GB RCA SB6715 ハイフェッツ&ピアティゴルスキー モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲KV219
通販レコード→英レッド・ラベル銀文字盤 DYNAGROOVE デッカプレス

GB RCA SB6715 ハイフェッツ&ピアティゴルスキー モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲KV219

商品番号 34-7556

精巧無比、人間の限界を極めた機械人形のモーツァルトの楽しさ。 ― 名ヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツは1961年から1974年まで、盟友のチェリスト、グレゴール・ピアティゴルスキーと共にハリウッドを中心に室内楽演奏を定期的に行いました。「ハイフェッツ&ピアティゴルスキー・コンサート」と銘打たれたこのシリーズは、ハイフェッツとピアティゴルスキーをキー・メンバーにしながら、その盟友だったウィリアム・プリムローズ、バージニア・マジュースキー(ヴィオラ)、イスラエル・ベイカー、アーノルド・ベルニック、ジョゼフ・ステッパンスキー(ヴァイオリン)、ガーボル・レイト(チェロ)、レナード・ペナリオ(ピアノ)ら、アメリカで活躍していた名手が集い、米国最大手のレコード・レーベル、LIVING STEREO(リヴィング・ステレオ)を持つラジオ放送局の企画として、さまざまな組み合わせで室内楽の幅広いレパートリーを取り上げたもので、しかも比較的珍しい作品を多く紹介していました。その演奏会のシリーズと並行して米RCAに録音が行われ、この二人の巨匠を中心とする充実した室内楽演奏が米RCAのリビング・ステレオ時代の優れたアナログ録音で残されたのでした。20世紀ヴァイオリン演奏史に巨大な足跡を残したハイフェッツ(1901〜1987)。幸運なことに彼の最円熟期はちょうど米RCAがステレオ録音を実現させた1950年代~60年代と重なり、当時としては最新鋭の技術と機材によって、ハイフェッツの貴重な演奏が鮮明なステレオ録音として残されることになりました。ハイフェッツがチェロのピアティゴルスキーとはじめた〝コンサート・シリーズ〟のなかで、1963年10月、11月に録音された名演奏。《モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調 K.219「トルコ風」》ではハイフェッツが自ら指揮しつつ弾いているが、自在感にあふれ、しなやかな流動性に貫かれた美演。ハイフェッツらの演奏で有名になった《トゥリーナ・ピアノ三重奏曲第1番 Op.35》も好演。本盤は1963年発売。英デッカ・プレス盤。
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レコード鑑賞会で2017年5月と6月にシリーズしたアルフレッド・コルトー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルスは俗にカザルス・トリオと呼ばれ親しまれている。「私の故郷、カタロニアの鳥はピース、ピースと啼くのです」と国連で訴えたチェロの巨匠、スペインのカザルスからトリオを抜けた。3人がすでにトップ演奏家であったことから出演料が高額で、レコードは当然世界中で売れた。6月例会で聴いたブラームスの二重協奏曲を1929年5月、スペインの歌劇場でのレコーディングしたのを最後に、コルトーに異を立てるようにカザルスは去り、ピエール・フルニエが代わりに参加することになった。1929年にベルリン高等音楽院の教授と成り、ベルリンを拠点に活躍。パウル・ヒンデミットやシモン・ゴールドベルクと弦楽三重奏団を結成していたドイツ系チェリスト、エマーヌエル・フォイアーマンはナチスの台頭によりイギリスやアメリカでの活動を中心に据え、アルトゥール・ルービンシュタインやハイフェッツと〝100万ドル・トリオ〟を結成した。そのフォイアーマンは同時代の演奏家達からの評価は軒並み高く、ハイフェッツは「100年に一人の才能」、ルービンシュタインは「全世代を通じて最も偉大なチェリスト」、カザルスは「フォイアーマンの早逝は音楽界にとって非常に惜しい損失」、ヤーノシュ・シュタルケルは「自分にとってフォイアーマンは最高峰のチェリスト」、ダニイル・シャフランは「カザルスは神様だが、フォイアーマンはそれ以上だ」、ルドルフ・ゼルキンは「フォイアーマンを語る時は姿勢を正さずにはいられない」という意味の事を各々語っている。