34-9718

商品番号 34-9718

通販レコード→英ブラック金文字盤

浪花節だろうと、スタイル画一から個性を認めた ― 昨日の午後に、鶴屋百貨店で行った鑑賞会で聴いてもらった曲です。鑑賞会ではフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団の演奏を選びましたが、こちらも同じ時期に録音されました。鑑賞会で解説したことを折り込みますが、ここで一昨日紹介したベルリオーズの「幻想交響曲」に引き続いて録音された、ドビュッシーの交響詩「海」も、個性的にロマン色あふれた演奏で、最晩年のパリ管弦楽団と比べても演奏、録音ともはるかに上まわる。サー・ジョン・バルビローリの音楽は、濃厚な表情に特徴のあるロマンティックなもので、ロマン派や近代の作品を得意としており、フランス音楽でも個性豊かな演奏を聴かせていました。ベルリオーズもドビュッシーもラヴェルも気持ちを込め抜いた演奏で実に個性的。表情ひとつにもそれらしさを出そうとして、冒頭など妙にものものしく、リズムを刻んでいる各楽器の「合いの手」も少々無機的な方向へ傾きます。どことなく演歌調で、最後はクライマックスの後にみえを切るようなオチをつけるあたり、バルビローリらしい。クロード・モネの「印象、日の出」が「印象派」という呼称の元となった絵画作品ですよね、当時は「未完成の描きかけ」だとか「即席で仕上げた」なんて酷評されたそうですが、音楽の方は《海》にしろなんにしろ、ある瞬間の対象を、もっとも写実的に描いています。モネに文句を言うわけではないんだが、〝印象主義音楽〟がイコールにされがちなのはなんとかならんかね。ドビュッシーの音楽が、フランスの音楽であるというイメージから、優雅で上品な、ただ耳に心地よいお洒落な音楽だと思っている向きには市場に溢れている凡百の音譜を聴けばおおむね満足できるでしょう。ロマン派音楽に見られるような主観的表現を斥け、激しい情緒や物語性の描写よりも、気分や雰囲気の表現に比重を置いた印象主義音楽は、ドイツ後期ロマン派音楽への反動に始まり、中世西洋音楽・ルネサンス音楽などバロック以前の音楽様式の影響の下、長調と短調をぼかすような音楽語法、非機能的な和声法や完全音程の平行、旋法性、不協和音の多用、簡潔で明快な形式への偏愛などを特徴とする。ラヴェルは、ピアノ曲において「印象主義的な」作曲を始めたのは自分であって、ドビュッシーよりも先だったと語っている。しかしながら『水の戯れ』のように、印象主義の典型的な音楽語法を採る作品でも、新古典主義者としての面目は躍如たるものがあり、より自由な形式を好んだドビュッシーとの違いは明確である。印象主義の音楽とは、美学的に言うと、例えばドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』に見られるように、感情を表現しようとか物語を語ろうとかするのではなく、気分や雰囲気を喚起しようとするものであって、ドビュッシー自身は、印象派の画家たちとは何か違うことをしようとしているのだと言い、同時代のフランス美術よりも、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらの19世紀イギリス絵画や、ムソルグスキーやリムスキー=コルサコフのロシア音楽への共感を語り、象徴派と主張した。それを「印象派」時代の音楽として、どのドビュッシーでも印象主義的に解釈するのは自由なれど、ここで聴ける演奏は、張りつめた緊張感のなかで、シーン毎に揺れ動くテンポと、ときにまばゆいばかりの金管、ひなびた音色の木管楽器が多彩な色(カラー)を展開して、そこに微細なニュアンスがこめられている、というものです。イタリア人の父とフランス人の母のもと、ロンドンに生まれた〝サー・ジョン〟のスタイルは、その血筋もあってか、英国人指揮者の一般的なイメージとは大きく異なるものでした。