GB RCA SB6658 ペナリオ ドビュッシー・前奏曲
通販レコード→英レッド・ラベル銀文字盤[オリジナル]DYNAGROOVE デッカプレス

GB RCA SB6658 ペナリオ ドビュッシー・前奏曲

商品番号 34-684

音と香りは夕暮れの大気に漂う。 ― ピアノ音楽を学ぶ、愉しむにあたりヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集》を知らないで聴くわけにはゆきません。ハンス・フォン・ビューローによって「音楽の旧約聖書」、シューマンによって「毎日のパン」と表現されたこの偉大な作品は、すべての長調と短調、つまり24の調を用いて書かれ、第1巻と第2巻でそれぞれ秩序だった世界を作り上げています。後世の大作曲家たち、ショパンやショスタコーヴィチの《24の前奏曲》はバッハのこの手法に影響を受け、作曲されたものです。くだって2巻合わせて24曲となるドビュッシーの《前奏曲集》。構想の段階ではショパンに触発されるところがあったのかもしれませんが、24の調を巡るわけではなく、逆に高度に印象派的な手法が用いられています。各曲には様々なイメージを喚起させる印象的なタイトルが付されていますが、それらは冒頭ではなくそれぞれ楽譜の最後の余白に小さく書込まれています。これは先入観に縛られないようにというドビュッシーの配慮。初めて聴く方はまずタイトルを見ないで聴いてみるのが良いかもしれません。本盤は1965年発売。英デッカ・プレス盤。
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《前奏曲集第1巻》全12曲中10曲を納めた自筆譜はアルフレッド・コルトーが生前に所蔵していた。1910年に短期間で作曲されたドビュッシー晩年の作品。第1曲「デルフィの舞姫たち(danseuses de delphes)」 ― lent et grave, ゆっくりと荘厳に ― ルーブル美術館蔵の古代ギリシアの舞姫を描いたレプリカ彫刻に着想。第2曲「帆(voiles)」 ― modéré, 中庸の速さで ― 標題の『帆』にはヴェールの意味も含む。第3曲「野をわたる風(le vent dans la plaine)」 ― animé, 生き生きと ― かつて手がけたヴェルレーヌ詩『そは、やるせなき』にあったファヴァールのエピグラフ「風は野で、息を止める」に由来がある。第4曲「音も香りも夕べの大気を漂う(les sons et les parfums tournent dans l'air du soir)」 ― modéré, 中庸の速さで ― 標題はボードレール詩『夕べの諧調』からの引用句。第5曲「アナカプリの丘(les collines d'Anacapli)」 ― très modéré, きわめて中庸に、溌剌と ― アナカプリはイタリアのナポリにあるカプリ島の丘。タランテラ舞曲のリズムを導入。第6曲「雪の上の足跡(des pas sur la neige)」 ― triste et lent, 悲しみを込めて、ゆっくりと ― 『ペレアスとメリザンド』中に同じ台詞が登場する。第7曲「西風の見たもの(ce qu'a vu le vent d'ouest)」 ― animé et tumultueux, 活発に、騒然と ― アンデルセン童話に着想か。高度な技巧を要する。第8曲「亜麻色の髪の乙女(la fille aux cheveux de lin)」 ― très calme et doucement expressif, なるだけ静かに、やさしい表情を込めて ― 作者が若い頃に作曲した同名の曲(ルコント・ド・リールの『古代詩集』の中の「スコットランドの歌」に着想か。『前奏曲集』中最も人気があり、しばしば独立して演奏される。第9曲「遮られたセレナード(la sérénade interrompue)」 ― modérément animé, 中庸を得た活発さで ― スペイン舞曲「ホタ」のリズム。