しかし、SPレコード時代、しかも戦時中に世を去ってしまった事、更には録音自体が少なかった事、彼亡き後、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチやヨーヨー・マら超絶的技巧のチェリストが次々と出現した事、ジャクリーヌ・デュ・プレが夭折の天才のイメージを一身に集める様に成った事などの要因が重なり、今ではフォイアーマンというと、名前は知っているけれど録音を聴いた事はないという伝説でのみ語られる存在に成って来ている。特にハイフェッツとルービンシュタインという全く異なる音楽性を具えた大家二人の競演は独特の緊張感を孕んでいる。この水と油とも言える2人の大家を中和し、アンサンブルの要の役割を果たしているのがフォイアーマンだった。このフォイアーマンが1942年5月、痔の手術を行った際に合併症の腹膜炎で急死。奇しくもこの年、アメリカ市民権を取得したグレゴール・ピアティゴルスキーが参加した。前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍したルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887.1.28-1982.12.20)は、ハイフェッツとは作品の解釈や、どちらの名が先にレコードのジャケットに表記されるべきかをめぐって常に揉め、1950年を境に2度と共演は行わなかった。そこで〝100万ドル・トリオ〟と評判だったピアノ三重奏団のピアニストとして「ハイフェッツ&ピアティゴルスキー・コンサート」と銘打ったテレビ番組で演奏を行う。
ヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetz, 1901.2.2-1987.12.10)は優れた技巧を駆使し早いテンポで明確流麗に音楽を弾き込んでいく人だった。過剰な程にかけられるヴィブラートやポルタメントは柔な感傷性を排した機械人形といえる精緻な音色を表現していく。デビューのレコードを聴いたフリッツ・クライスラーの発言通りで、それは生涯変わることなかった。同時期、アルトゥール・ルービンシュタインと袂を分かちた後のハイフェッツの音楽は、技巧に走り音楽の心に欠ける等と日本のレコード批評界は軽視して、14年続いたシリーズを無視しようとした。弦楽四重奏曲の全集をコンプリートしようとしている録音シリーズでもなく、サロンで演奏されることを機会にするアットホームな室内楽演奏を、この室内楽録音シリーズはハイフェッツの音楽を室内楽の分野で追求したものだと気がつくであろう。ハイフェッツが、その強力なテクニックを駆使して早いテンポで、ぐいぐい弾いて行く様はあまりにも明快で、グレゴール・ピアティゴルスキーにウィリアム・プリムローズといった名人が脇を固め、完全に音楽に嵌った感じで完璧なアンサンブルのもと一体となって燃え上がり激走する。これらの室内楽の演奏は他のものとは一線を画した隔絶した世界を見せてくれる。室内楽の分野でのそういう演奏は、曰く、技巧や音ばかり磨かれて、曲の深い精神性が無視されている、優雅な面が軽んじられている、と戸惑ったのだろうか。否、彼らがドイツ・オーストリア系でない奏者であることも手伝って、評論の指標がなかったからではないか。個人個人の思考や、作品の精神性を解くことが室内楽曲の批評には多かった。本盤の《モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調 K.219「トルコ風」(1963年10月6日ロサンジェルス、スコティッシュ・ライト・オーディトリアム録音)》を聴けば、そういう反応もあり得るかという感じである。ハイフェッツの演奏の特異性については、「完璧」「精巧無比」「 人間の限界を極めた」、など様々取り沙汰されているが情熱と厳格さが混淆していることを説明する最も佳い例が、このモーツァルト。〝室内管弦楽団〟と記名されただけの匿名オーケストラを、ハイフェッツ自身が指揮をしている。この演奏、一般的にはあんまり良い評判は聞かない。ハイフェッツ好き同士でも評価が分かれる。