GB EMI SXLP30196 オットー・クレンペラー メンデルスゾーン・真夏の夜の夢
商品番号 34-14697
通販レコード→英ブルー・スタンプ・ドッグ"HMV CONCERT CLASSICS"盤
クレンペラーの個性が十分に生かされた強靭な演奏。 ― 甘美なメロディ・メーカーのイメージが強いメンデルスゾーンと、剛直なイメージが付いて回る指揮者オットー・クレンペラーでといえば、この両者の組合わせは、一見、ミス・マッチとしか思えないのだが、これがどうして、クレンペラーの生涯のなかで一、二を競うベスト・レコーディングとなった。ここに聴くメンデルスゾーンは、決してモノゴトの表面にだけ心を動かされているマイナー・ポエットのような存在ではない。格調高く、スケールの大きな演奏はロマンに溢れている。それでいて遊びごころを忘れることなく、眩しいばかりに無垢な輝きを放っているのが素晴らしい。この演奏には、第2次世界大戦での経験を経たクラシック音楽演奏史にあって、20世紀半ばにおけるメンデルスゾーン解釈の最良の姿が記録されている。表紙はクレンペラーのしかめっ面なのだが、こんな表情で、このファンタジックな曲をなんとチャーミングに演奏してくれることか。晩年の彼のテンポは著しく遅かったが、そのテンポによってこそメンデルスゾーンのメロディーの数々が深く息づき、成功の原因となっているのだ。《序曲》における重厚で粘りのある語り口が、次第に内実を伴って深遠なる世界を形成している点はさすが。やはりこうしたクレンペラーのアプローチの方が、より味わい深い。語りを加えなかったのはクレンペラーの意向か、ウォルター・レッグの判断か。クレンペラーのメンデルスゾーンは、他の作曲家の作品に対する解釈同様、実に個性的でありながらロマンティック。彼特有の構築性に富んだ世界観に基づく演奏は、音楽そのものの質すらも引き上げてしまう。そうした巨匠風のアプローチにくらいついていく、フィルハーモニア管弦楽団の音色も煌びやかだ。「結婚行進曲」はいつ聴いても何となく照れくさいのだが、女性コーラスも入った「妖精の歌」など、彩りを添えられていていい気分である。それに続く世界の大きさも比類ない。《真夏の夜の夢》の音楽は、メンデルスゾーンの全作品を通じて、最も一般的な名作の一つです。数多い作曲家の中で、物心両面においてメンデルスゾーンほど幸福な生活を送ったひとは他に見当たりません。彼の父は、ドイツのハンブルクの富裕な銀行家でしたから、幼いときから良師について音楽を学び、その一生を、ほとんど経済的な苦しみを受けることなく過ごし、有り余る自分の才能を存分に伸ばすことが出来ました。不具の身に鞭打ちながら、暗く重い運命を背負いながら生活しなければならなかったベートーヴェンや、本貧のうちに寂しく死んでいったシューベルトの生涯を思うとき、メンデルスゾーンの生涯を〝幸福の権化〟といっても、敢えて言い過ぎではないでしょう。メンデルスゾーンの音楽が、他の作曲家に見られないほど、華麗で、優雅で、軽快で、爽快なのは、彼のそうした苦労のない生活感情の現れなのです。そこには、満ち足りた幸福の中に裏打ちする一抹の憂愁はあるにせよ、ベートーヴェンやチャイコフスキーの音楽に見られる、あの、のっぴきならない暗さや、思考的な暗さは微塵も伺えません。それというのも、彼が人生の明るい面のみを経験し、深刻なくらい面にはほとんど接したことがなかったからです。彼の、こうした音楽特性は、このレコードの《真夏の夜の夢》の音楽をお聞きになれば、すぐにお分かりになるでしょう。