そのアプローチの根幹を成すのは情熱的かつ情愛豊かなパーソナリティであり、ときに大胆なデフォルメも辞さずに思い切った表現を志向するその芸風は今も数多くのファンから愛されています。祖父も父もヴァイオリニストだったという音楽家一族ですが、ジョンはチェロを学び、チェリストとしてデビュー、オーケストラのほか、弦楽四重奏団でも活躍、やがて25歳のときには、自ら室内オーケストラを組織して指揮者に転向し、以後、表現に工夫を凝らした「バルビローリ・サウンド」を武器に、指揮者としての名声を確立、やがて30歳代半ばでアルトゥーロ・トスカニーニの後任としてニューヨーク・フィルハーモニック首席指揮者に就任するほどの活躍をみせることとなります。バルビローリがイギリスのパイ・レーベルにおこなった一連のセッション・レコーディングは、最初期のステレオということもあって、粗っぽいサウンドではありますが、明るい声で指示を出しているのがわかるような、演奏の生き生きとした様子が十分に伝わる迫力に富むものが多いのが特徴。ラヴェル、ドビュッシーは本盤が最高だ。ラヴェルはバルビローリ・マジックと呼びたいほどの幻想と興奮を味わえる。
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〝良質なワインのように、年を経るにつれて芳醇な味わいを醸し出した指揮者〟と評されているように、サー・ジョン・バルビローリは多くの名指揮者を生み出したイギリスの最高の名匠である。生まれたのも没したのもロンドンだったが、祖父も父もイタリアのヴァイオリニストで、バルビローリが生まれた時、〝ジョヴァンニ・バッティスタ〟とイタリア風の名前が付けられたという。ロンドンの王立音楽院でチェロを学び、1916年にクイーンズ・ホール・オーケストラの最年少の楽員となり、翌年チェリストとして初のリサイタルも開いたが、19歳頃に指揮者に転身、ロンドンでオペラやコンサートを振りながら修練を積んで、1933年にスコティッシュ管弦楽団(現スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)の首席指揮者に就任した。1936年にニューヨーク・フィルハーモニックにデビュー。翌年に首席指揮者に就任したが、前任者がアルトゥーロ・トスカニーニであったためか楽員と肌合いが合わず、1943年に辞任してイギリスに戻った。同年マンチェスターのハレ管弦楽団に懇望されて首席指揮者となり、同オーケストラを飛躍的に成長させて名声を博し、1949年に〝サー〟に叙され、楽団からは終身指揮者の栄誉を贈られた(後の桂冠指揮者)。1968年に勇退後も同オーケストラとは親密な関係が続いた。この間の1961〜1968年にはヒューストン交響楽団の音楽監督も兼任して、アメリカでも絶大な信望を得た。バルビローリは典型的な大器晩成型で、40歳代終わり頃から魅力的な演奏を聴かせた。極めてヒューマンな人柄と、リハーサルのたびごとに「その音符を愛してください、愛がそこから湧き出るように」と楽員に呼びかけたという音楽への奉仕者の姿は、聴衆と楽員の双方から敬愛を浴びた。その第一の理由はイギリス近代の作曲家たちの作品に、しみじみとした味わいの名演を聴かせたことで、残された多くの名盤ではハレ管とのディーリアス『管弦楽曲集」(1968〜1970年)がまっさきに挙げられる。これも十八番にした北欧音楽では、やはりハレ管弦楽団とのシベリウスの交響曲全集(1966〜1970年)が代表作だが、絶対に聞き逃せないのがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのマーラーの交響曲第9番(1964年)。前年にベルリン・フィルに客演した際、感激した楽員の提案によって録音されたというエピソードで有名な、このマーラーにこそバルビローリの人と芸術の精華が結実しているとも言える。
