34-5190
商品番号 34-5190

通販レコード→英ダーク・レッド銀文字盤
クリップスとの阿吽の呼吸からうまれた名演 ― 不滅のリビング・ステレオ。ピアニスト、ルービンシュタインの十八番の一つ、ブラームス「協奏曲第2番」はステレオ黄金時代の名盤。重めのタッチでロマンティックの極み。1956年12月に集中的に行われたルービンシュタインにとって、はじめてとなったベートーヴェンの協奏曲全曲録音は、かけがえない出会いとなります。とても60歳代後半とは思えないルービンシュタインの煌びやかで溌剌とした演奏はヨーゼフ・クリップスの好サポートを得て、喜びに満ちた演奏でした。このベートーヴェンの成功からルービンシュタイン、クリップスの親交が深まり、その後のブラームス、モーツァルト、シューマンへと録音が実現しました。ブラームスには必ずしも強靭なタッチが必要ではなく、細かい音符にまでアクセントを付けること、きめるべきところできめること、ハイセンスなロマンティシズムを追求することによってすばらしい音楽を再生できる。ブラームスの「協奏曲第2番」は、ピアノ協奏曲としては異例の4楽章制、40分を超える長大なる作品なのに意外と親しみやすい旋律の連続で長丁場を飽きさせません。本盤はベートーヴェンの録音から2年後、1958年に録音されたものですが、70歳も目前にしながらも難曲をいとも簡単に弾きこなし、そして音楽的成熟していったルービンシュタインの演奏にはただただ脱帽ですが、それはクリップスとの阿吽の呼吸からうまれるものだと再認識される録音です。ルービンシュタインが行くところはどこでも演奏会場は超満員の聴衆で埋め尽くされ、演奏が終わると熱狂的な多くのファンたちが 楽屋裏に殺到して一言話したりサインを求めました。 ルービンシュタインは非常に社交的で誰とでも親しく話せる各方面の幅広い知識とユーモアと話術を持っていたようで、そして何より彼自身、人と話すのが何よりも好きな人でした。そしてリサイタルの時には演奏を始める前に舞台に出て聴衆の中の特定の人の顔を目に焼き付けて、その人に語るような意識をもって演奏したそうです。
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アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887〜1982)はポーランドのユダヤ人家庭に生まれ、1898年にベルリンでデビューした。ヨーロッパで長く活動した後、第二次大戦前にアメリカへ渡り世界的な名声を得た。祖国愛、政治的亡命、アメリカでの成功と、いかにもアメリカ人が喜びそうなサクセス・ストーリーが見え隠れしている。彼の祖国への愛に嘘偽りがあるとは思わないが、どうもプロモーション上、そういうイメージが作られていたような気がする。1940年代に結成した「百万ドルトリオ」も然り。ルービンシュタインは、この呼び名を嫌ったらしい。ハイフェッツとピアティゴルスキーのコンビとは袂を分かちている。ルービンシュタインほど数多くのリサイタルを開いたピアニストはいないとも言われ、超過密スケジュールのリサイタルをこなすその体力に皆が一様に驚嘆していたそうで、 ルービンシュタインは聴衆の前でピアノを弾くことを心の底から楽しんでいました。「演奏会を開くのがどんなにつらい仕事か」と誰かが口にしたとき、「演奏会を開くことは仕事ではありませんね。それは喜びですよ。ピアノに向かって座り、美しい音楽を弾く。これほど楽しいことが他にありますか?」とルービンシュタインはきっぱりと言ったそうです。ルービンシュタインは怠惰を勤勉に置き換えることによって、現存のもっとも賞賛される芸術家となった。「怠惰」から「勤勉」に切り替わるきっかけとなったのがアニエラ・ムリナルスカとの素晴らしい出会い、結婚、 そして幸福な家庭に恵まれたことでした。そして多くの聴衆の心をつかみ、世界中の多くの人たちとの交流を大切にし、彼らを愛しました。