GB RCA LDS6159 ハイフェッツ&ピアティゴルスキー&プリムローズ&ペナリオ 室内楽曲集
通販レコード→英レッド・ラベル銀文字盤 RED SEAL - LIVING STEREO

GB RCA LDS6159 ハイフェッツ&ピアティゴルスキー&プリムローズ&ペナリオ 室内楽曲集

商品番号 34-20000

最円熟期のハイフェッツとピアティゴルスキーが交わす厳しくも親密な室内楽の対話。 ― 名ヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツは1961年から1974年まで、盟友のチェリスト、グレゴール・ピアティゴルスキーと共にハリウッドを中心に室内楽演奏を定期的に行いました。「ハイフェッツ&ピアティゴルスキー・コンサート」と銘打たれたこのシリーズは、ハイフェッツとピアティゴルスキーをキー・メンバーにしながら、その盟友だったウィリアム・プリムローズ、バージニア・マジュースキー(ヴィオラ)、イスラエル・ベイカー、アーノルド・ベルニック、ジョゼフ・ステッパンスキー(ヴァイオリン)、ガーボル・レイト(チェロ)、レナード・ペナリオ(ピアノ)ら、アメリカで活躍していた名手が集い、米国最大手のレコード・レーベル、LIVING STEREO を持つラジオ放送局の企画として、さまざまな組み合わせで室内楽の幅広いレパートリーを取り上げたもので、しかも比較的珍しい作品を多く紹介していました。その演奏会のシリーズと並行して米 RCA に録音が行われ、この二人の巨匠を中心とする充実した室内楽演奏が米 RCA のリビング・ステレオ時代の優れたアナログ録音で残されたのでした。20世紀ヴァイオリン演奏史に巨大な足跡を残したヤッシャ・ハイフェッツ(1901〜1987)。幸運なことに彼の最円熟期はちょうど米 RCA がステレオ録音を実現させた1950年代~60年代と重なり、当時としては最新鋭の技術と機材によって、ハイフェッツの貴重な演奏が鮮明なステレオ録音として残されることになりました。本盤は1961年録音の3枚組。収録曲は、メンデルスゾーン・弦楽八重奏曲変ホ長調 Op.20、フランク・ピアノ五重奏曲ヘ短調、シューベルト・弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956, Op.163(1961年11月30日&12月1日ハリウッド、RCAスタジオ2録音)、ブラームス・弦楽六重奏曲第2番ト長調 Op.36(1961年8月28&29日ハリウッド、RCAスタジオ録音)、モーツァルト・弦楽五重奏曲第4番ト短調 K.516。プロデューサー・Peter Dellheim、録音エンジニア・Dave Hassinger、1962年発売。
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フィギュアスケートの定番曲として聴く機会が多いピアニスト、レナード・ペナリオはハリウッド系のオーケストラや野外コンサートへの出演も多く、アディンセルのワルソーコンチェルトのような作品もうまいし、さらにはジャズ風な自作の曲も大いに楽しめる。20世紀前半の覇者がホロヴィッツとルービンシュタインの時代を受けて、20世紀後半にバイロン・ジャニスとレナード・ペナリオの時代を迎えるのも期待できたろう。アメリカでの評価はかなり高いと聞くし、室内楽でもハイフェッツらとの共演盤がある。第2次世界大戦中は米国空軍に配属され音楽活動を一時中断、航空部隊に従軍し中国、ビルマ、インドを転戦する。この間にピアニストとしての力量が知られ慰問団に加わって奉仕演奏を行ない1943年11月17日、アルトゥール・ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団との共演でリストの《ピアノ協奏曲 第1番》を演奏して公式デビューした。ラフマニノフの《ピアノ協奏曲 第2番》の録音は、ジョーン・フォンテイン主役の映画『旅愁』に利用されている。自作では、映画『影なき恐怖( Julie, 1956年)』の挿入音楽《真夜中の断崖 Midnight on the Cliffs 》が知られている。晩年になって急に日本でホルへ・ボレ(ボレット)が有名になった例もあったが、メディアの取り上げられ方や宣伝によっては、わが国でももっと大スター的なピアニストになれたはずで残念だ。その当時のレコード芸術での評が、一言で言えば「通俗的で安っぽいピアノ」というものであった。そのまま現代、インターネット上でも「通俗的」を“アメリカン”と短絡してしまって流布している。録音を聴き、自己判定出来なくても史実としてラフマニノフの死後、最初に協奏曲のすべてを録音したピアニストでありアメリカでは絶大な人気があって、グラミー賞なども受賞している。こうした業績の大きいピアニストだが、また音楽に流れているヒューマンな温かみも特筆すべきものだ。