クロード・ドビュッシー(Claude Debussy)は1862年生まれ。1918年没。フランスの作曲家。印象主義音楽の創始者。ワグネリアンで、マラルメなど象徴派詩人たちと接していた。中世の旋法、5度7度の組み合わせ、全音音階等独創的な音色とリズムを獲得し、ロマン派音楽から脱却、新しい世界を切り開いた。ドビュッシーが活躍を始めた19世紀末にかけて、ヨーロッパではリヒャルト・ワーグナーが大流行していました。1861年にパリ・オペラ座で上演された歌劇『タンホイザー』は大変なスキャンダルを巻き起こし、公演は3回で打ち切られてしまった。パリのワーグナー・ブームはボードレールやマラルメら詩人たちによって推進されたのだが、一度聴くと耳について離れないワーグナー音楽は、当時の作曲家らの耳を支配した。巨大な管弦楽と強靭な歌声によって、観る者の感覚を根こそぎ奪い取っていくようなワーグナーのオペラに魅了される人々が数多くいたのです。ドビュッシーも、パリ音楽院在学中にワーグナーに傾倒し、楽劇『トリスタンとイゾルデ』のスコアを持ち、全3幕を暗譜で弾き語りすることができた。卒業後の1888年と1889年、2回にわたってワーグナーのオペラを観にバイロイト祝祭歌劇場を訪れています。けれども、このバイロイト行きを頂点として、ドビュッシーのワーグナー熱は次第に冷めていきました。彼は、「ワーグナーを越える」ためにはどうしたらいいのかを模索し、やがて独自の新しい音楽の世界を切りひらいていくのです。「ワーグナーをどうやって越えていくか」という問題は、そもそも、この時代の作曲家にとって共通の最大の問題でした。なぜなら、誰もが一度はワーグナーという巨大で圧倒的な存在に、魅了されるにしろ反発するにしろ、影響を受けないわけにはいかなかったからです。ドビュッシーは、ワーグナーの影響から抜けだし、新しい20世紀音楽への扉を開いたひとりといえます。代表作のひとつである交響詩《海》は、独自の和声や浮遊するリズムなどによって、まったく新しい音楽のすがたを示しています。ドビュッシーはここで、自分の内面に向かっていた眼差しを、外の世界に向けようとしました。とはいってもそれは、画家が風景を画面に忠実に写し取ろうとするように自然の風景を音によって描写する、というのとは少し違っています。ドビュッシーは、〝海〟という自然を足がかりとして、それを越えたところで自分の内側に湧き起こってくるイマジネーションを音楽にしようとしたのです。彼が描いた《海》は、実際にそこにある『海』ではなく、彼の記憶の底からすくい上げられ、想像力によって変形された見えない『海』なのです。
色彩は創り手や聴き手の外にあるものではない。心のうつろいや惑い、喜びと哀しみ。律動もまた、ひとの内側にある。心臓の鼓動、筋肉の躍動、言葉と思索のリズム。クロード・ドビュッシーは、人聞のすべての思いと感覚を解放し、それらがないまぜになったものを音響とリズムに託した。ドビュッシー音楽の本質は、ジャック・デュラン(1869年に作曲家のオーギュスト・デュランが創立したフランスを代表する名門楽譜出版社として広く知られているデュラン社の御曹司)に宛てた手紙の一節 「私はますます、音楽とは色彩と律動する時間であると確信するようになった」に要約されている。ドビュッシーの音楽は印象派の絵画と並べて語られることが多いが、実際には象徴主義の文学運動と深いかかわりをもっていた。ドビュッシーは象徴派の大詩人ステファヌ・マラルメの火曜会に出席した唯一人の音楽家だったし、『牧神の午後への前奏曲』をはじめ、シャルル=ピエール・ボードレールやポール・マリー・ヴェルレーヌ、アンリ・ド・レニエやピエール・ルイスたちのテキストによって多くの作品を書いた。かといって、彼ほど「音」と「言葉」の領域にこだわった作曲家はほかに少く。ドビュッシーのためにテキストを書き、何度も書きなおしを命じられたあげく、「音楽が乗らないから」という理由で一音も書いてもらえなかった詩人たちも多い。また、「私は仕事が遅いのです」というのがドビュッシーの口癖だった。唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』は上演までに9年、 管弦楽のための『映像』は7年かかっている。