ギター独奏を思わせる書法。第10曲「沈める寺(la cathédrale engloutie)」 ― profondément calme, 深い静けさを以て ― 〝夜な夜な男を替えては遊び、その男を次々殺しては海に投げ捨てていたイスの街の王グラドロン王の娘ダユを怒った神がイスの街を沈ませた〟とのブルターニュの民間伝承に着想。海に没した寺院が姿をあらわすものの再び海中へと没する。第11曲「パックの踊り(la danse de puck)」 ― capricieux et léger, むらっ気たっぷりに、軽快に ― シェイクスピア『夏の夜の夢』に登場する妖精パックのユーモラスな踊り。第12曲「ミンストレルズ(minstrels)」 ― modéré, 中庸な速さで ― 顔を黒人に似せて黒人舞踊を踊る「ミンストレル・ショー」は当時パリで一世を風靡した。これに着想。既に1903年には『ペレアスとメリザンド』(1902年)の成功によって作曲家としての評価も確立し翌年にはレジオン・ドヌール賞を受賞、押しも押されぬ大家となっていたドビュッシーだが、この当時は既に病気も徐々に進行し経済的にも豊かとは言えない状態に置かれていた。出版元のジャック・デュランも「この病に苦しむ作曲家がすぐに売れる作品に手を回すことができて、ほっとした」と懐述している。初演の際も作品集中から数曲ずつが選ばれて演奏されたように『前奏曲集』は必ずしも同時に演奏されることを意図したものではなく、作曲者自身も「全ての曲が上出来だとは思わない」とコメントしている。のちに出版される第2巻と並んで24曲となるが調性を意識したものではなく、とくに第1巻はそれまで作曲者自身が培ってきた音楽的語法の集大成的な性格が強く、第2巻は新たなる音楽的表現を目指した実験的性格が強いとされる。1913年に作曲者自身が録音したピアノ・ロール版があり、1985年にはロイ・ホワット(Roy Howat)氏の監修による別版も出版されている。
フィギュアスケートの定番曲として聴く機会が多いピアニスト、レナード・ペナリオはハリウッド系のオーケストラや野外コンサートへの出演も多く、アディンセルのワルソーコンチェルトのような作品もうまいし、さらにはジャズ風な自作の曲も大いに楽しめる。20世紀前半の覇者がウラディミール・ホロヴィッツとアルトゥール・ルービンシュタインの時代を受けて、20世紀後半にバイロン・ジャニスとレナード・ペナリオの時代を迎えるのも期待できたろう。アメリカでの評価はかなり高いと聞くし、室内楽でもヤッシャ・ハイフェッツらとの共演盤がある。第2次世界大戦中は米国空軍に配属され音楽活動を一時中断、航空部隊に従軍し中国、ビルマ、インドを転戦する。この間にピアニストとしての力量が知られ慰問団に加わって奉仕演奏を行ない1943年11月17日、アルトゥール・ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団との共演でリストの《ピアノ協奏曲 第1番》を演奏して公式デビューした。ラフマニノフの《ピアノ協奏曲 第2番》の録音は、ジョーン・フォンテイン主役の映画『旅愁』に利用されている。自作では、映画『影なき恐怖(Julie, 1956年)』の挿入音楽《真夜中の断崖 Midnight on the Cliffs 》が知られている。晩年になって急に日本でホルへ・ボレ(ボレット)が有名になった例もあったが、メディアの取り上げられ方や宣伝によっては、わが国でももっと大スター的なピアニストになれたはずで残念だ。その当時のレコード芸術での評が、一言で言えば「通俗的で安っぽいピアノ」というものであった。そのまま現代、インターネット上でも「通俗的」を“アメリカン”と短絡してしまって流布している。録音を聴き、自己判定出来なくても史実としてラフマニノフの死後、最初に協奏曲のすべてを録音したピアニストでありアメリカでは絶大な人気があって、グラミー賞なども受賞している。こうした業績の大きいピアニストだが、また音楽に流れているヒューマンな温かみも特筆すべきものだ。
