フランスの誇るチェロの巨匠トルトゥリエによる、香り高い本場の名演奏 ― 音楽的天分を見出されてサン=サーンスの弟子として目をかけられたフォーレは、最盛期にパリ音楽院の院長となり、音楽教育の改革に尽力した。ラヴェルとマスネの師であり、名ピアニスト、マルグリット・ロンとの親交もあった。演奏家としてのフォーレは、音楽学校卒業後、パリの幾つかの教会のオルガニストになった後、29歳でサン=サーンスの後任としてパリのマドレーヌ寺院のオルガニストに就任しているので、その腕前は相当なレベルだったと思われる。ピアノ音楽の作曲家としてはドビュッシー、ラヴェルとともにフランス・ピアノ音楽の重要な作曲家であり、作風としてはパリで活躍したショパンと同じ形式 ― 舟歌、夜想曲、即興曲、前奏曲、マズルカ、バラードなどの作品を残しているが、その手法はショパンよりも遥かに複雑なものになっている。ピアノロールは19世紀末にドイツで発明され、1905年にはエドウィン・ウェルテが「ウェルテミニョン」と呼ばれる微妙な強弱やニュアンスを再現できるようにした自動演奏楽器である。当時の大作曲家や大ピアニストは、そのメカニズムを賞賛して積極的に録音を行った。録音に使われたロール紙には102個の穴が開けられ、そのうち中央の80個の穴を音階に使い、音の強弱、機構が別になっているようだが、ダンパーペダルの指示、終了後の巻き戻しの命令などには左右にある11個ずつの穴が使われる仕組みだった。再生の原理は、ロール紙が走ると同時にロール紙の穴から外気が吸い込まれ、穴から出てくる風の力によってハンマーが鍵盤を叩き、同時に音量の調整とペダリングが行われた。フォーレ自身は、かなりの数のピアノロールによる録音を残している。フォーレ自作自演の『パヴァーヌ』は、やや速いテンポだが、19世紀の音楽家らしくかなり濃厚なニュアンスがつけられていて、聴き返すうちに不思議な魅力にとりつかれる。ピアノロールの録音は、強弱の段階の少なさや変化のないタッチ、録音時と異なる使用ピアノ、定まらない再生時間などに問題があったが、近年の優れた技術の進歩で再生のリアリティが非常に高くなっている。ドビュッシーは蓄音器用にSPレコードも録音したが、電気式録音のマイクロフォンがまだ実用化されていなかった機械式録音だったことで閉口して、もっぱらピアノロールに多くの演奏を残している。ドビュッシーは、表現したいものが多々あったのだろう。熱情を隠さず詠嘆する音楽は、フォーレとは一線を画す。聴かせようとしないその楽曲はフランス人に限ったことでなく、国も文化も違っていても多くの人を援け養うだろう。なんともフォーレとは不思議な作曲家だ。抒情的で耽美的な傾向が強い今日の演奏とはかなりスタイルが異なっている作曲者自身の演奏に、考えさせられる傾向が強いものが多い。
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ガブリエル・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré)は1845年5月12日、カトリックの信仰の篤い南フランスのピレネー地方の小さな町パミエに、6人兄弟の末っ子として生まれた。生後間もなく養子に出され、どのようにして幼いフォーレが音楽的天分を伸ばしたかは明らかでないが、師範学校の校長をしていた父は息子に音楽的才能があることに気づき、9歳のフォーレをパリのニデルメイエールが開校した「王立古典と宗教の音楽学校」の寄宿舎へと送った。ニデルメイエールは少年の才能に感動し、即座に弟子にすることを確約したばかりでなく、フォーレの父が払うことのできなかった学費と生活費のすべてを持つことになった。こうして、フォーレはこの学校で11年間学び、ニデルメイエールが亡くなった後はサン=サーンスに師事している。サン=サーンスがフォーレにシューマン、リスト、ワーグナーの音楽に触れる機会を与え、10歳違いの2人は師弟関係を越えて親しく交流し、それはサン=サーンスが亡くなるまで続いた。在学中、既にフォーレは初のピアノ曲〈歌詞のない3つのロマンス 作品17〉や歌曲〈蝶々と花 作品1〉などによって認められるようになった。20歳で同校を卒業したフォーレは、まずレンヌの教会オルガニストとなり、4年後にはパリに戻ってサン=サーンスの紹介で様々な教会のオルガニストとして活躍する。1896年にはサン=サーンスがポストを務めていたことで知られるマドレーヌ教会の首席オルガニストに就任する栄誉に浴する。歴代の偉大な音楽家がオルガニストを務めているマドレーヌ教会は、定礎は1764年に築かれたが、革命をはじめとする様々な中断を経て、1842年にようやく完成を見た。