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優美、華麗、明朗。史上もっともチャーミングな曲を書いたモーツァルトに近い位置にいながら、モーツァルトと決定的に違うのは、疑いを知らない屈託のなさであり、天性の幸福感だろう。モーツァルトの音楽を際立たせていた「美の内側に秘められた翳り」というものは、メンデルスゾーンの音楽にはない。内面的な美しさと外面的な美しさが、表裏なく一体となって、素直に表現されている。劇付随音楽「真夏の夜の夢」は、そんなメンデルスゾーンの特質が最も顕著に示された、彼の代表作である。この《真夏の夜の夢》は、ウィリアム・シェークスピアが、1595年頃に書いた5幕からなる喜劇で、幻想とユーモアの入り混じった実に愉快な劇です。若い頃から読書家として名高い、メンデルスゾーンがこの戯曲をシュレーゲル及びディークの独訳で読んだのは1826年 ― 17歳の頃で、姉のファニー・ヘンゼルとの演奏を前提に、彼は早速興の赴くままにピアノ連弾用の序曲を作曲し、のちにオーケストラに編曲しました。しかし、この時に作曲されたのは全13曲のうちの序曲だけで、後の12曲は、1843年(34歳)にプロシア国王フリードリッヒ・ウィルヘルム4世の命により作曲されたのでした。初演は、《序曲》だけが1840年「イギリス」、全13曲は、1843年の10月14日に国王の離宮ポツダムの新宮殿で行われました。劇の付随音楽というのは、劇の効果を高めるために作曲された音楽のことで、この《真夏の夜の夢》をはじめ、ビゼーの《アルルの女》、グリーグの《ペール・ギュント》などは、その代表的な作品です。劇は、アゼンスの森を舞台とした真夏の夜の物語です。尤も、この《真夏の夜 Mid Summer》というのは、日本でいう一番暑い盛りの《真夏》ではなく、ヨーロッパでは、1年中で最も昼の長い夏至(6月21日頃)の頃で、この夏至に近い聖ヨハネ祭の前夜に、幻想的ないろいろな怪異が起こるという伝説があるのです。また、劇中には「五月祭の花を摘もうとしてこの森に来たのだろう」という台詞もあることから、夏至よりもさらに前の季節であると推察される。ギリシャのアテネの近郊アゼンス森のシシアス公と、アマゾンの女王ヒポリタとは、熱烈な恋愛の末に結婚することになっています。それに刺激されてか、ライサンダーとハーミア、デメトリアスとのレナも恋愛ごっこに忙しく、妖精の王オベロンも、女王のティターニアにご執心、そこへ悪戯者のパックが登場して滑稽な悶着を引き起こすといった形で、もちろん、最後はめでたしめでたしで幕となります。
録音は、1831年に建てられ、1931年にEMIの前身のグラモフォン社によって録音用スタジオとして買収されたロンドンのアビーロード・スタジオ第1スタジオで行なわれました。スタジオながらもフル・オーケストラを収容でき、高い天井と適度な響きはクラシック音楽にも適しており、オットー・クレンペラーのEMI録音の多くもここで収録されており、録音会場の響きの特性を知り尽くしたEMIの録音スタッフによって、名手ぞろいのオーケストラからクレンペラーが引き出す独特の声部バランス、明晰な立体感が見事に捉えられています。1960年1月に録音されたメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」は、ペーター・マーク指揮ロンドン交響楽団の英デッカ盤などと並んでステレオ初期における同曲の名演中の名演として高く評価されています。1960年といえば、1958年秋にチューリヒの自宅で重篤な火傷を負ったクレンペラーが1959年秋から演奏活動に復帰し、また精神的にも「躁」の状態にあったため、極めて精力的な活動が展開された年でもありました。1959年までにすでにベートーヴェンとブラームスの交響曲全曲をフィルハーモニア管弦楽団と録音し終え、レコード面でもドイツの孤高の巨匠として圧倒的な評価を勝ち取っていたクレンペラーは、1960年の最初の半年だけで、「スコットランド」のほか同じメンデルスゾーンの「イタリア」と「スコットランド」、ハイドンの交響曲第101番と第98番、LP3枚分のワーグナー管弦楽曲集、リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲集、シューマンの交響曲第4番、モーツァルトのホルン協奏曲全曲を立て続けに録音し、さらに5月には75歳の誕生日を盛大に祝っただけでなく、ウィーン芸術週間にフィルハーモニア管と客演しベートーヴェンの交響曲全曲を演奏して、「真に正統的なベートーヴェン」と絶賛されています。いわば彼の晩年の輝きを告げる記念碑的な年であったのです。そうした心技両面における充実ぶりを反映した「真夏の夜の夢」は、十分な推進力を保ちつつ遅めのテンポ設定でメンデルスゾーンの音楽がスケール雄大に構築されていく演奏であり、対抗配置にした緻密な弦楽パートの絡み合いの美しさ ― 特に右から聴こえる第2ヴァイオリンの雄弁さ、音量が上がっても金管に掻き消されず冴え冴えと明滅する木管パートの響きが耳に残ります。全曲版より「メロドラマ」を割愛した、当録音での仰ぎ見るような巨大な造形はまさにクレンペラーの名調子といえるでしょう。