レナード・ペナリオ(Leonard Pennario, 1924.7.9-2008.6.27)のタッチの美しさ、表現の素直さが演奏に潤いをもたらしている。ショパンは好きな曲がいっぱいあったから、その『前奏曲集』を通して聴けるというので、あるピアノ・リサイタルに足を運んだ。ウラディーミル・アシュケナージらの名盤で通して聴いてはいたが、『雨だれのプレリュード』以外は親しみは浅かった。このリサイタルで全体像が理解でき、最も大切な曲になった。小山実稚恵さんは大家ピアニストですが、ローカルFM局の公開録音だった、そのピアノ・リサイタルの当夜の客席のムードは「ショパンの名曲を聞きに集いました」といった色合い濃厚で、ステージに現れた小山実稚恵さんの姿に、若い女性ピアニストね、というぐらい。演奏家のパフォーマンス=作品解釈を楽しむより、作品のあるべき姿に重きを期待する傾向が強いことが日本の愛好家にある。批評家にも課題を感じるところだ。シューマンの歌曲集は《詩人の恋》のように、いろいろな環境での雑多な感情が曲に転じてちりばめられることが多いので、曲間をあけない事で一貫したスタイルが確立される。だがストーリーを持つとなると別問題だ。歌曲集《女の愛と生涯》は、1曲1曲の間に1年とか2年ある時間の経過、環境の変化で主人公の女が少女から花嫁、母親、歳を重ねていくことで気持ちが変わっていくところを感じ取らせようとしている。これをシューマンの他の曲集の雛形にはめてしまうと走馬灯の光景になってしまう。小山実稚恵さんの『前奏曲集』の演奏会。アルバムが発売される以前だったと記憶している。彼女自身、各曲の間をリサイタルでいろいろと試して掴みとろうとしていたに違いない。その夜の公開録音で、曲集の一曲、一曲が終わる度に客席から拍手が起こった。最初は拍手に応じていた彼女は、5曲目を過ぎたところで本心は「全曲弾き終えてから拍手をください」という意味合いの言葉を客席にかけた。実際ではラジオ収録中だから、を理由にしていた。ハイフェッツ、グレゴール・ピアティゴルスキーらと、かつて100万ドル・トリオを組んでいたアルトゥール・ルービンシュタインは言った。「どうして誰でもがなれない演奏家に、誰でもなれる批評家が物申すか」と。
ラヴェルの「ラ・ヴァルス」やヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」のシュルツ・エヴラーの編曲、ペナリオ自身の編曲による「皇帝円舞曲」「シェルブールの雨傘」などを聴くといかにもアメリカらしい華麗流麗な演奏である反面「エンターテイメント」は「芸術性」がない、と云う風潮は音楽だけ出なく文学、映画あらゆる分野に共通する偏見を受け「技巧だけの無内容」「低俗」という批判もあった。シューマンやショパンはロマン派の作曲家であり、作品の解釈を定型化出来ないところに面白さのある音楽だと思う。モーツァルトやベートーヴェンが、どういう演奏をしていたのか知るすべはない。自由に発展させた解釈で演奏する前段階で、基本を把握する必要で作曲家の頭にあった演奏を探る行為は、ドビュッシーやラフマニノフに労は無い。ピアノロールや蓄音器の登場で演奏を録音として残している。ラフマニノフは大作曲家であると同時に、まれに見るピアノの達人であった。その技術は現代の我々が見ても抜群であり、アルフレッド・コルトーのような不満足な要素は存在しない。現代のピアノ演奏のレパートリーの殆どをラフマニノフ自身の演奏を手本に出来る。彼は自分の作品を弾くのに自分のイメージを忠実に描ける技術を持っていたし、自作の曲のあるべき姿を指し示している。それでも、誰よりも遅いテンポで始めるスビャトスラフ・リヒテルの弾くラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を批評家は同じまな板にあげようとしない。もっともラフマニノフがベンノ・モイセイヴィッチやウラディミール・ホロヴィッツの演奏を認めていたので、自作の多様な解釈の容認は許される。