その7年後の1849年には、ここでショパンの葬儀が行われ、モーツァルトの「レクイエム」が演奏されている。またパリ音楽院の作曲の教授にも迎えられた。作曲家としても宗教曲や歌曲、ピアノ曲、室内楽曲など広い分野に多くの作品を生み出していく。その後、1905年にはパリ音楽院の院長となり、音楽教育の改革に尽力した。フォーレの代表作である「レクイエム」の初演が行われたのもマドレーヌ教会で、1888年1月16日に行われた。フォーレは大げさな効果を狙ったり誇張すること無く、慎ましやかで柔軟性に富み、均衡を保つ作品を数多く生み出した。晩年は耳が不自由になり、1922年にはすべての公職を辞し、2年後の11月4日に亡くなっている。国葬が行われたのはやはりマドレーヌ教会、自身の「レクイエム」がしめやかに奏でられた。フォーレの音楽は、人を無垢な状態にしてくれる。日常の衣を脱ぎ捨て、素のままの自分と向き合う大切さを促す。とかくフォーレは謹勅そのものの人のように思われがちだが、院長時代には、自分の趣味に反する一派を学校から追放するのに強権をふるったという。だから私は、ストレスが溜まると、その音楽に身を委ねたくなる。
ポール・トルトゥリエ(Paul Tortelier)の演奏は音楽に没頭するのではなく、その力みのない然りげ無い演奏は作曲者の意図を冷静に客観的に楽しみたい時に、まさにピッタリ。トルトゥリエの演奏は、男性的な太い音と、率直で飾らぬ真摯な表現の中に、深い精神性が湛えられたものと絶賛され、現在も多くのファンを虜にしています。彼の音楽に対する姿勢は、一音一音の、音の長さ、強弱、運指、弓の動き、それらを微細に探求されていながら、そして最終的に大きな目で見てみると驚く程全てが美しく構成されているということがよく分かります。その演奏には、弛まぬ努力のほか、作曲、指揮、そして教育にまで及んだ幅広い音楽との関わりも大きく影響していたと思われ、また、パブロ・カザルスに私淑し、プラド音楽祭にも参加、さらにカザルスらと共に、音楽に精神を呼び戻すという運動を推進していたことからも、音楽表現における精神の在り方について、トルトゥリエが常に真剣に取り組んでいたことは明らかです。実際、内なる声を大切にした彼の演奏は、バッハの無伴奏チェロ組曲から素晴らしく深い音楽を引き出していますし、コンチェルトや室内楽でも、自らの道を迷わず歩む求道者のような剛毅な音楽を奏でていたのが印象的でした。トルトゥリエは、1914年3月21日にパリに誕生。6歳でチェロを習いはじめ、10歳のときにパリ音楽院に入学、16歳でチェロ科を一等賞で卒業し、パリでデビュー・リサイタルを開くほどの早熟の天才でしたが、トルトゥリエは再びパリ音楽院に通い、今度は対位法と作曲を学び、ハーモニーの部門で一等賞を得ます。パリ音楽院をあとにしたトルトゥリエは、まずモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団の首席奏者に迎えられ、2年後にはボストン交響楽団の首席に転進、第二次世界大戦中はパリ・フィルハーモニー協会管弦楽団の首席をつとめ、終戦後2年間はパリ音楽院管弦楽団の首席奏者として活躍、1947年からはソリストとして演奏活動を行うこととなります。以後、40年以上に渡って世界的な名声を博したトルトゥリエは奏法についても研究、演奏理論書『現代チェロ奏法 私の演奏法・教授法』のほか、チェロを水平に傾かせる、独特の形状のエンドピンまで考案する多才な人でもありました。1990年12月18日、トルトゥリエはパリ郊外の音楽学校でチェロを教えていましたが、その際、自室に楽器を取りに行ったときに心臓発作に襲われ、チェロに凭れ掛かったまま亡くなっているのが発見されたということです。いつもパワフルで気さくだったトルトゥリエを象徴するかのような最期でした。暖かく愉悦感に溢れた演奏には御大の人柄が滲み出ている。ジャクリーヌ・デュ・プレ、アルト・ノラス、日本人チェリストの倉田澄子らがトルトゥリエに師事している。作曲家としても、『イスラエル交響曲』やチェロ作品など優れた作品を残した。