カミソリに触れてスパっと切り口が開き透明な赤い血が滲み出てくるような、紙で切った時の切れていることに気が付かないぐらいの、いわゆるモーツァルト的な柔らかく優美な音楽ではない。むしろ全体としては軍隊の行進が目に浮かぶ機械的で、キビキビとした推進力がある。その清新で瑞々しいスピード感と強靭なリズム感。なんて胸を張った勇ましく雄弁な演奏なことか。ハイフェッツの解釈と同質の伴奏をするオーケストラ。レナード・バーンスタインがグレン・グールドと共演したブラームスのレコードの冒頭に、これから演奏されるブラームスは私、バーンスタインの本位による演奏ではありませんといったナレーションが入っていたのは同じ頃の発売ではなかったか。ハイフェッツだから伴奏したとはいえ、録音のために編成されたオーケストラでも二流に非ず、名前を出してオファーを受けても迷惑だったろう。ハイフェッツは2台ヴァイオリンの協奏曲をひとりで録音したこともあったが、自分の意図を汲み取ってくれる程度の、つまらない相手を探すより自分で演奏した方がスコアに書かれた通りを実現できる。演奏者同士の対話や感情を捨てること、そうすることで本当にモーツァルトの音楽が輝く。ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」に、こうした楽しい演奏もあるのだ。
フィギュアスケートの定番曲として聴く機会が多いピアニスト、レナード・ペナリオはハリウッド系のオーケストラや野外コンサートへの出演も多く、アディンセルのワルソーコンチェルトのような作品もうまいし、さらにはジャズ風な自作の曲も大いに楽しめる。20世紀前半の覇者がウラディミール・ホロヴィッツとアルトゥール・ルービンシュタインの時代を受けて、20世紀後半にバイロン・ジャニスとペナリオの時代を迎えるのも期待できたろう。アメリカでの評価はかなり高いと聞くし、室内楽でもヤッシャ・ハイフェッツらとの共演盤がある。第2次世界大戦中は米国空軍に配属され音楽活動を一時中断、航空部隊に従軍し中国、ビルマ、インドを転戦する。この間にピアニストとしての力量が知られ慰問団に加わって奉仕演奏を行ない1943年11月17日、アルトゥール・ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団との共演でリストの《ピアノ協奏曲第1番》を演奏して公式デビューした。ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》の録音は、ジョーン・フォンテイン主役の映画『旅愁』(September Affair, 1950)に利用されている。自作では、映画『影なき恐怖(Julie, 1956)』の挿入音楽《真夜中の断崖 Midnight on the Cliffs》が知られている。晩年になって急に日本でホルへ・ボレ(ボレット)が有名になった例もあったが、メディアの取り上げられ方や宣伝によっては、わが国でももっと大スター的なピアニストになれたはずで残念だ。その当時のレコード芸術での評が、一言で言えば「通俗的で安っぽいピアノ」というものであった。そのまま現代、インターネット上でも「通俗的」を〝アメリカン〟と短絡してしまって流布している。録音を聴き、自己判定出来なくても史実としてラフマニノフの死後、最初に協奏曲のすべてを録音したピアニストでありアメリカでは絶大な人気があって、グラミー賞なども受賞している。こうした業績の大きいピアニストだが、また音楽に流れているヒューマンな温かみも特筆すべきものだ。
ヤッシャ・ハイフェッツ、グレゴール・ピアティゴルスキー、レナード・ペナリオの三者で奏でられる《トゥリーナ・ピアノ三重奏曲第1番 Op.35》のブラームスばりのロマンチックで情熱的な音楽に、耳を奪われずにはいられません。多数のピアノ曲を残したスペインのホアキン・トゥリーナ(1882〜1949)は親友のマヌエル・デ・ファリャとともにフランスへ留学し、1905年から10年間パリのスコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディに作曲を師事し、モシュコフスキのもとでピアノを学びました。そこではドビュッシーやラヴェルのようなフランス印象主義音楽の作曲家たちと親交を深め、大きな影響を受けました。1914年にファリャとともに帰国し、1931年からはマドリッドの王立音楽院で作曲科教授に就任しました。