しかし、せっかくの手本となる演奏が残されているのだ。ラフマニノフを直接知る演奏家は少なくないし、唯一往年のレナード・ペナリオが、ラフマニノフを意識したルバートを使っている。もともとペナリオはラフマニノフを尊敬しているということで、その演奏の共通性も本来は容易に見出せるはずだ。デビュー録音のプロコフィエフの「つかの間の幻影」は純度の高い演奏で、このピアニストの質の高さを改めて認識した。シューマンの「幻想曲」やリストのソナタ、フランクの「前奏曲・コラール・フーガ」やラヴェルのラ・ヴァルス、バルトークのソナタ、さらにはジャズ風な自作の曲は、大いに楽しめる。チャイコフスキーやラフマニノフの第2協奏曲、グリーグ等の有名協奏曲のほとんどでエーリヒ・ラインスドルフらアメリカRCAレコードの看板指揮者と共演。他でもショパン以降の有名協奏曲、ラフマニノフの3番、ショパンの2番、リストの1番、プロコフィエフの3番、バルトークの3番と、どの演奏も華やかだが手堅い感じで過不足はないものだが、特徴のない普通で平凡なものとして片付けられてきた。むしろ知らない人の方が多いのは残念ながら、当時の批評家たちが自身のものさしの尺度に合わないペナリオを無いことにしようとしたからだ。
眉間に皺を寄せ深刻に顔を歪める演奏家が多い現在、このような大らかに余裕を持った演奏をする「大時代」の「大ピアニスト」の時代は確実に終焉にさしかかっているといえるでしょう。レナード・ペナリオとアルトゥール・ルービンシュタインは、どうやら師弟関係ではなさそうだが音楽の作りが似ている。1958年では、ワルター・ギーゼキングと並んで最もレコードが売れるピアニストであった。エーリヒ・ラインスドルフやウラジミール・ゴルシュマン、小澤征爾、アンドレ・プレヴィンらとの共演で協奏曲の録音を残してきた。60枚以上のLPを遺しているが、そのほとんどがショパン以降の作品である。同時代の音楽では、ラフマニノフ、バルトーク、ガーシュウィン、プロコフィエフ、ロージャを得意とした。また、ゴットシャルクの擁護者としても知られていた。また、ミクローシュ・ロージャにピアノ協奏曲を書いて貰い、ズービン・メータ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニックとの共演でその初演を行なった。また室内楽では一転して協調性を発揮し、他の独演者より控えめに振舞う傾向から、1960年代初頭にヤッシャ・ハイフェッツならびにグレゴール・ピアティゴルスキーに共演相手として好まれてピアノ三重奏団として演奏を行う。そのうちの一つは1962年にグラミー賞を獲得した。ルービンシュタインと似た音楽性を持ち、テクニックは勿論申し分なし。しかも初見が利くピアニストを招いてのレコード会社肝いりの「ハイフェッツ&ピアティゴルスキー・コンサート」にペナリオは持って来い。2018年には没後10年を数えるが、1990年代に演奏活動・録音活動から引退していたペナリオは、アメリカが未来を信じて疑わなかった一番前向きだった頃に活躍したピアニストだ。どの演奏も華やかだが手堅い感じで過不足はないもの。奇をてらわずに、いかにも「華麗なるピアノ」といった風情。しかし、どの曲も「違和感なく普通に弾ける」ということに、どれだけの底力が必要とされるかを知るべきである。12歳でグリーグの《ピアノ協奏曲》をダラス交響楽団と共演し、神童として名を馳せた。当初予定されていたピアニストが病気になったため、かねてよりペナリオ少年のピアノ演奏に注目していたユージン・グーセンスの推薦によって、本人がこの作品が分かると明言したこともあり独奏者に抜擢されたのだった。実際にはそれまでペナリオはこの曲を聴いたことも弾いたこともなかったが、わずか1週間で覚えてしまったという。努力で希望を実現してしまうアメリカン・ドリームの一つだ。
GB RCA SB6658 ペナリオ ドビュッシー・前奏曲
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