34-693

商品番号 34-693

通販レコード→英レッド 銀文字 LIVING STEREO 盤

推進力のある音楽の〈幸福な豊かさ〉 ― 第2次大戦後のボストン交響楽団に黄金時代をもたらし、小澤征爾の師としても知られ、3回の来日歴もある〝フランスの名指揮者シャルル・ミュンシュ〟は、ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターをつとめてミュンヒの音楽家としてのルーツであるドイツ音楽の演奏においても本領を発揮し、その一方で、ピエール・モントゥーが確立したフランス式の演奏様式の伝統を継承し、ボストン響をフランス音楽の演奏にかけては類のないアンサンブルに仕立て上げました。〝ドイツ系の名指揮者カール・ミュンヒ〟にとって、フランス音楽も重要なレパートリーだった。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送ったミュンシュは、両国の音楽を共に得意とした。ドイツ音楽ではベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンなど、フランス音楽ではベルリオーズ、フランク、サン=サーンス、ショーソン、ドビュッシー、ラヴェルなどに名盤を遺した。ミュンシュは自国の音楽に先天的共感を以って、この効果の難しい難曲を実に巧みに演奏し妙に現代風なダイナミックを強調しない点はさすがである。1962年3月、ミュンシュのボストン響音楽監督としての最後のシーズンに一気に録音されたドビュッシーとラヴェルの名管弦楽曲集。うちドビュッシーの交響組曲《春》《夜想曲》(合唱の入るシレーヌは除かれている)以外は、ミュンシュ&ボストン響にとって再録音にあたるもので、《牧神の午後への前奏曲》は2度目となるもの。文字通りフランス音楽の体現者としての地位を確立した自信に溢れた文句なしの名演ぞろいで、ミュンシュの定番として発売以来カタログから消えたことがありません。《牧神の午後への前奏曲》と《夜想曲》は、交響詩「海」だったり、「ボレロ」とのカップリングで再発売されますが、初出はこの3曲。文字通りフランス音楽の体現者としての地位を確立した、自信に溢れた文句なしの名演揃い。これらの曲の演奏に求められる鋭敏な色彩感覚を充分に発揮しながらも、作品に盛り込まれた感情のダイナミズムを余すところなく表現しきる思い切りの良さ、作品全体を俯瞰するスケールの大きさ、夢中になってのめり込んで行く演奏の勢いでも、オーケストラの上手さ、専属合唱団の立体感。これが、ミュンシュがボストン響時代に獲得した、推進力のある音楽の〈幸福な豊かさ〉というものだ。近代フランス音楽の華麗な音響でこそミュンシュとボストン響の真価は発揮されたが、そして何よりも作曲者の破天荒な発想を現実の音としている点においてボストン・シンフォニー・ホールの空気感までをも伝えるハイファイ・ステレオの威力を味わえる優秀録音盤の価値は揺るぎ無い。→コンディション、詳細を確認する
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クロード・ドビュッシー(Claude Debussy)は1862年生まれ。1918年没。フランスの作曲家。印象主義音楽の創始者。ワグネリアンで、マラルメなど象徴派詩人たちと接していた。中世の旋法、5度7度の組み合わせ、全音音階等独創的な音色とリズムを獲得し、ロマン派音楽から脱却、新しい世界を切り開いた。ドビュッシーが活躍を始めた19世紀末にかけて、ヨーロッパではリヒャルト・ワーグナーが大流行していました。巨大な管弦楽と強靭な歌声によって、観る者の感覚を根こそぎ奪い取っていくようなワーグナーのオペラに魅了される人々が数多くいたのです。一度聴くと耳について離れないワーグナー音楽は、当時の作曲家らの耳を支配した。何を書いても知らず知らずワーグナーに似てしまうのです。ドビュッシーも、パリ音楽院在学中にワーグナーに傾倒し、楽劇『トリスタンとイゾルデ』のスコアを持ち、全3幕を暗譜で弾き語りすることができた。1887年から1889年の間に書かれた歌曲集『ボードレールの五つの詩』には、ワーグナーの音が色濃くこだましている。1887年のあるアンケートで、「好きな作曲家は?」ときかれてバッハ、パレストリーナとともにワーグナーの名をあげたドビュッシーは、その2年後までは熱烈なワーグナー主義者だった。卒業後の1888年と1889年、2回にわたってワーグナーのオペラを観にバイロイト祝祭歌劇場を訪れています。ワーグナーを思わせる唐草模様のような旋律のつながりがそれを実現するわけだが、《牧神の午後への前奏曲》には、まどろみながらも前へ前へと、ひた押しに進む方向性が大切だ。