34-7883

商品番号 34-7883

通販レコード→英ブラック金文字盤

情動的でロマンティックでおセンチ ― これほどまでに個性的にロマン色あふれた演奏は、作品解釈とは別腹に好きです。2019年の春先に、蓄音機の会で、先輩メンバーからどのくらいレコードを持ってらっしゃるか、と問われた。1年365日、理想としているのは300枚、セカンド・チョイスを加えて600枚にしたいけど、あれこれ、3,000枚以上はあるだろうか。となるのもこの作品、ベルリオーズの《幻想交響曲》だけでも、たくさん手許に存在することが判って戸惑う。小澤征爾のライヴが最初となったものだった。第4楽章「断頭台への行進」をSKYがロック・アレンジした、12インチ盤(March To The Scaffold, 1980年8月 Ariola)を聴いて以来機会あるごとに増えてきたものだ。その演奏では、早くからお気に入りは定まっているのですが、第5楽章で鳴らされる弔鐘に翻弄されている。オーディオ的にコレクションしておきたいもの、アカデミックの関心。「レリオ、あるいは生への復帰」と対になっているもので溢れている。「断頭台への行進」「ワルプルギス夜の夢」辺りがこの曲のクライマックス。チューブラー・ベルズを基本と聴いていたら、県立劇場での生演奏で、舞台上に鐘がないのに気がついた。キーボードを使って鐘の音を再生するというものだった。実在する教会の鐘の音の録音を演奏に重ねたレコード、演奏をモニターしながら実際の教会で鐘をついたレコードなど、録音技術のアイデアの対象になる話題が尽きない《幻想交響曲》です。スコアを紐解いてみると、このパートは「2 Campane in C.G. o Pianoforte」と記されており、ベルリオーズは「もしも、十分に低い音の2つの鐘を見つけることが出来なければ、舞台前面に置かれた複数のピアノを用いる方が良い。その場合は、鐘のパートを記譜のまま、1オクターブ下と2オクターブ下で演奏せよ」と脚注していて、チューブラー・ベルズは指定されていないが、演奏会場で鐘を使うことは容易ではなく、チューブラー・ベルズで代用されることが多い。十分に低い音を鳴らせない鐘よりはピアノの方が望ましいのであって、こんにち普通に使われているチューブラー・ベルズ、あるいはハイピッチの鐘の使用は、実は正しくないとなる。「葬礼」のシーンの「弔鐘」だが、これは「嘲笑」を音楽表現したものでもあるので、そういう邪心をもって響くべきだとも言えるし、むしろ厳粛に響くことによってこそ、かえって邪悪なパロディが効果的になるとも言える。ところから、中~低音域の鐘を使っているヘルベルト・フォン・カラヤン盤は、ベルリオーズの想定した音域・音量に最も近い、うえにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団的な響きが出来上がっている。
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音響に凝ったのは、レオポルト・ストコフスキ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団盤で、鐘とピアノを重ねている。スコアでは、いずれか一方を指示されているのにも関わらず、両方同時に使ってしまうあたりがストコフスキーらしい。実際、様々な意味で破天荒な演奏である。反面、アンドレ・クリュイタンス指揮フィルハーモニア管弦楽団のチューブラー・ベルズは、異常に遠く小さく。聴き過ごしてしまいそうな位だ。クスクス笑いのようで、大笑いにふくらんだところで、前景で暴れまくるオーケストラに辛うじてかき消されかねない。ピエール・モントゥー指揮サンフランシスコ交響楽団の演奏でも、チューブラー・ベルズは不感症のように単調に響くのみでありながら、とにかく圧倒的な名演奏で有り余る。《幻想交響曲》もサー・ジョン・バルビローリが演じれば、やはりきちんと〝サー・ジョンの幻想交響曲〟になっていますね。この演奏には感心しました。録音もそれほど良くないし、アンサンブルも素人オーケストラのような雰囲気すらするが、胸をキュンとさせるような切ない表情と爆発を持つ。不思議な魅力。ひとつひとつの旋律にかなり入魂で、いつもの「泣き」タップリ。少々クサい「間」とか「節回し」もあって、つくづく、〝ワタシ、この旋律が好きなんです〟という思いが伝わってくるから嬉しくなる。第1楽章から自然にダンスするような躍動感がある。感情が盛り上がり鎮まる後半ではどんどん弦が雄弁になる。ワルツでの強引なしゃくりあげやポルタメント。洗練された表現ではないが手兵と好きなように音楽を作る喜びを感じさせる。第3楽章も心の震えが伝わる。変わったことをやろうとする意志は皆無。しかし終楽章のエナジー放出は凄い。整った演奏ではないし、荒っぽく感じるほどの熱い演奏ですけど、ここまでやってもらうとかえって爽快感がある。かなり個性的な演奏だとは思いますが、だから音楽は面白い訳です。また、バルビローリが演奏すると、なぜかカタチになるわけでこれぞ真の芸術家と呼ぶのだと思います。また、バルビローリは1950年代~1960年代半ばまで、PYEレコードに多くの演奏を残していますが、技術力のPYEと言われるほど会社であり、録音も優れています。
ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli, 1899年12月2日〜1970年7月29日)は第二次世界大戦に従軍。「サー・ジョン」(Sir John)の愛称で知られる。1943年にハレ管弦楽団の音楽監督に就任するが、バルビローリが戦地から戻ると、オーケストラの楽団員は戦死したり、傷を負っていて演奏会どころではなかった。どれほどのオーケストラだったといえども指揮者だけでは何もならない。まずはオーケストラの立て直しからがバルビローリの仕事だった。しかし健全な男性奏者は集まりそうにない。空襲で荒廃した街に音楽を響かせるために、女性奏者を募ったり、バルビローリはオーケストラの再興に尽力しました。演奏会以外の時間はそういうことに費やし、一日は24時間じゃないとも頑張った指揮者でした。「一日16時間の仕事」、「一日1食も珍しくない」といった勤勉ぶりで、技量やアンサンブルは超一流とはいかないがバルビローリ自らが採用したメンバーを含む心あたたまるサウンドは、感興の豊かさ初々しさは段違い。戦後間もない演奏で、演奏者の技量はまだまだながら音楽で復興を応援する気概に魅了される。