20世紀前半のフランスを代表するピアニスト、ジャン・ユボー(Jean Hubeau)は、1917年7月22日パリ生まれ。9才でパリ音楽院へ進学。ポール・デュカに作曲法、ラザール・レヴィにピアノ、ジャン・ガロンに和声法、ノエル・ガロンに対位法を師事。1930年にピアノ科でプルミエ・プリを得た。1934年にカンタータ『ルクマニの伝説』でローマ大賞第2位を受賞(1位はウジェーヌ・ボザ)。翌年にはルイ・ディエメル賞も受賞。その後、ウィーンでフェリックス・ワインガルトナー(Félix Weingartner)に指揮法も学んでいる。1942年にクロード・ダルヴァンクルがパリ音楽院の院長に就任した際に、後任としてヴェルサイユ音楽アカデミーの院長へ就任。1957年にはパリ音楽院室内楽科の教授へ就任し、1982年に退くまでの間に、シプリアン・カツァリス、ジャック・ルヴィエ(ピアノ)やオリヴィエ・シャルリエ(ヴァイオリン)、ソニア・ウィーデル・アサートン(チェロ)などの優秀な後進を育成。ピアニストとしても知られ、中でもヴィア・ノヴァ四重奏団(ジャン・ムイエール、エルヴェ・ル・フロク (ヴァイオリン)、ジェラール・コセ (ヴィオラ)、ルネ・ベネデッティ (チェロ))との共演でエラートに残した、史上初となったフォーレの全室内楽作品全集(仏ACCディスク大賞やわが国のレコード・アカデミー賞を受賞) やシューマン、デュカの録音は、今日なお比べるもののない不滅の古典的名演奏との声も高い。しかしながら、演奏家としての名声の陰に隠れ、作曲家としてはいまだ無名のままに置かれている。1992年8月19日パリにて死去。
ロマン派のチェロ・ソナタといえば、ブラームスとフォーレだろう。近代フランスの作曲家の中で、調和のとれた古典的感性を持つ代表的作曲家と言われているフォーレ。ロマン派全盛期に生まれ、十二音や無調の時代まで生きたフォーレの作曲期間は約60年の長きに渡り、その作風の変遷も初期・中期・後期に分けて語られることが多いが、室内楽作品はフォーレが生涯通じて好んでいたジャンルだけあって、どの時期にも優れた作品が書かれているのが特徴。初期は30歳代の終わりまで。この時期に書かれたヴァイオリン・ソナタ第1番(1876)、ピアノ四重奏曲第1番(1879)、エレジー(1883)、子守歌(1879)、ロマンス変ロ短調(1882)は、どれも率直で美しいメロディに恵まれ、現代における演奏回数の多さでも群を抜いています。耳の病と闘いながら書いた晩年は、ほとんどが香り高い室内楽作品でした。そのベートーヴェンの偉大な後期創造にも匹敵するとも言われる室内楽作品では、聴覚障害に悩まされながら、音域を絞ったりするようにもなりますが、音楽はさらなる変化を遂げ、スケールの大きさや深い精神性をも感じさせるピアノ五重奏曲第1番(1906)とピアノ五重奏曲第2番(1921)、チェロ・ソナタ第1番(1917)を書き上げる一方、ヴァイオリン・ソナタ第2番(1917)、ピアノ三重奏曲(1923)、セレナーデ(1908)では簡素で抽象的な中に独自の魅力を示し、チェロ・ソナタ第2番(1921)では流麗な美しさと深い哀しみの両面を見事に表わしてもいました。フォーレは、小さなピアノ曲から大規模なオペラに至るまで様々な作品を書いています。しかし、フォーレ自身が好んでいたのは比較的小規模な作品のようで、たとえば代表作のレクィエムでも、編成の小さなヴァージョンの方に、よりフォーレらしい美しさが感じられますし、小編成」に対する熱意をよく示していると思われます。そして教会オルガニスト出身の敬虔なイメージのあるフォーレですが、実際にはサロンを好み、歳をとってからも多くの恋愛に情熱を傾けていたというだけあって、その音楽にも繊細な情感表現が色濃く反映され、あこがれや喜び、哀しみ、諦めといった喜怒哀楽の移ろいが見事に表現されているのも大きな魅力となっています。
チェロをこよなく愛したフォーレが、70歳を越えて作曲した2曲の「チェロ・ソナタ」は熟達した展開、堅牢な構造など完成度が高いが、若さを忘れない、躍動感がほとばしる瑞々しい音楽でもある。レコードではずば抜けて、ポール・トルトゥリエとジャン・ユボー共演盤が素晴らしい。ふたりが奏でる音楽は、わたしに今もたくさんのことを語る。本盤を聴きながら、わたしはたくさんのことを想い、思い出す。第1番の第2楽章の安らぎに満ちた旋律具合や、第2番の最終楽章の多様感はフォーレの簡潔清潔な内省的甘美世界に誘ってくれます。晩年のフォーレの作品は、笑みも涙も超えて音楽が人間的だ。知っていることも、しようとすることも、あるようにあれと肯定されているような、人道的エロスは許されていると感じる。楽曲が表現したいと見つめる先に、チェリストのためにこれは無く、音楽のためにチェロがあると感じられて好ましい。しかも、半世紀以上も前の録音だが十分に音は生きている。紳士然とした風貌の中味は情熱的な頑強さが渦巻いていた演奏家トルトゥリエは、そのままフランス近・現代作品の伝道師だった。トルトゥリエとユボー、この二人は少しユボーは若かったものの同じ時代の価値観を共有するフランス演奏家でありました。