若さに溢れた2人の演奏家の気概がぶつかりあった爽快なまでの名演。 ― ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、グレゴール・ピアティゴルスキー=シャルル・ミュンシュの次世代の名演としてRCAの代表盤となったもの。米RCAがロンドン交響楽団で録音した意欲的なセッションは、グラミー賞ノミネートしました。合衆国期待の新進チェロ奏者リン・ハーレルはドヴォルザークのチェロ・コンチェルトという話題盤で、わが国にデビューしたが経歴については詳しいことは伝えられていなかった。ジュリアード音楽院でレナート・ローズに師事し、チェロを学んでいた青年が、ガンで父を失い、その2年後に自動車事故で母を失います。ハレルは、両親の死と折り合いをつけるまでには長い時間がかかりました。しかし彼はこれまでに、人間の魂の持つ弾力というものは尋常ではないことに気づかされました。その後18歳になるまで、彼は親戚や友人の家をスーツケース一つとチェロを持って転々としていました。そして、ロバート・ショウとローズの推薦によりクリーヴランド管弦楽団のオーディションを受けた青年は生活のためにその職についたのでした。若くしてクリーヴランド管の首席奏者となっただけでなく、ローズの遺産の愛器を譲られた、というエピソードもまた、彼の実力を示していると思います。だが、その才能がどれほどのものであるかという点については、受賞歴などを列するまでもなく、わずか21歳の若さでクリーヴランド管弦楽団の首席奏者におさまったという事実を引き合いに出すだけで十分だろう。二流、三流のオーケストラならともかく、疑いなく世界屈指のクリーヴランド管の主席である。しかも当時の常任指揮者は、あのジョージ・セルである。四半世紀にわたる彼の指導の下で、このオーケストラが稀にみる充実ぶりを示していた頃の話だ。オーケストラに職を得ることにより生活の安定を得た青年は、ソリストとしての華やかな生活に少なからず憧れを持ち、オーケストラで演奏することに飽きてしまいます。すると、厳格で知られるセルは若いチェロ奏者を呼び、こんな話をするのです。
セルは、私がブラームスの第2の第1楽章の第2主題を好きかどうか訊きました。で、私は好きだと答えました。するとセルはブラームスの3番の第3楽章の最初を好きかどうかと訊きました。私はまた好きだと答えました。するとセルはこう言いました。「まあ、なんだ、わかるだろう、自分一人ではそういうのを弾くことはできんのだよ。そういうメロディはたくさんの人間で弾くことを想定されて作曲されてるんだ」その後、オーケストラの曲をどうやって練習したら、チェロのセクション全体のようには弾けないために不満を感じていらいらしたりすることがないようにできるかということを話し合いました。セルは、こういうものは音楽史上の至宝であるということ、自分が曲全体の中の統合されてかつ重要な一部であると感じることができなければならないこと、そして私がそう感じない限り不満を感じないようにはならないこと、を語りました。それで私は彼の部屋から晴れやかな顔で出てきました。なんてすばらしいことだ、オーケストラの中で演奏できてそれを本当に楽しめるなんて!と思ったものです。ここには、コンクールを経て有名になり、ソリストとして活躍するのではない、師匠ローズと同様にオーケストラの一員として働きながら経験を積み、音楽を円熟させて行く生き方が示されているように思います。
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たとえば強弱の差を最大化するとか、ビブラートによる音色の変化を強調するとかで、たくさんの人々が一緒に弾いている時にかき消されてしまう側面を強調する練習をすれば良いと、ジョージ・セルは言っているのです。セルは非常に知的な音楽家だったようです。彼の目標は、クリーブランド管弦楽団をアルトゥーロ・トスカニーニと共に存在したNBC交響楽団の線でより押し進めることでした。このようにオーケストラの首席奏者を経て独奏家に進むのは、チェリストとしては珍しいことではない。グレゴール・ピアティゴルスキー、ダニール・シャフラン、ヤーノシュ・シュタルケルらの顛末がそうだし、リン・ハーレル自身がジュリアード音楽院で師事したというレナード・ローズもまた同様であった。ローズはオーケストラ音楽を通じて、またトスカニーニ、ディミトリ・ミトロプーロス、ブルーノ・ワルターなどの偉大な指揮者の下で演奏することで音楽家として訓練され形作られたチェリストの一人でした。