ワーグナーの音階進行に影響を受けて、フランス印象主義音楽を開いたドビュッシーだったが、フランス独自の音楽を追及していたこの時期のドビュッシーにとっては、たまらなく嫌いなものだったのです。なぜなら、誰もが一度はワーグナーという巨大で圧倒的な存在に、魅了されるにしろ反発するにしろ、影響を受けないわけにはいかなかったからです。そして、「ワーグナーをどうやって越えていくか」という問題は、この時代の作曲家にとって共通の最大の問題でした。ベルギー人のセザール・フランクの『交響曲ニ短調』には、ワーグナーの手法や響きが反映されている。ヴァンサン・ダンディの歌劇『フェルヴァール』は、『トリスタンとイゾルデ』の影響を受けすぎていると批判され、エルネスト・ショーソンの歌劇『アーサー王』も、ドレスデン歌劇場に上演をもちかけたが、『トリスタンとイゾルデ』に似すぎているという理由で拒否されてしまう。たしかに似てはいるが、圧倒的なカリスマ性がなく、よい意味のおしつけがましさもないから印象も薄い。弟子となってワーグナーの息子の音楽指導を託されたエンゲルベルト・フンパーディンクも、大任から解放されてからは個性を目指した。ドビュッシーは、ワーグナーの影響から抜けだし、新しい20世紀音楽への扉を開いたひとりといえます。微睡み、揺らめき、大きく畝る音楽を、表情豊かに刻明に辿る演奏は、無限の彼方への流れを感じさせる。彼は、「ワーグナーを越える」ためにはどうしたらいいのかを模索し、やがて独自の新しい音楽の世界を切り拓いていくのです。この曲の旋律の連続性を実現している演奏として、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団盤を私はベスト・ワンに薦める。クラウディオ・アバドがロンドン交響楽団と充実した活動を展開していた幸福な時期の魅力は、弦楽の絡みは繊細で傷つきやすい世界の美しさだ。痩身のすらりとしたプロポーションの音楽は、秋風が静かに吹くような感覚を、この曲に持込んで成功した個性的な演奏だったが、いくらか速めのテンポでの前進性が生々しい分だけ、シャルル・ミュンシュとボストン交響楽団の演奏は全体のふっくらとした印象、春風のような暖かさだ。
平成元年も8月が終わり、数日前までの暑さが嘘のように日中も涼しくなった。こういう日の夕方から夜にかけてはドビュッシーの「夜想曲」を聴きながら静かに過ごしたい。《夜想曲》は、1892年に作曲に着手され、1899年までのおよそ7年を掛けた管弦楽の組曲です。ドビュッシーの代表的なオーケストラ曲として《海》《牧神の午後への前奏曲》の間に位置し、両曲と共に演奏される機会の多い作品です。しかし、その創作過程が最も不明瞭な作品の一つ。標題の『夜想曲』は1876年に、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン詩「夜想曲」から着想したとされる。フランス語(Nocturnes)のまま「ノクチュルヌ」と呼ばれることもありますが、「夜想曲」という言葉のイメージから作曲された「雲」、「祭」、「シレーヌ」という3つの曲で構成されています。第1曲「雲(Nuages)」は、空の雲のゆっくり流れて消えていく様を描写したもの。「セーヌ河の上に垂れこめた雲」を表すと思われるクラリネットとバスーンが冒頭で汽船の霧笛を思わせる動機ではじまる。中間部でハープを伴って奏でるフルートのメロディーが五音音階で出来ているのが特徴。第2曲「祭(Fêtes)」はスケルツォの性格を持った楽曲で、祭の盛り上がりと祭の後の静けさが描かれています。活発な3連符のリズムが唐突に中断すると、遠くから幻影のような行列が近づいてきます。やがて、祭りの主題と、 行列の主題が、同時進行して溶け合うようになり、主題を回想しながら消え入れる中、トランペットは次の「シレーヌ」の序奏をさりげなく予告する。第3曲「シレーヌ(Sirènes)」では16人の女声合唱(ソプラノ8、メゾソプラノ8)による歌詞のない女声合唱(ヴォカリーズ)がオーケストラに加わり、月の光を映してきらめく波と、ギリシャ神話の水の精シレーヌの神秘的な歌声を表現します。風景の変化、光の移ろい。目に映るものに確実なものはなく、すべては光の変化でしかない。と書くと印象派絵画のようだが、ドビュッシーの夜想曲はそんな気持ちにさせる、詩的で神秘的な音楽だ。