レコード鑑賞会で5月と6月にシリーズしたコルトー、ティボー、カザルスは俗にカザルス・トリオと呼ばれ親しまれている。「私の故郷、カタロニアの鳥はピース、ピースと啼くのです」と国連で訴えたチェロの巨匠、スペインのカザルスからトリオを抜けた。3人がすでにトップ演奏家であったことから出演料が高額で、レコードは当然世界中で売れた。6月例会で聴いたブラームスの二重協奏曲を1929年5月、スペインの歌劇場でのレコーディングしたのを最後に、コルトーに異を立てるようにカザルスは去り、ピエール・フルニエが代わりに参加することになった。1929年にベルリン高等音楽院の教授と成り、ベルリンを拠点に活躍。ヒンデミットやゴールドベルクと弦楽三重奏団を結成していたドイツ系チェリスト、フォイアーマンはナチスの台頭によりイギリスやアメリカでの活動を中心に据え、ルービンシュタインやハイフェッツと“100万ドル・トリオ”を結成した。そのフォイアーマンは同時代の演奏家達からの評価は軒並み高く、ハイフェッツは「100年に一人の才能」、ルービンシュタインは「全世代を通じて最も偉大なチェリスト」、カザルスは「フォイアーマンの早逝は音楽界にとって非常に惜しい損失」、シュタルケルは「自分にとってフォイアーマンは最高峰のチェリスト」、シャフランは「カザルスは神様だが、フォイアーマンはそれ以上だ」、ゼルキンは「フォイアーマンを語る時は姿勢を正さずにはいられない」という意味の事を各々語っている。しかし、SP時代、しかも戦時中に世を去ってしまった事、更には録音自体が少なかった事、彼亡き後、ロストロポーヴィチやヨーヨー・マら超絶的技巧のチェリストが次々と出現した事、デュ・プレが夭折の天才のイメージを一身に集める様に成った事などの要因が重なり、今ではフォイアーマンというと、名前は知っているけれど録音を聴いた事はないという伝説でのみ語られる存在に成って来ている。特にハイフェッツとルービンシュタインという全く異なる音楽性を具えた大家二人の競演は独特の緊張感を孕んでいる。この水と油とも言える2人の大家を中和し、アンサンブルの要の役割を果たしているのがフォイアーマンだった。このフォイアーマンが1942年5月、腹膜炎で急死。奇しくもこの年、アメリカ市民権を取得したピアティゴルスキーが参加した。前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍したアルトゥール・ルービンシュタイン( Arthur Rubinstein, 1887.1.28〜1982.12.20 )は、ハイフェッツとは作品の解釈や、どちらの名が先にレコードのジャケットに表記されるべきかをめぐって常に揉め、1950年を境に2度と共演は行わなかった。そこで“100万ドル・トリオ”と評判だったピアノ三重奏団のピアニストとして「ハイフェッツ&ピアティゴルスキー・コンサート」と銘打ったテレビ番組で演奏を行う。極め付けは《メンデルスゾーン・弦楽八重奏曲変ホ長調 Op.20(1961年8月24&25日ハリウッド、RCAスタジオ録音)》。完璧な技巧のハイフェッツの迷いの一切ない判断に名人達が一体となって守り立て、熱い音楽の情感が炸裂爆走する。正に典型的なハイフエッツ節が奏でられ、随所で音楽は大きな奔流となる。この曲の、これほど完璧な演奏はない。
