34-17374

商品番号 34-17374

通販レコード→英レッド銀文字 LIVING STEREO 盤

リヒャルト・シュトラウスが得意なリーザ・デラ・カーザも最高の歌唱を披露している、オーケストラの技量臭をいささかも感じさせない健康的なマーラー ― 長女マリア・アンナがジフテリアで亡くなり、マーラー自身も心臓病と診断された1907年12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれる。マーラーは、当時の楽壇の頂点に登り詰めたトップ指揮者だった。音楽性以上に徹底した完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法は、カリカチュア化されるほどの強い衝撃を当時の人々に与えている。マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき、そのことについて後年までマーラーに感謝していた。マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らしたマーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。加えて、朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だったマーラーはその一徹な性格から周囲の反発を買うことも多かった。リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時、当人に向かって指揮棒を突き出す、など楽団員からはマーラーの高圧的な態度が嫌われた。暴君の要請だと、新型コロナウイルス感染拡大を防止するために判断されたことに対することでも、今も変わらないものですが、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターはユダヤ人ではない。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義にもとづく不当な攻撃を受けていた。これら不健康な風潮から逃れてマーラーがヨーロッパを脱出したのは『大地の歌』を仕上げた後。マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、理由は演奏会場の空間的・音響的特長にこだわり、明瞭さを求め各演奏会場の特性に合わせて自作の楽譜を煩雑に書き換えていた。指揮について全ての音の長さが正確に出せるなら、そのテンポは正しい音が前後互いに重なり、フレーズが理解できなくなるとしたら、そのテンポは速過ぎる識別できる極限のところがプレストの正しいテンポである。それを超えたらもはや無意味である聴衆がアダージョについてこられない時は、テンポを速くするのではなく、逆に遅くせよなどのマーラーの言葉が残されている。オーケストラ演奏の録音は技術が未発達の時代であり残っていないが、交響曲第4番、5番や歌曲を自ら弾いたピアノロールを残している。ロリン・マゼールとニューヨーク・フィルハーモニックがNHK音楽祭に招かれた際に、奥行きが浅く、横幅に余計に広いステージに戸惑い、ひな壇を用意してマゼールの要求する響きにすべく対処されたことがある。スタジオでのレコーディングは、マーラーの音楽をコンサートホールの特殊な音響条件のもたらすさまざまな危険から大幅に開放した。
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暴君の如き金管の咆哮にマスキングされてしまう、囁きのような弦楽のさざなみとのバランスは、綿密に計算されたマイクロフォンの配置とミキサーの鋭敏な操作によって支えなおすことができる。ワーグナーはバイロイト祝祭劇場でだけの上演を遺言した「パルジファル」で逆手に利用した、ホールに反響する遠い音と明確な近い音とのコントラストをはばむいかなる障害もここにはない。スタジオでのレコーディングは、マーラーの原典版演奏の時代を到来させた。マーラーの音楽が必要とするあの操作された音響空間、すなわちコンサートホールではつねにただ部分的に、しかも多大の犠牲を払ってからくも達成されるあの人工的な明確さを、スタジオでのレコーディングは難なく作り出す。フリッツ・ライナーもまた、その強い自我意識から敵を作りやすくもあった。シンシナティ交響楽団音楽監督在任中には、団員たちとライナーはことごとく対立した。音楽監督が絶大な権限を握っていた時代だったので、ライナーは楽団の管楽器奏者の全てを一挙に解雇したことすらあった。やがてシンシナティ響の団員たちはアメリカで初めての音楽家の労働組合を結成したが、これはライナーへの対抗策だった。このように楽団員と激しく対立していた為、ライナーがシンシナティ響を退任する際に開かれたフェアウェルパーティーには楽団員は誰一人として参加しなかった。若きレナード・バーンスタインは指揮の修行のためにきちんとした師につくことを希望して、指揮者ディミトリ・ミトロプーロスの勧めによってカーティス音楽院のライナーのクラスに入ることを志願した。後年バーンスタインはライナーの指導について次のように述懐している。ライナーは専制的で残酷、辛辣、無慈悲だったけれども、それは、何が問題かを理解していない相手に対してだけだった。彼の指導は、まったく信じられないような要求水準の高さを持っていたが、しかし彼は自分自身に求める以上のことを学生に求めることは決してやらなかった。彼は、演奏する曲を完全に知らない限り、オーケストラの前に出てはいけないということを教えてくれた。こうしたことでもライナーは敵を作りやすく、彼自身も政治力にもめぐまれていなかった。ライナーは長年、一流オーケストラの音楽監督への就任を希望していたが、それも65歳のシカゴ交響楽団音楽監督就任の時までかなえられることがなかった。RIAAがステレオLPの規格統一をするのは1958年2月になってからで、これを受けて各社一斉にステレオLPのシリーズを発売。※コメントがあれば補足をして加筆します。