そして聴衆は皆、ルービンシュタインを愛していました。当時73歳のルービンシュタインが、ロンドンで〈モーツァルトのピアノ協奏曲第17、20、23番〉を録音した時のこと。ルービンシュタインは、彼の弾く全ての音が自分の聴衆に聴こえなくてはならない、とカルショーに何度も言っていた。カルショーにはその意味がよくわからなかったが、セッションが始まるとすぐに理解した。初めから終わりまで、情け容赦もないほど強大にピアノを響かせたい、ということだと。ルービンシュタインが指名した指揮者のクリップスは、ルービンシュタインの要望どおり、オーケストラの音をできるだけ小さくして演奏し、ルービンシュタインは逆に雷鳴のごとくピアノが響くように大きな音量で弾いた。バランスエンジニアは対応不可能。その頃はピアノとオーケストラを2つのトラックに直接録音していたので、バランス調整ができなかったのだ。この録音セッションを委託したRCAも、このルービンシュタインのフォルティシモへの情熱に耐えてきたらしく、この録音を聴いた結果、モーツァルトの協奏曲を発売するより費用を無駄にすることを選ぶ、とカルショーに伝えてきた。実際に、その録音は公開されていない。
「僕がルービンシュタインを何故嫌いかというと姿勢が良いわけ。」ということは上半身の力が全部鍵盤にかかるわけ。すると、もう割れんばかりの強い音が出るけれども、汚い音になる ― 坂本龍一がグレン・グールドの演奏から聴こえ出るピアノの音と姿勢の関係を語るところで、引き合いに出されている。20世紀のアメリカが求めたショーマンシップもシンボリックすぎるほど見事だった世紀の巨匠、アルトゥール・ルービンシュタイン。1935年の初来日の後、 2度目に彼がやって来たのは1966年6月、すでに79歳の高齢であったが、その舞台のなんという素晴らしさだったことだろう。演奏も舞台姿も円熟の極み、風格豊かで一切の無駄と虚飾を取り去った音楽の本質がそこにあった。しかも、どんなに枯れていても若い頃の道楽者には艶福の名残りがあった。「私は40歳までは女ばっかりだった」とルービンシュタインは指揮者の岩城宏之に語ったそうだが、まあ話半分としても求道者よりはプレイボーイ的な演奏であることは確かだ。しかし、そうした遊びを芸の肥やしにして壮年から老年にかけてのルービンシュタインの深まり方は只事でなく、ほとんど奇蹟のような出来事であった。SP時代はもちろんだがモノーラル時代、そしてステレオ時代に入ってからも、その初期の頃のルービンシュタインには大味なイメージが強い。そんなアメリカの外面的なヴィルトゥオーゾが、70歳代も半ばを超えてから急速に円熟への道を歩み始めた。若い頃は放蕩と道楽の限りを尽くし、60歳代に至るまで効果を狙うだけのピアノを弾いていた最も人間臭い人間ルービンシュタインが、やっとその脂ぎった演奏に抑制を効かせ過度に華やかだったタッチを是正した結果が、ピアノを弾くのが楽しくてたまらない。という風情で、まさに人生の達人の姿がそこにあった。いかなる激しい演奏場面においても背骨がピンと伸びきって、身体のあらゆる部分に無駄な動きが全くないのには驚かされる。そんなルービンシュタインの演奏にはいやらしさが寸毫も感じられない。それは歌舞伎の名優が舞台上で大見得を切っても、演技が少しも下品にならないのと似ている。華のあるステージであり、華麗な音楽創りをしているのに思わせ振りがない。1世紀に一人か二人しか出現しない、この人はまことに「大名人」としか表現しようのない音楽家であった。しかも、世紀の巨匠は人懐っこい人柄であった。怪人プロデューサーの自宅アパートで深夜、部下の事業部長が打ち合わせをやっていたら、ガサゴソと音がして食堂の大型冷蔵庫の扉が開いた。手に何か食べ物と飲み物を抱えてベッドルームへ去ろうとしている小柄な男がいた。斯くも「大名人」は気兼ねない人物だった。
1958年4月4日ニューヨーク、マンハッタン・センターでのステレオ録音。
GB RCA RB16185 ルービンシュタイン ブラームス・ピアノ…