夜想曲という題は、ここではより一般的な、とりわけより装飾的な意味にとってほしい。したがって、夜想曲の慣行の形態ではなしに、特殊な印象と光とをめぐってこの言葉の包含するすべてが、問題になる。〈雲〉。これは空の不易のすがたである。やんわりと白みをおびた灰色の苦悩のなかに消えてゆく雲の、ゆっくりとわびしげな動きが見える。〈祭〉。これは、だしぬけに光がまぶしくさしこんでくる祭の気分(アトモスフェール)の踊るような動き、リズムであり、また、祭を横切りそのなかに溶けこんでゆく行列のエピソード(眩惑的でしかも夢のごとき幻影)である。しかし、行列の基調はあとに残り、いつまでも鳴りひびく。というわけで終始これは祭であり、その音楽とも全体のリズムに加担するきらきら輝く埃ともまざりあって一体になった、祭である。〈海の魔女(シレーヌ)〉。これは、海とその数えきれないリズムで、それから、月の光に映える銀色の波のあいだに、魔女たちの神秘な歌があらいさざめいてよぎるのが、きこえる。 ― ドビュッシー自身による解説文
当初は1892年に、アンリ・ド・レニエの詩に着想した『3つの黄昏の情景(Trois scènes au crépuscule)』としてまず構想された《夜想曲》だったが、次いで1894年にはヴァイオリンと管弦楽のための『夜想曲』として、ベルギーの作曲家でありヴァイオリニストであったウジェーヌ・イザイに献呈すべく再度構想された。しかしイザイがこれを辞退したことから、この版も破棄された。ドビュッシーは1897年12月から稿を改めて作曲に入り、1898年6月25日には草稿を書き上げた。しかし、〝『夜想曲』の三曲には、『ペレアス』の五つの幕よりもてこずった〟とドビュッシー自身が述べている通り、最終的に書き上げられたのは1899年12月末であった。献呈者はジョルジュ・アルトマン。初演はコロンヌ管弦楽団によって行われる予定であったが、1900年12月9日のラムルー管弦楽団定期演奏会において、「雲」と「祭」の2曲のみの形でなされた。この初演は好評をもって迎えられ、ガストン・カローは「和声や響きを、限りなく革新的な諸関係に従って、組み合わせる術を知っている」と評し、アルフレッド・ブリュノーは「和声やリズムだけで、作曲家の思考を最も独創的かつ最も驚異的なやり方で表現するには十分なのだ」とした。しかし、翌年に行われた全曲版の初演は熱狂的な喝采を受ける一方、第3曲の演奏中に野次が飛ぶ、矛盾する反応を生みだしたという。
交響組曲《春(Printemps)》は、ドビュッシーが20歳代の若い頃の作品です。彼は1884年に作曲したカンタータ「放蕩息子」が、これが「ローマ大賞」を受賞し、すぐさまローマへの留学が決まります。勇んでヴィラ・メディチ(メディチ荘)へと留学をしたものの、後年になって印象派の作風を確立する彼にとっては、ローマ留学が肌には合わず、僅か2年でパリへと舞い戻る羽目になります。交響組曲《春》は、この留学作品としてローマに滞在中に作曲した作品です。留学作品には他に「ズレイマ」、「選ばれた乙女」、「ピアノと管弦楽のための幻想曲」がありますが、「ズレイマ」は楽譜が消失、後の2作品はパリに帰ってから作曲。《春》はボッティチェッリと、絵画のローマ大賞受賞者の2つの作品 ― 《春》にインスピレーションを受けて1886~1887年にかけて作曲されたといわれていますが、ドビュッシーは1887年の2月にヴィラ・メディチで合唱と2台ピアノ版を完成し、後にパリでオーケストレーションを完成しました。しかし「芸術アカデミー」はこの作品に対し、「管弦楽曲にはふさわしくない嬰ヘ長調」(サン =サーンス)、「漠然とした印象主義」などと酷評し、受理することを拒否します。しかし〝模糊とした印象主義〟を以って、ドビュッシーは音楽史に新しい1頁を切り開いていった存在。交響組曲《春》の当初の編成は、管弦楽に2台のピアノ、女声合唱が加わるというものでしたが、製本所の火災によってこのスコアが焼失してしまいます。しかし、幸いなことに「合唱と2台ピアノの版」のスコアは焼失を免れ、1904年に出版されています。1912年になってドビュッシーの指示を受けたアンリ・ビュッセルが、当初の合唱も管弦楽で演奏する新しいオーケストレーションを施し、1913年にパリのサル・ガヴォーにおける国民音楽協会の演奏会でルネ・バトンによる指揮で初演されました。曲は急・緩の2楽章から構成されています。主題は2つの楽章ともに共通したものですが、8分の9拍子のTrès modéréの冒頭部分から印象派的な美しい色彩が展開されていきます。またオリエンタルな響きと軽快な躍動感を持つModéréの輝きがつづく。これほどにチャーミングな逸品なのですが、なぜかあまり多くの指揮者に採り上げられてはいない作品です。
ミュンシュは、多少コスモポリタン的な傾きはあるが、全く現代的で、緊迫度が高く簡潔緻密だ。特に、ほど良く淡白な叙情性と人生の秋をしのばせる曲趣の調和が目立つ。尻上がりに油が乗ってくる。ワルターとは逆の手法で成功したものといえよう。盤鬼・西条卓夫
シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891〜1968)のキャリアはヴァイオリニストからスタートしていますが、若かりし頃、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任、その時の楽長がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。毎日その巨匠の目の前に座って多くのことを習得したことから、知らずと例の拍子を暈す内容重視の指揮法はフルトヴェングラーの指揮姿から身につけたものと推察出来ます。ミュンシュは音楽が持っているのストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。ベルリオーズの幻想交響曲とブラームスの第1交響曲でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセバトワールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることから、歴としたドイツ人であるが故にブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。1949年からボストン交響楽団の常任指揮者に就いたミュンシュは、このオーケストラと数多くのレコーディングを行い、ミュンシュの録音はほぼ全てをリチャード・モーア、ルイス・レイトンというRCAのステレオ録音の礎を築いたコンビが手がけた。『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、今ここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする〝命懸けの豪胆さ〟が私たちの心を犇々と打つのです。
録音史に残る名録音 ― LIVING STEREO
フリッツ・ライナー=シカゴ交響楽団のRCAレーベルへの録音は、1954年3月6日、シカゴ響の本拠地オーケストラ・ホールにおけるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」のセッションで始まりました。この録音は、その2日後に録音された同じリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」と並び、オーケストラ・ホールのステージ上に設置された、わずか2本のマイクロフォンで収録された2トラック録音にも関わらず、オーケストラ配置の定位感が鮮明に捉えられており、録音史に残る名録音とされています。ステレオ初期のカタログではセミ・プロ仕様の2トラック、19センチのオープンリール・テープは数が限られていましたが、その中でもミュンシュ=ボストン交響楽団のRCAレーベルへの録音は比較的多く存在していました。これ以後、1963年4月22日に収録された、ヴァン・クライバーンとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番まで、約10年の間に、モーツァルトからリーバーマンにいたる幅広いレパートリーが、ほとんどの場合開発されたばかりのこのステレオ録音技術によって収録されました。ヤッシャ・ハイフェッツ、アルトゥール・ルービンシュタイン、エミール・ギレリス、バイロン・ジャニスなど、綺羅星の如きソリストたちとの共演になる協奏曲も残されています。何れもちょうど円熟期を迎えていたライナー芸術の真骨頂を示すもので、細部まで鋭い目配りが行き届いた音楽的に純度の高い表現と引き締まった響きは今でも全く鮮度を失っていません。これらの録音「リビング・ステレオ」としてリリースされ、オーケストラの骨太な響きや繊細さ、各パートのバランス、ホールの空間性、響きの純度や透明感が信じがたい精度で達成された名録音の宝庫となっています。
  • Record Karte
  • ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲、夜想曲より(I.雲、II.祭り)、交響組曲『春』、 録音時期:1962年3月13日。
  • GB RCA SB6540 ミンシュ ドビュッシー・管弦楽
  • GB RCA SB6540 ミンシュ ドビュッシー・管弦楽
牧神の午後への前奏曲、海 ~ドビュッシー : 管弦楽名曲集
ボストン交響楽団
BMGメディアジャパン
1999-11-20

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