20世紀オーケストラ演奏芸術の一つの極点を築き上げた巨匠フリッツ・ライナー(1888〜1963)は、エルネスト・アンセルメ(1883〜1969)、オットー・クレンペラー(1885〜1973)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)、エーリヒ・クライバー(1890〜1956)、シャルル・ミュンシュ(1891〜1968)らと同世代にあたる名指揮者のなかで、19世紀の名残りであるロマンティックな陶酔よりも、20世紀の主潮である音楽の客観的再現に奉仕した音楽家です。ブダペスト音楽院でバルトークらに作曲、ピアノ、打楽器を学び、1909年にブダペストで指揮デビュー。第一次世界大戦以前から、ブダペスト歌劇場(1911〜1914)、ザクセン宮廷歌劇場(ドレスデン国立オペラ)(1914〜1921)を経て、1922年に渡米しシンシナティ交響楽団(1922〜1931)、ピッツバーグ交響楽団(1938〜1948)の音楽監督を歴任。その後メトロポリタン歌劇場の指揮者(1949〜1953)を経て、1953年9月にシカゴ交響楽団の音楽監督に就任し、危機に瀕していたこのオーケストラを再建、黄金時代を築き上げました。その後、1962年まで音楽監督。1962/1963年のシーズンは「ミュージカル・アドヴァイザー」を務める。ライナー着任時のシカゴ響には、すでにアドルフ・ハーセス(トランペット)、アーノルド・ジェイコブス(チューバ)、フィリップ・ファーカス(ホルン)、バート・ガスキンス(ピッコロ)、クラーク・ブロディ(クラリネット)、レナード・シャロー(ファゴット)といった管楽器の名手が揃っており、ライナーはボルティモアからオーボエのレイ・スティルを引き抜いて管を固め、またメトロポリタン歌劇場時代から信頼を置いていたチェロのヤーノシュ・シュタルケル、コンサートマスターにはヴィクター・アイタイという同郷の名手を入団させて、「ライナー体制」を築き上げています。このライナーとシカゴ響は、ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団、ユージン・オーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団などと並び、20世紀オーケストラ演奏芸術の極点を築きあげたのです。
フリッツ・ライナー(Fritz Reiner 1888.12.19〜1963.11.15)は、ブダペスト生まれ。生地のリスト音楽アカデミーで学び、卒業後ブダペスト・フォルクスオーパーの楽団員となった。ここで声楽コーチを兼任した彼は1909年にビゼー「カルメン」を指揮してデビュー。翌年ライバッハ(現リュブリャーナ)の歌劇場に移り、翌1911年ブダペストに戻りフォルクスオーパーの指揮者となり、1914年にはワーグナー「パルジファル」のハンガリー初演を行う。1914年からはドレスデン国立歌劇場の指揮者として活躍。ヨーロッパ各地に客演した。1922年米国に渡ってシンシナティ交響楽団の常任指揮者となり、この楽団の水準を高めたが、厳しいトレーニングと妥協を許さない方針への反発から1931年に辞任。同年カーティス音楽院の教授に就任。1936年にオットー・クレンペラーの後任としてピッツバーグ交響楽団の音楽監督となり、このオーケストラをアメリカ屈指の水準に高めた。1948年からはメトロポリタン歌劇場の指揮者を務め、1953年にラファエル・クーベリックの後任としてシカゴ交響楽団の音楽監督に迎えられた。ここでも彼の厳格なトレーニングと妥協しない頑固さは様々な対立を産み出したが、確かにこの時代にシカゴ響は世界最高水準の実力を持つ黄金時代を迎えたのである。同時にヨーロッパでも活躍。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも密接な関係を保った。先ずバルトークが代表的な名演奏。弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽。管弦楽のための協奏曲はオーケストラの力量も相まって古典的な名盤(1955,1958年)。ドレスデン国立歌劇場時代以来最も得意としたリヒャルト・シュトラウスは「ツァラトゥストラはかく語りき」(1954,1962年)、「英雄の生涯」(1954年)、「ドン・ファン」(1954,1960年)などがある。ベートーヴェンの交響曲は第2番のみ録音しなかったが、厳格で直截な力のある表現が快い。他のムソルグスキー「展覧会の絵」(1957年)、ドヴォルザーク「新世界より」(1957年)、レスピーギ「ローマの松、ローマの噴水」(1959年)などがあった。オーケストラの小品にも引き締まった演奏が多い。オペラ録音はメトロポリタン歌劇場時代の「カルメン」のみなのが長く歌劇場で活躍したライナーだけに惜しい。同曲も独特の厳密な音楽作りがユニークである。晩年にウィーン・フィルと録音したアルバムはいずれも円熟した芸風。シカゴ響の緻密さとは違った柔軟さがあった。ブラームス「ハンガリー舞曲」&ドヴォルザーク「スラブ舞曲」(1960年)、ヴェルディ「レクイエム」(1960年)、リヒャルト・シュトラウス「死と変容」&「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(1956年)などがある。
  • Record Karte
  • 1958年12月6,8日シカゴ、オーケストラ・ホール(3トラック録音)
  • GB RCA  SB2081 フリッツ・ライナー マーラー・交響曲4番
  • GB RCA  SB2081 フリッツ・ライナー マーラー・交響曲4番
マーラー:交響曲第4番ト長調 [xrcd]
フリッツ・ライナー
日本ビクター
2002-04-25

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