34-8858

商品番号 34-8858

通販レコード→英ブラック金文字盤

オーケストラとの一体感と手作りの感動 ― クラシック・レコードの中古オリジナル盤では、チェロ協奏曲やエニグマ変奏曲の人気が高いエルガーだが、威風堂々や、交響曲からのメロディーもテレビ番組で良く使われているので作曲家、曲名は知らずに親しんでいる機会が多い。20世紀初頭に発表されたこの交響曲は、英国が生んだ久々の交響曲の大作となった。そしてエルガーも満を持しての初交響曲で、その思い入れはとても大きく、交響曲第1番は、ほかの作曲家のそれと同じく、プレッシャーと不安、そして気負いのなかで完成され、結果、大成功を収めた。ハンス・リヒターはエルガーを世界中で「最も偉大な現代作曲家」とみなし、またアルトゥル・ニキシュも第1交響曲を「ベートーヴェンやブラームスの偉大な交響曲の模範と並び位置づけ」られるべき「第1級の傑作」と考えていた。イギリスでは17世紀中旬にピューリタン革命が起こり、競馬、賭博、売春、演劇、音楽も人間を堕落するものとし、教区教会のオルガンは破壊され、礼拝堂合唱団も解散させられてしまいました。多くのイギリスの作曲家たちは国外へ逃亡し、この時期のイギリス音楽は、急激な低迷期を迎えることになります。そうして約200年間封じられていた英国の待ち望んだ自国生まれの純正交響曲の第1番が、1908年に作曲されたのはエルガー51歳の気力充実期。交響曲第1番はエルガーの真骨頂、渋い曲調と流れるような美しい旋律が同居する、いかにもイギリス的という表現がぴったりの硬派の世界を展開する両端楽章に挟まった、第2・第3楽章は透明感のあるどこかはかなげな美しさを持っている。19世紀末を慕う、落日間近い大英帝国の「威厳」と「過去の栄光」が交錯する音楽パノラマ。第1交響曲とヴァイオリン協奏曲が成功を収めた後、第2交響曲とチェロ協奏曲は好意的に受け止められたが、以前のような激しい熱狂には欠けていた。人々の心には彼の音楽がエドワード朝と軌を一にするもの捉えられており、第一次世界大戦終了後には彼はもはや先進的、もしくは現代的な作曲家とみなされなかったのである。1920年代初頭になると、ロンドンでは第1交響曲でさえ3年のうちわずか1度しか演奏されなかった。その中で、ヘンリー・ウッドや若い指揮者のエイドリアン・ボールト、マルコム・サージェント、ジョン・バルビローリらはエルガーの音楽を擁護したが、世紀の半ば頃の録音カタログや演奏会のプログラムには彼の作品はあまり目立たなくなっていた。エルガーはレコード録音に初めて真剣に取り組んだ作曲家とされる。1914年(旧吹込み)以来、エルガーはレコーディング活動にも積極的であった。1925年に新しく開発されたマイクロフォンによる電気吹込みが導入されると、それまでに比べて遥かに正確な音の再現が可能となる。そこで彼はオラトリオ『ゲロンティアスの夢』の抜粋など自身の作品の主だったものを自ら指揮して非常に多く録音しており、演奏家としての活動も注目される。「名作曲家イコール名演奏家」ではないが、ことエドワード・エルガーに至っては彼自身が熱心にレコード録音として後進の指揮者に目的を遺した。世紀の後半に入ると、少なくともイギリスにおいてはエルガーの音楽に対する関心が再燃する。戦間期に禁欲志向の人々に目の敵とされた特徴は、異なる観点から眺められるようになった。1955年に録音目録として出版されていた『レコード・ガイド』は、エルガーのキャリアが頂点を迎えた時期のエドワード朝の背景について論じている。自慢げな自信、情動的な俗悪さ、素材の贅沢さ、無味乾燥な建築と高価ながらも醜悪なあらゆる装飾品に現れる無情な俗物根性。こうした大英帝国末期の特徴はエルガーの大規模作品に忠実に反映されており、大げさで、お涙頂戴的。イングランドのある一部意見を持つ ― 学究的で上流気取りの人々の感情を害していた。それが1966年に至る頃には、エルガー作品が映し出すのは絢爛、豪奢、血気盛んな生活が放つ最後の閃光であり、それらは第一次世界大戦によって多くが消し去られてしまったのだと、批評家のフランク・ハウズ(Frank Howes)は記している。イタリア人の父とフランス人の母のもと、ロンドンに生まれた〝サー・ジョン〟のスタイルは、その血筋もあってか、英国人指揮者の一般的なイメージとは大きく異なるものでした。そのアプローチの根幹を成すのは情熱的かつ情愛豊かなパーソナリティであり、ときに大胆なデフォルメも辞さずに思い切った表現を志向するその芸風は今も数多くのファンから愛されています。