2つのチェロ・ソナタを、チェロを主体に聴くとき。本盤は1962年録音。この時トルトゥリエは48歳、演奏家としてまさに「旬」の頃で、深みに溢れた独自の音色がもたらす陰影が、重ったるさは無いながら、大人の雰囲気で重厚に対応しているといえるフォーレ作品の本質を浮き上がらせている。ピアノに注目して聴くと、伴奏のユボーは独特の繊細さでサポートしている。最早当時巨匠たる「かけあい」魅力を相互に引き出した名演かと思います。そして、フォーレ30歳代に書かれた「エレジー」の内省的哀愁を湛えた表現で、トルトゥリエとユボーによる演奏は、フォーレを聴く喜びを満たしてくれます。本盤を含める史上初となった全室内楽作品全集 は、仏ACCディスク大賞やわが国のレコード・アカデミー賞を受賞している。フォーレの代表作で残響が少なく室内楽的な、良きフランスが香る録音。いつまでも手元に置いておきたい名盤だ。
フランスのエラート・レーベルが最初に日本で紹介された時は、日本コロムビアからの発売だった。フランスに数多く残るバロック音楽ゆかりの宮殿での演奏会を再現した、空想音楽会のシリーズは忘れられない。その後、1970年代半ば、エラートの日本での発売権は RVC に移るが、移った当初は日本コロムビアのような輝きのあるエラートの音が作れず、エンジニアが苦労したと言われている。さらに、1990年代エラートはワーナー・ミュージック・グループの傘下となるが、ワーナー・ミュージック・グループでは1970年代初期音源のCD化にあたってはレコード時代の音質を復活させようとしてマスタリングを当時エラートを担当した日本コロムビアに依頼したという経緯がある。東京赤坂に当時「東洋一」と謳われた日本コロムビアの録音スタジオが完成したのは1965年。この録音スタジオとカッティング室が同一ビル内にあることから、1969年にはテープ録音機を介さず、録音スタジオとカッティング室を直結して、ミキシングされた音を直接ラッカー盤に刻み込むダイレクト・カッティングのLPを発売して音の良さで話題となった。奇しくも同時期に米国シェフィールド・ラボから発売された同じダイレクト・カッティングのLPが輸入盤として注目されていただけに、NHKの放送スタジオのレコードプレーヤーが同社製であることと日本コロムビアはレコード・ファンの好評を定めた。日本コロムビア録音部ではダイレクト・カッティングを経て、1972年のPCM録音機の導入以降、録音機の小型化、高性能化と並行して、様々なデジタル周辺機器の開発へ進む。その後、1981年にはハードディスクを用いたデジタル編集機の登場。そして、86年、日本から始まったCD化の波は世界中に波及し、CD工場を持たない国内外のレコード会社はこぞって日本にマスターテープを送り、CD生産を依頼してきた。しかし、会社経営母体が日立からリップルウッドに移り、スタジオの廃止は逃れられなかった。
エラート(Erato Disques, S.A.)は古楽録音で大きな実績をもつ最古参レーベルです。レーベル名はギリシャ神話に登場する文芸の女神・エラトーからとられている。独立系レーベルとして1953年にフランスで設立された。芸術責任者のミシェル・ガルサンの下、フランスのアーティストを起用した趣味性の高いLPを数多く制作し、クラシック音楽を中核とし、とりわけフランス系の作品や演奏家の紹介に努めてきた。その中心的なレパートリーはバッハ以前の古楽だった。日本ではバロック音楽すべてが含まれる場合もありますが「古楽」は、古典派音楽よりも古い時代の音楽=中世、ルネッサンス、ごく初期のバロック音楽の総称です。作曲された時代の楽器、演奏方法は、時代を経るにつれ変遷を遂げてきています。近年の「古楽」ジャンルの録音は、19世紀から20世紀にかけて確立されたクラシック音楽の演奏様式ではなく、現代の楽器とは異なる当時の楽器で、音楽史研究に基づいて、作曲当時の演奏様式に則った演奏によっています。但し、オリジナル楽器録音への取り組みはやや遅く、本格化するのはフランス系以外の奏者を積極的に起用するようになった1980年代以降。中心を担ったのはトン・コープマン、ジョン・エリオット・ガーディナー、スコット・ロスといった、グスタフ・レオンハルトたちよりも一世代後、かつフランス人以外の演奏家たちである。
1962年録音、フォーレ:チェロ・ソナタ第2番ニ短調 op.109、ソナタ第2番ト短調 op.117、エレジー op.24。
YIGZYCN
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