いっぽうで、ピアノのための不朽の名作『前奏曲集第1巻』はたった2か月で書いてしまっている。ドビュッシーを語る人が必ず口にすることに、彼の異様に突き出た額がある。レオン・ドーデに「インドシナの犬」のようだと言われたおでこ。そこには、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」全3幕が詰まっていて、ピアノで弾き語りすることができた。その腕前は、ショパンにピアノを習ったことがある非常にすぐれたピアノ教師だったモーテ・ド・フルールヴィル夫人に手ほどきされ、その記憶力で、ローマ留学中にフランツ・リストの演奏を目のあたりにしているドビュッシーは、2人のピアニズムを作曲語法に転換させ、新たな地平線を開いた。後年、モーテ夫人の指導、特にバッハやショパンについての教えは終生忘れず、手紙等でくり返し感謝の念を述べている。ショパンの音楽をこよなく愛した彼は、晩年には自らショパンの『練習曲集』の校訂にも携わるほどでした。彼は革新的な語法で20世紀音楽への扉を開いたが、その音づかいは、専売特許のような全音音階をはじめ、11や13の和音など、高次自然倍音列の中にほとんどそっくりおさまるという。つまり、耳に心地よいのである。彼の革命は、あくまでも聴覚的自然の範疇にとどまった。ワーグナーの影響から抜け出そうともがき、そのことによって優れた作品を生み出したドビュッシー。1989年夏に、パイロイトの祝祭歌劇場で舞台神聖祝典劇「パルジファル」や楽劇「トリスタンとイゾルデ」の上演に接したドビュッシーは、登場人物が舞台に出てくるたびに判で押したように奏される〝音楽の名刺〟を痛烈に批判した。とはいえ、脱ワーグナーをめざして書かれたオペラ『ペレアスとメリザンド』にもまた、控えめながら登場人物を象徴する ― ワーグナーの代名詞ともいうべき「ライトモティーフ」的なものは存在する。何によらず、同じものをくり返すことを嫌うドビュッシーは、モティーフが出てくるたびに少しずつリズムやハーモニーを変え、場面ごとの心理の変化を表現しようとしてはいるのだが。1907年に自作の楽劇「サロメ」初演のためにパリを訪れたリヒャルト・シュトラウスは、ロマン・ロランのお供でオペラ『ぺレアスとメリザンド』の舞台に接し、ある場面で「なんだ、「パルジファル」そっくりじゃないか!」とつぶやいたという。たぶん、第1幕の第2場に至る間奏曲の部分。パルジファルがアムフォルタス王の城に入城する場面転換の音楽によく似ている。斯くもワーグナーに反旗をひるがえしつつも、晩年のスタイルに至るまで、実はワーグナーの亡霊から逃れられなかった。フランス近代一の大作曲家にこんな苦労をさせるのだから、ワーグナーの威力はやはり強大だ。
ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli, 1899年12月2日〜1970年7月29日)は第二次世界大戦に従軍。「サー・ジョン」(Sir John)の愛称で知られる。1943年にハレ管弦楽団の音楽監督に就任するが、バルビローリが戦地から戻ると、オーケストラの楽団員は戦死したり、傷を負っていて演奏会どころではなかった。どれほどのオーケストラだったといえども指揮者だけでは何もならない。まずはオーケストラの立て直しからがバルビローリの仕事だった。しかし健全な男性奏者は集まりそうにない。空襲で荒廃した街に音楽を響かせるために、女性奏者を募ったり、バルビローリはオーケストラの再興に尽力しました。演奏会以外の時間はそういうことに費やし、一日は24時間じゃないとも頑張った指揮者でした。「一日16時間の仕事」、「一日1食も珍しくない」といった勤勉ぶりで、技量やアンサンブルは超一流とはいかないがバルビローリ自らが採用したメンバーを含む心あたたまるサウンドは、感興の豊かさ初々しさは段違い。洗練された表現ではないが手兵と好きなように音楽を作る喜びを感じさせる。