祖父も父もヴァイオリニストだったという音楽家一族ですが、ジョンはチェロを学び、チェリストとしてデビュー、オーケストラのほか、弦楽四重奏団でも活躍、やがて25歳のときには、自ら室内オーケストラを組織して指揮者に転向し、以後、表現に工夫を凝らした「バルビローリ・サウンド」を武器に、指揮者としての名声を確立、やがて30歳代半ばでアルトゥーロ・トスカニーニの後任としてニューヨーク・フィルハーモニック首席指揮者に就任するほどの活躍をみせることとなります。バルビローリがイギリスのPYEレーベルに行った一連のセッション・レコーディングは、最初期のステレオということもあって、粗っぽいサウンドではありますが、明るい声で指示を出しているのがわかるような、演奏の生き生きとした様子が十分に伝わる迫力に富むものが多いのが特徴。バルビローリの音楽は、個性の溢れた濃厚な表情に特徴のあるロマンティックなもので、1962年のフィルハーモニア管弦楽団とのEMI録音と比べても、溌剌とした覇気は、指揮者もオーケストラもエルガーを演奏する喜びと情熱に溢れていて、それが時代を思わせない生々しい録音でもって、聴き手に率直に伝わってくる。
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〝良質なワインのように、年を経るにつれて芳醇な味わいを醸し出した指揮者〟と評されているように、サー・ジョン・バルビローリは多くの名指揮者を生み出したイギリスの最高の名匠である。生まれたのも没したのもロンドンだったが、祖父も父もイタリアのヴァイオリニストで、バルビローリが生まれた時、〝ジョヴァンニ・バッティスタ〟とイタリア風の名前が付けられたという。ロンドンの王立音楽院でチェロを学び、1916年にクイーンズ・ホール・オーケストラの最年少の楽員となり、翌年チェリストとして初のリサイタルも開いたが、19歳頃に指揮者に転身、ロンドンでオペラやコンサートを振りながら修練を積んで、1933年にスコティッシュ管弦楽団(現スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)の首席指揮者に就任した。1936年にニューヨーク・フィルハーモニックにデビュー。翌年に首席指揮者に就任したが、前任者がアルトゥーロ・トスカニーニであったためか楽員と肌合いが合わず、1943年に辞任してイギリスに戻った。同年マンチェスターのハレ管弦楽団に懇望されて首席指揮者となり、同オーケストラを飛躍的に成長させて名声を博し、1949年に〝サー〟に叙され、楽団からは終身指揮者の栄誉を贈られた(後の桂冠指揮者)。1968年に勇退後も同オーケストラとは親密な関係が続いた。この間の1961〜1968年にはヒューストン交響楽団の音楽監督も兼任して、アメリカでも絶大な信望を得た。バルビローリは典型的な大器晩成型で、40歳代終わり頃から魅力的な演奏を聴かせた。極めてヒューマンな人柄と、リハーサルのたびごとに「その音符を愛してください、愛がそこから湧き出るように」と楽員に呼びかけたという音楽への奉仕者の姿は、聴衆と楽員の双方から敬愛を浴びた。その第一の理由はイギリス近代の作曲家たちの作品に、しみじみとした味わいの名演を聴かせたことで、残された多くの名盤ではハレ管とのディーリアス『管弦楽曲集」(1968〜1970年)がまっさきに挙げられる。これも十八番にした北欧音楽では、やはりハレ管弦楽団とのシベリウスの交響曲全集(1966〜1970年)が代表作だが、絶対に聞き逃せないのがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのマーラーの交響曲第9番(1964年)。前年にベルリン・フィルに客演した際、感激した楽員の提案によって録音されたというエピソードで有名な、このマーラーにこそバルビローリの人と芸術の精華が結実しているとも言える。
ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli, 1899年12月2日〜1970年7月29日)は第二次世界大戦に従軍。「サー・ジョン」(Sir John)の愛称で知られる。1943年にハレ管弦楽団の音楽監督に就任するが、バルビローリが戦地から戻ると、オーケストラの楽団員は戦死したり、傷を負っていて演奏会どころではなかった。どれほどのオーケストラだったといえども指揮者だけでは何もならない。まずはオーケストラの立て直しからがバルビローリの仕事だった。しかし健全な男性奏者は集まりそうにない。空襲で荒廃した街に音楽を響かせるために、女性奏者を募ったり、バルビローリはオーケストラの再興に尽力しました。演奏会以外の時間はそういうことに費やし、一日は24時間じゃないとも頑張った指揮者でした。「一日16時間の仕事」、「一日1食も珍しくない」といった勤勉ぶりで、技量やアンサンブルは超一流とはいかないがバルビローリ自らが採用したメンバーを含む心あたたまるサウンドは、感興の豊かさ初々しさは段違い。洗練された表現ではないが手兵と好きなように音楽を作る喜びを感じさせる。アンサンブルも素人オーケストラのような雰囲気すらするが、胸をキュンとさせるような切ない表情と爆発を持つ。不思議な魅力。変わったことをやろうとする意志は皆無。ひとつひとつの旋律にかなり入魂で、いつもの「泣き」タップリ。少々クサい「間」とか「節回し」もあって、つくづく、〝ワタシ、この旋律が好きなんです〟という思いが伝わってくるから嬉しくなる。戦後間もない演奏で、演奏者の技量はまだまだながら音楽で復興を応援する気概に魅了される。整った演奏ではないし、荒っぽく感じるほどの熱い演奏ですけど、ここまでやってもらうとかえって爽快感がある。かなり個性的な演奏だとは思いますが、だから音楽は面白い訳です。また、バルビローリが演奏すると、なぜかカタチになるわけでこれぞ真の芸術家と呼ぶのだと思います。また、バルビローリは1950年代~1960年代半ばまで、PYEレコードに多くの演奏を残していますが、技術力のPYEと言われるほど会社であり、録音も優れています。
英PYEは大資本レーベルであるEMIやPHILIPSと違って、どちらかといえば独立系レーベルに近いような存在でした。傘下には本場のR&Bの普及に貢献したPYE INTERNATIONALレーベルなどがあります。元々はテレビやラジオの製造メーカーだったが、1953年にNixaレーベルを買収し事業参入、PYE Nixaに。マーキュリーやウェストミンスター等との共同製作で、1956年からステレオ録音を開始し、ステレオLPの開発も独自に行い、1958年4月にV/L ― 縦横2方向の振動で左右の信号を記録する方式を発表しますが、直後に45/45方式が標準規格として採用されると、いち早く取り入れ、メジャー・レーベルに先駆けて1958年6月にヨーロッパ初のステレオLPを発売した。ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団のベートーヴェン『交響曲1番&8番』(CSCL-70001)が、EMIに移行する前のPYE社でのレコードです。1959年からPYEを名乗る。EMI、Decca、英Philipsとともに英国4大レーベルで括られるが、大資本の他3社に比べると比較的小規模なレーベルだった。レーベル統括だけでなくPYEとしてザ・キンクスやドノヴァンらのレコードをリリース。また、コレクターに人気のプログレッシヴ・レーベルDawnを1969年に設立している。Golden Guineaは1960年代前半の廉価盤レーベルのようで、MARBLE ARCHの前身と想像される。他に初期のA&Mレコードなど、Pye Internationalのレーベルで発売されていた時期がある。ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」が大ヒットしたとき、イタリアのDURIUMレコードの発売元もイギリスではPYEでした。しかし、ステレオ装置が直ぐに普及しなかった事や、メジャー・レーベルとの競合、そして、1959年に入ると、ATV(アルファ・テレビ)に吸収され、本社の引っ越しやスタッフの入れ替えが行われる等、大きな変更があった為、最初のCSCL70000シリーズの発売は、あまり順調には行かず、確か50枚程で終了したといいます。ジャケット裏写真でご覧頂けるように、最初は何らステレオである事を強調していない、ごく簡素な体裁ですが、恐らくメジャー・レーベルのステレオLP発売が出揃った1958年秋以降は、何か目立った表示が必要になり、スタッフの多くが前に在籍していたEMIに倣って、独自のデザインでステレオのメタル・シールを作ったのかも知れません。国内盤は、日本ウェストミンスターから発売。
  • Record Karte
  • 1956年12月11、12日イギリス、マンチェスターの自由貿易ホールでのセッション録音。
  • GB 	PYE 	GSGC4052	バルビローリ 	エルガー・交響楽…
  • GB 	PYE 	GSGC4052	バルビローリ 	エルガー・交響楽…