ハイフェッツは優れた技巧を駆使し早いテンポで明確流麗に音楽を弾き込んでいく人だった。過剰な程にかけられるヴィブラートやポルタメントは柔な感傷性を排した機械人形といえる精緻な音色を表現していく。デビューのレコードを聴いたクライスラーの発言通りで、それは生涯変わることなかった。同時期、ルービンシュタインと袂を分かちた後のハイフェッツの音楽は、技巧に走り音楽の心に欠ける等と日本のレコード批評界は軽視して、14年続いたシリーズを無視しようとした。弦楽四重奏曲の全集をコンプリートしようとしている録音シリーズでもなく、サロンで演奏されることを機会にするアットホームな室内楽演奏を、この室内楽録音シリーズはハイフェッツの音楽を室内楽の分野で追求したものだと気がつくであろう。ハイフェッツが、その強力なテクニックを駆使して早いテンポで、ぐいぐい弾いて行く様はあまりにも明快で、ピアティゴルスキーにプリムローズといった名人が脇を固め、完全に音楽に嵌った感じで完璧なアンサンブルのもと一体となって燃え上がり激走する。これらの室内楽の演奏は他のものとは一線を画した隔絶した世界を見せてくれる。室内楽の分野でのそういう演奏は、曰く、技巧や音ばかり磨かれて、曲の深い精神性が無視されている、優雅な面が軽んじられている、と戸惑ったのだろうか。否、彼らがドイツ・オーストリア系でない奏者であることも手伝って、評論の指標がなかったからではないか。個人個人の思考や、作品の精神性を解くことが室内楽曲の批評には多かった。確かに、本盤の《モーツァルト・弦楽五重奏曲第4番ト短調 K.516(1961年8月29&30日 ハリウッド、RCAスタジオ2録音)》を聴けば、そういう反応もあり得るかという感じである。4番はモーツァルトのト短調の音楽、“悲しみが疾駆する”なんて段階ではなく、悲しみが激烈さで迫って来る。全てが手中に収まっているというべき音楽は、技巧優先で細かな情感が無視され、早いテンポで明確な流れで進められるので、殊更に歌や情感は誇張されることはない。しかし、荒っぽい雑な演奏ではない。メロディは、触れればスパっと切り口が開き透明な赤い血が滲み出てくるような感じがすることもありで、免疫がなければ切れていることに気が付かないでいるところがある。従来の他の演奏に慣れ親しんだ者には、彼らの演奏には違和感はあるだろう。
本盤では、《フランク・ピアノ五重奏曲ヘ短調》で共演(1961年8月21&22日ハリウッド、RCAスタジオ録音)。ペナリオとルービンシュタインは、どうやら師弟関係ではなさそうだが音楽の作りが似ている。1958年では、ワルター・ギーゼキングと並んで最もレコードが売れるピアニストであった。エーリヒ・ラインスドルフやウラジミール・ゴルシュマン、小澤征爾、アンドレ・プレヴィンらとの共演で協奏曲の録音を残してきた。60枚以上のLPを遺しているが、そのほとんどがショパン以降の作品である。同時代の音楽では、ラフマニノフ、バルトーク、ガーシュウィン、プロコフィエフ、ロージャを得意とした。また、ゴットシャルクの擁護者としても知られていた。また、ミクローシュ・ロージャにピアノ協奏曲を書いて貰い、ズービン・メータ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニックとの共演でその初演を行なった。また室内楽では一転して協調性を発揮し、他の独演者より控えめに振舞う傾向から、1960年代初頭にヤッシャ・ハイフェッツならびにグレゴール・ピアティゴルスキーに共演相手として好まれてピアノ三重奏団として演奏を行う。そのうちの一つは1962年にグラミー賞を獲得した。ルービンシュタインと似た音楽性を持ち、テクニックは勿論申し分なし。しかも初見が利くピアニストを招いてのレコード会社肝いりの「ハイフェッツ&ピアティゴルスキー・コンサート」にペナリオは持って来い。2018年には没後10年を数えるが、1990年代に演奏活動・録音活動から引退していたペナリオ( Leonard Pennario, 1924.7.9〜2008.6.27 )は、アメリカが未来を信じて疑わなかった一番前向きだった頃に活躍したピアニストだ。どの演奏も華やかだが手堅い感じで過不足はないもの。奇をてらわずに、いかにも「華麗なるピアノ」といった風情。しかし、どの曲も「違和感なく普通に弾ける」ということに、どれだけの底力が必要とされるかを知るべきである。12歳でグリーグの《ピアノ協奏曲》をダラス交響楽団と共演し、神童として名を馳せた。当初予定されていたピアニストが病気になったため、かねてよりペナリオ少年のピアノ演奏に注目していたユージン・グーセンスの推薦によって、本人がこの作品が分かると明言したこともあり独奏者に抜擢されたのだった。実際にはそれまでペナリオはこの曲を聴いたことも弾いたこともなかったが、わずか1週間で覚えてしまったという。努力で希望を実現してしまうアメリカン・ドリームの一つだ。
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