アンサンブルも素人オーケストラのような雰囲気すらするが、胸をキュンとさせるような切ない表情と爆発を持つ。不思議な魅力。変わったことをやろうとする意志は皆無。ひとつひとつの旋律にかなり入魂で、いつもの「泣き」タップリ。少々クサい「間」とか「節回し」もあって、つくづく、〝ワタシ、この旋律が好きなんです〟という思いが伝わってくるから嬉しくなる。戦後間もない演奏で、演奏者の技量はまだまだながら音楽で復興を応援する気概に魅了される。整った演奏ではないし、荒っぽく感じるほどの熱い演奏ですけど、ここまでやってもらうとかえって爽快感がある。かなり個性的な演奏だとは思いますが、だから音楽は面白い訳です。また、バルビローリが演奏すると、なぜかカタチになるわけでこれぞ真の芸術家と呼ぶのだと思います。また、バルビローリは1950年代~1960年代半ばまで、PYEレコードに多くの演奏を残していますが、技術力のPYEと言われるほど会社であり、録音も優れています。
英PYEは大資本レーベルであるEMIやPHILIPSと違って、どちらかといえば独立系レーベルに近いような存在でした。傘下には本場のR&Bの普及に貢献したPYE INTERNATIONALレーベルなどがあります。元々はテレビやラジオの製造メーカーだったが、1953年にNixaレーベルを買収し事業参入、PYE Nixaに。マーキュリーやウェストミンスター等との共同製作で、1956年からステレオ録音を開始し、ステレオLPの開発も独自に行い、1958年4月にV/L ― 縦横2方向の振動で左右の信号を記録する方式を発表しますが、直後に45/45方式が標準規格として採用されると、いち早く取り入れ、メジャー・レーベルに先駆けて1958年6月にヨーロッパ初のステレオLPを発売した。ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団のベートーヴェン『交響曲1番&8番』(CSCL-70001)が、EMIに移行する前のPYE社でのレコードです。1959年からPYEを名乗る。EMI、Decca、英Philipsとともに英国4大レーベルで括られるが、大資本の他3社に比べると比較的小規模なレーベルだった。レーベル統括だけでなくPYEとしてザ・キンクスやドノヴァンらのレコードをリリース。また、コレクターに人気のプログレッシヴ・レーベルDawnを1969年に設立している。Golden Guineaは1960年代前半の廉価盤レーベルのようで、MARBLE ARCHの前身と想像される。他に初期のA&Mレコードなど、Pye Internationalのレーベルで発売されていた時期がある。ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」が大ヒットしたとき、イタリアのDURIUMレコードの発売元もイギリスではPYEでした。しかし、ステレオ装置が直ぐに普及しなかった事や、メジャー・レーベルとの競合、そして、1959年に入ると、ATV(アルファ・テレビ)に吸収され、本社の引っ越しやスタッフの入れ替えが行われる等、大きな変更があった為、最初のCSCL70000シリーズの発売は、あまり順調には行かず、確か50枚程で終了したといいます。ジャケット裏写真でご覧頂けるように、最初は何らステレオである事を強調していない、ごく簡素な体裁ですが、恐らくメジャー・レーベルのステレオLP発売が出揃った1958年秋以降は、何か目立った表示が必要になり、スタッフの多くが前に在籍していたEMIに倣って、独自のデザインでステレオのメタル・シールを作ったのかも知れません。国内盤は、日本ウェストミンスターから発売。
  • Record Karte
  • 1959年9月4、5日イギリス、マンチェスターの自由貿易ホールでのセッション録音。
  • GB  PYE  GSGC14010 バルビローリ  ドビュッシー・…
  • GB  PYE  GSGC14010 バルビローリ  ドビュッシー・…