〝良質なワインのように、年を経るにつれて芳醇な味わいを醸し出した指揮者〟と評されているように、サー・ジョン・バルビローリは多くの名指揮者を生み出したイギリスの最高の名匠である。生まれたのも没したのもロンドンだったが、祖父も父もイタリアのヴァイオリニストで、バルビローリが生まれた時、〝ジョヴァンニ・バッティスタ〟とイタリア風の名前が付けられたという。ロンドンの王立音楽院でチェロを学び、1916年にクイーンズ・ホール・オーケストラの最年少の楽員となり、翌年チェリストとして初のリサイタルも開いたが、19歳頃に指揮者に転身、ロンドンでオペラやコンサートを振りながら修練を積んで、1933年にスコティッシュ管弦楽団(現スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)の首席指揮者に就任した。1936年にニューヨーク・フィルハーモニックにデビュー。翌年に首席指揮者に就任したが、前任者がアルトゥーロ・トスカニーニであったためか楽員と肌合いが合わず、1943年に辞任してイギリスに戻った。同年マンチェスターのハレ管弦楽団に懇望されて首席指揮者となり、同オーケストラを飛躍的に成長させて名声を博し、1949年に〝サー〟に叙され、楽団からは終身指揮者の栄誉を贈られた(後の桂冠指揮者)。1968年に勇退後も同オーケストラとは親密な関係が続いた。この間の1961〜1968年にはヒューストン交響楽団の音楽監督も兼任して、アメリカでも絶大な信望を得た。バルビローリは典型的な大器晩成型で、40歳代終わり頃から魅力的な演奏を聴かせた。極めてヒューマンな人柄と、リハーサルのたびごとに「その音符を愛してください、愛がそこから湧き出るように」と楽員に呼びかけたという音楽への奉仕者の姿は、聴衆と楽員の双方から敬愛を浴びた。その第一の理由はイギリス近代の作曲家たちの作品に、しみじみとした味わいの名演を聴かせたことで、残された多くの名盤ではハレ管とのディーリアス『管弦楽曲集」(1968〜1970年)がまっさきに挙げられる。これも十八番にした北欧音楽では、やはりハレ管弦楽団とのシベリウスの交響曲全集(1966〜1970年)が代表作だが、絶対に聞き逃せないのがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのマーラーの交響曲第9番(1964年)。前年にベルリン・フィルに客演した際、感激した楽員の提案によって録音されたというエピソードで有名な、このマーラーにこそバルビローリの人と芸術の精華が結実しているとも言える。
英PYEは大資本レーベルであるEMIやPHILIPSと違って、どちらかといえば独立系レーベルに近いような存在でした。傘下には本場のR&Bの普及に貢献したPYE INTERNATIONALレーベルなどがあります。元々はテレビやラジオの製造メーカーだったが、1953年にNixaレーベルを買収し事業参入、PYE Nixaに。マーキュリーやウェストミンスター等との共同製作で、1956年からステレオ録音を開始し、ステレオLPの開発も独自に行い、1958年4月にV/L ― 縦横2方向の振動で左右の信号を記録する方式を発表しますが、直後に45/45方式が標準規格として採用されると、いち早く取り入れ、メジャー・レーベルに先駆けて1958年6月にヨーロッパ初のステレオLPを発売した。ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団のベートーヴェン『交響曲1番&8番』(CSCL-70001)が、EMIに移行する前のPYE社でのレコードです。1959年からPYEを名乗る。EMI、Decca、英Philipsとともに英国4大レーベルで括られるが、大資本の他3社に比べると比較的小規模なレーベルだった。レーベル統括だけでなくPYEとしてザ・キンクスやドノヴァンらのレコードをリリース。また、コレクターに人気のプログレッシヴ・レーベルDawnを1969年に設立している。Golden Guineaは1960年代前半の廉価盤レーベルのようで、MARBLE ARCHの前身と想像される。他に初期のA&Mレコードなど、Pye Internationalのレーベルで発売されていた時期がある。ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」が大ヒットしたとき、イタリアのDURIUMレコードの発売元もイギリスではPYEでした。しかし、ステレオ装置が直ぐに普及しなかった事や、メジャー・レーベルとの競合、そして、1959年に入ると、ATV(アルファ・テレビ)に吸収され、本社の引っ越しやスタッフの入れ替えが行われる等、大きな変更があった為、最初のCSCL70000シリーズの発売は、あまり順調には行かず、確か50枚程で終了したといいます。ジャケット裏写真でご覧頂けるように、最初は何らステレオである事を強調していない、ごく簡素な体裁ですが、恐らくメジャー・レーベルのステレオLP発売が出揃った1958年秋以降は、何か目立った表示が必要になり、スタッフの多くが前に在籍していたEMIに倣って、独自のデザインでステレオのメタル・シールを作ったのかも知れません。国内盤は、日本ウェストミンスターから発売。
  • Record Karte
  • 1959年9月2、3日イギリス、マンチェスターの自由貿易ホールでのセッション録音。
  • GB PYE GSGC14005 バルビローリ ベルリオーズ・幻想交…
  • GB PYE GSGC14005 バルビローリ ベルリオーズ・幻想交…
ジョン・バルビローリ
ジョン・バルビローリ
ICA CLASSICS
2013-09-25