield)など、ヨーロッパ勢とアメリカ勢からなる独唱陣の熱演も特筆されます。
イルムガルト・ゼーフリート(ソプラノ)、ジェニー・トゥーレル(アルト)、レオポルド・シモノー(テノール)、ウィリアム・ウォーフィールド(バス)、ジョン・フィンリー・ウィリアムソン指揮ウェストミンスター合唱団、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック。1956年3月10,12日ニューヨーク、カーネギー・ホールでのモノラル・セッション録音。
JP COLUMBIA OL111 ブルーノ・ワルター モーツァルト…
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レクイエム(Requiem)とは死者の霊を慰める〈死者のためのミサ曲〉のこと。演奏会で取り上げられる他、実際のミサにも使用される。フレデリック・ショパンやアメリカ大統領ジョン・F・ケネディの葬儀の時にも使用された。日本では「鎮魂歌」「鎮魂曲」などと訳されることがあるが、死者が天国へ迎えられるように、神に祈る典礼のためであって、死者の霊を弔うものではない。ローマ・カトリック教会の教会暦中では11月2日の万霊節に行われるが、随意ミサとして個人の葬儀や命日にも行われる。またカソリックと違い、プロテスタントの死後の概念は、死とは、天の主イエス・キリストの元に帰ることであり、喜ばしいことであり、悩んだりすることではないとしています。従って、プロテスタントであったヨハン・ゼバスティアン・バッハがレクイエムを作曲していないのはこのためです。モーツァルト最後の作品で《レクイエム》は生涯、この1曲しか書いておらず他人からの依頼を受けて作曲を始めるが、それが自分の遺作になってしまった。モーツァルトの《レクイエム》は「シュラッテンバッハ・レクイエム」から影響を受けていることが知られている ― モーツァルトの《レクィエム》に多大な影響を与えた作品として有名なミヒャエル・ハイドンのレクィエムは、当時彼が仕えていたザルツブルクの大司教シギスムント・クリストフ・グラーフ・フォン・シュラッテンバッハ(1698〜1771)の死に際して作曲されたものですが、同じ時期に自身の娘が僅か1歳で亡くなっており、その悲しみが作品に込められたいるとも伝えられています。 ― が、ミヒャエル・ハイドンの未完成のレクイエムには曲の構成面で、逆にモーツァルトの《レクイエム》からの影響を及ぼしてもいる。レオポルト・モーツァルトとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト父子は、1772年1月に開催されたミヒャエル・ハイドンの「シュラッテンバッハ・レクイエム」初演には第3演までの3回の演奏会に出席しており、感銘を受けたことも思わず納得の美しさであり、20年後に書かれた名高い《レクイエム》の随所に類似点が確認できるのも興味深いところです。この《レクイエム》はモーツァルトにとって ― 生涯唯一となった《レクイエム》を作曲するに当たり ― 重要な原型となっており、またフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーによるモーツァルト風の補筆が、いかなる点でもモーツァルトの構想から出たものではないことを強く示唆している。曲は古典主義的であるよりもバロック様式に近い。最終的にジュースマイヤーが完成に至るが、補筆しようとした弟子たちの筆が進まなかったのは、モーツァルトが自身の作品としてどう作曲しようとしたのか、カトリック教会のラテン語の詩句による「レクイエム」の対し、ドイツ語の自由な詩句による「レクイエム」をハインリヒ・シュッツ(1585〜1672)が作曲している。典礼で歌われていたグレゴリオ聖歌の代わりに合唱曲の形で作曲された曲が歌われ、さらに、楽器による伴奏がつくようになり、典礼ではなく、演奏会で演奏されるようになる「レクイエム」。モーツァルトのあとの、シューベルト、ブラームスのレクイエムを聴くにつけ、モーツァルトが自信を持って披露するレクイエムを聴きたかった。そこには作曲依頼者、フランツ・ヴァルゼック・フォン・シュトゥバハ伯爵(1763〜1827)が自分の曲として発表する趣味を持っていたことにもよるだろう。名前も明かさず使者を使って作曲料の半分を前金で支払った。そのためモーツァルトは誰からの依頼なのか知らなかった。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは「モーツァルトのような現象は、どうにも説明しようのない奇跡で在り続けるだろう」という言葉を残している。この曲は映画「アマデウス」(Amadeus)に使われている。ミロシュ・フォアマン監督でアカデミー賞作品賞を受賞した、この1984年公開作品はモーツァルトの才能に嫉妬したアントニオ・サリエリがモーツァルトを殺したという設定になっているが、これは脚色されたもので事実とは違う。ただし、モーツァルトが書き残した数々の手紙の文面や、親しい間柄に書いた曲には下卑たものも機知に富んだものもあるから人物像は、おそらく事実に近いと思われる。なにより映画の中でモーツァルトの才能を示す数々のシーンが出てくるが、あれは史実に基づくもの。映画のラストのように、折からの冷たい暴風の悪天候もあってモーツァルトの葬儀は途中から会葬者が引き返して、誰一人聖マルクス墓地まで見送るものはなく遺骨は共同の墓穴に埋葬され、亡骸が眠る正確な場所は誰も知らない。遺品は二束三文で処分され、物質的な意味での生の痕跡というものを、自筆譜以外残すことがなかったが、しかし、モーツァルトの名声は死後急速に高まり、プラハでは早くも1791年12月14日にモーツァルト追悼の荘厳ミサが執り行われ有名な音楽家の他、何千人という街人が集まり追悼の涙を流した。ウィーンではオペラ「魔笛」の人気がとどまるところを知らなかった。やがて他のオペラも次第に上演されるようになり、器楽曲にも関心が寄せられていった。没後3年の1794年にはドイツでは早くも最初のモーツァルト・ブームが起こり、その音楽は今も私たちの心を豊かにしてくれている。
戦後、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めるなど欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のブルーノ・ワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア社の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ウィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団での〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。コロムビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。