デ・ファリャやアルベニスらに比べてトゥリーナの作品が演奏される機会はこれまで決して多いとはいえませんでしたが、それはトゥリーナがフランコ独裁政権と妥協したために没後はタブー視されたことに大きな原因があったようです。しかし、トゥリーナはあらゆるジャンルの音楽を手掛けており、最近では国際的に積極的な再評価が進められつつあります。トゥリーナの作品には故郷アンダルシアの民族音楽が大きく影響しているとされますが同時代のアルベニスやグラナドスらの音楽と比較すると、スペイン的色彩は薄くロマン派の室内楽の伝統を継承する力作揃いです。「ピアノ三重奏曲第1番」は、スペインの国民音楽賞を受賞した記念すべき作品で、ハイフェッツとピアティゴルスキー、ペナリオが取り上げた本盤で有名になりました。1926年に書かれた新古典主義の影響下にある作品で、冒頭部分だけを聴くと独特の渋い和声が切羽詰まった表情で、あたかもバリバリの現代音楽のような印象を受けますが、ちょっと聴き進めると全く違うことがすぐわかります。先鋭的な表現手法を用いつつも、音楽的な深みと美しさを堅持した立派な作品です。ハイフェッツとピアティゴルスキーはいつもどおり、鋭利な切っ先のような切れ味鋭い演奏で迫力満点。ペナリオのタッチの美しさ、表現の素直さが演奏に潤いをもたらしている。スペイン情緒も感じさせつつも、同時にフランクやフォーレを思わせるフランス的な味わいもあり、スペインとフランスの音楽をうまく融合させて、さらにブラームスのような渋く真摯な音楽へと昇華したようなトゥリーナの音楽は、大変聴き応えがあります。
本盤では、《トゥリーナ・ピアノ三重奏曲第1番 Op.35》で共演(1963年11月6日ハリウッド、RCAスタジオ録音)。レナード・ペナリオとアルトゥール・ルービンシュタインは、どうやら師弟関係ではなさそうだが音楽の作りが似ている。1958年では、ワルター・ギーゼキングと並んで最もレコードが売れるピアニストであった。エーリヒ・ラインスドルフやウラジミール・ゴルシュマン、小澤征爾、アンドレ・プレヴィンらとの共演で協奏曲の録音を残してきた。60枚以上のLPを遺しているが、そのほとんどがショパン以降の作品である。同時代の音楽では、ラフマニノフ、バルトーク、ガーシュウィン、プロコフィエフ、ロージャを得意とした。また、ゴットシャルクの擁護者としても知られていた。また、ミクローシュ・ロージャにピアノ協奏曲を書いて貰い、ズービン・メータ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニックとの共演でその初演を行なった。また室内楽では一転して協調性を発揮し、他の独演者より控えめに振舞う傾向から、1960年代初頭にヤッシャ・ハイフェッツならびにグレゴール・ピアティゴルスキーに共演相手として好まれてピアノ三重奏団として演奏を行う。そのうちの一つは1962年にグラミー賞を獲得した。ルービンシュタインと似た音楽性を持ち、テクニックは勿論申し分なし。しかも初見が利くピアニストを招いてのレコード会社肝いりの「ハイフェッツ&ピアティゴルスキー・コンサート」にペナリオは持って来い。2018年には没後10年を数えるが、1990年代に演奏活動・録音活動から引退していたペナリオ(Leonard Pennario, 1924.7.9-2008.6.27)は、アメリカが未来を信じて疑わなかった一番前向きだった頃に活躍したピアニストだ。どの演奏も華やかだが手堅い感じで過不足はないもの。奇をてらわずに、いかにも「華麗なるピアノ」といった風情。しかし、どの曲も「違和感なく普通に弾ける」ということに、どれだけの底力が必要とされるかを知るべきである。12歳でグリーグの《ピアノ協奏曲》をダラス交響楽団と共演し、神童として名を馳せた。当初予定されていたピアニストが病気になったため、かねてよりペナリオ少年のピアノ演奏に注目していたユージン・グーセンスの推薦によって、本人がこの作品が分かると明言したこともあり独奏者に抜擢されたのだった。実際にはそれまでペナリオはこの曲を聴いたことも弾いたこともなかったが、わずか1週間で覚えてしまったという。努力で希望を実現してしまうアメリカン・ドリームの一つだ。
GB RCA SB6715 ハイフェッツ&ピアティゴルスキー モーツ…
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