ローズは、この部分のチェロの音質はチャイコフスキーのあからさまなロマンティシズムよりもマーラーの壮麗さであるべきだ、などとオーケストラの曲の一節と比較し、関連づけることができました。だから、ローズの生徒でいるときはオーケストラのレパートリーについて知っていることはとても重要だったのです。これは、チェロ奏者がピアニストやヴァイオリニストと比べて比較的地味な存在であることを物語っているが、ハーレルの場合は、特にリーダーがセルであっただけに、1971年にこのオーケストラを退団して、ソリストとしての道を歩き始めた。メトロポリタン歌劇場で一緒に仕事をしたことがあったハレルの父親を、セルは偉大な音楽家だと思っていたので、父親に対する尊敬の念からハレルに目をかけていたのです。セルの没後、翌1971年に彼はクリーヴランドを離れ、ニューヨークでリサイタルを開きますが、お客の入りはさっぱりで、しばらくは鳴かず飛ばずの状態でした。この時に手を差し延べたのが、クリーヴランド管で同僚だった指揮者ジェームズ・レヴァインです。ドヴォルザークの協奏曲も立派な演奏であり、本盤は若い彼らの友情の産物でもありましょう。レヴァインとハーレルとは、ハーレルがセルのもとでクリーヴランド管の首席チェロ奏者だった時代に、レヴァインが同団で副指揮者をつとめていたころからの旧知の中。協奏曲と室内楽でたびたび共演し、アメリカRCAにはLPレコードにして5枚分の録音を残しています。リン・ハレルにはイギリスDECCAでの録音、レヴァインも後にヨー・ヨー・マと共演したりドイツ・グラモフォンでのドヴォルザークは定盤とされています。それはドヴォルザークが、個性で勝負する音楽であると言えるからでしょう。しかし本盤は、数多のコンクールを勝ち抜いた強者が演奏するのではない、ハーレルの繊細で透明なチェロの音色。それに後年のこまやかな音楽を紡ぐようになったレヴァインとはまた違った豪快な音楽で、まだ聴いていないのなら必聴の録音です。
本盤は若い彼らの友情の産物でもあり、このアンサンブルの中に若さが漲っている。そして、独奏家として立ってからは、賞や奨励金を受けたほかに、シンシナティ大学のマスター・クラスでチェロを教えている。その上、アメリカばかりでなく、ヨーロッパの幾つかのオーケストラとも共演している。いわばアメリカのチェロ界の大きなホープであった。このジェームズ・レヴァインは、シンシナティの出身で、幼少からピアノを学び、10歳の時に早くもシンシナティ交響楽団とピアニストとして共演している。その後にジュリアード音楽院でピアノと指揮法の勉強をつづけ、それからクリーヴランド管弦楽団でジョージ・セルの下に6年間指揮の実地の研修を行った。 アメリカ音楽界の「ドン・ジミー」、レヴァインの初録音は1972年のイギリスEMIへのヴェルディ・歌劇『ジョヴァンナ・ダルコ』全曲盤(ロンドン交響楽団)ですが、レコード界でその手腕が高く評価されたのは、翌1973年8月録音のニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのヴェルディ・歌劇『シチリア島の夕べの祈り』全曲盤で、これがアメリカRCAへの初録音でした。それ以後、各地の交響楽団を指揮し、やがてシンシナティ5月祭とシカゴ交響楽団の夏期の行事のラヴィニア音楽祭の音楽監督、メトロポリタン・オペラの指揮者に就任したのがちょうど1973年のことで、その後、1975年のイギリス・ロイヤル・オペラおよびザルツブルク音楽祭デビュー、1976年のメトロポリタン・オペラの音楽監督就任、1982年のバイロイト音楽祭デビューなど、RCAにおける10年間はちょうどレヴァインが新進の若手音楽家から、ズービン・メータ、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティらと並んで、欧米で最も活躍する人気指揮者へと成長した時期に当たります。もちろん指揮者としてのほかに、ピアニストとして、特に室内楽のピアニストとしても、積極的な姿勢を見せている。1976年のラヴィニア音楽祭で演奏して高く評価され、同じ年の12月にニューヨークで一気に録音されたベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲で知られるように、リン・ハーレルとレヴァインによる二重奏は、極めて息のよく合ったものである。
1975年ロンドン録音。Engineer – Colin Moorfoot, Producer – Charles Gerhardt.
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