英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、ウォルター・レッグの信条は、アーティストを評価するときに基準となるようなレコードを作ること、彼の時代の最上の演奏=録音を数多く後世に残すことであったという。1954年に目をかけていたヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリンに去ると、すぐさま当時実力に見合ったポストに恵まれなかったオットー・クレンペラー(1885〜1973)に白羽の矢を立て、この巨匠による最良の演奏記録を残すことを開始した。レッグがEMIを去る1963年まで夥しい数の正に基準となるようなレコードがレッグ&クレンペラー・フィルハーモニアによって生み出された。本盤も基準盤の一枚で、レッグの意図する処がハッキリ聴き取れる快演。クレンペラーの解釈は揺るぎのないゆっくりしたテンポでスケールが大きい。ゆったりとしたテンポをとったのは、透徹した目でスコアを読み、一点一画を疎かにしないようにとも思いたくなる。この気迫の籠った快演は聴き手に感動を与えずにはおきません。一音一音が耳に突き刺さってきました。また何度聴いても飽きません。フィルハーモニア管は、まさにクレンペラーの為にレッグが作り出した楽器だと言う事、染み染みと感じました。オーケストラの配置が第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが指揮者の左右に配置される古いスタイルで、包み込まれるような感覚はステレオ録音で聴く場合には、やはり和音の動き等この配置の方が好ましい。何ものにも揺るがない安定感と、確かに古いスタイルながら純粋にスコアを再現した音が一杯詰まっている。フィルハーモニア管弦楽団=PHILHARMONIA ORCHESTRA LONDONは、英ロンドンを拠点とするオーケストラ。愛称は〝ザ・フィル〟。ドイツ・グラモフォンのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団や、DECCAのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団同様に、フィルハーモニア管といえばEMIのレーベルが同時に思い浮かぶほどに、この楽団の演奏は随分レコードあるいはCDで聴いてきた。1945年にEMI=当時の英コロンビアのプロデューサー、レッグが創設。レッグの主目的はやはりEMIのレコード録音のためのオーケストラを作ることにあった。設立当初から主にドイツ、イタリアから指揮者、独奏者を招いて盛んに活動した。優秀な演奏家の積極的な採用が効を奏し、例えば名ホルン奏者デニス・ブレインも創立当初から首席奏者を務めた。その後、リヒャルト・シュトラウス、カラヤン、アルトゥーロ・トスカニーニ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどの巨匠を指揮者に迎え、一躍ヨーロッパ楽壇で注目される。多くの録音を残したカラヤンと欧米各地に演奏旅行するほか、クレンペラー、リッカルド・ムーティ、ジュゼッペ・シノーポリが首席指揮者に就任。1997年にクリストフ・フォン・ドホナーニ、2008年にエサ=ペッカ・サロネンが首席指揮者に着き、創設以来の〝録音の多いオーケストラ〟の伝統を堅守。1996年以降、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールを本拠地として活躍している。
戦後、活動の場に窮したヘルベルト・フォン・カラヤンを英国に呼び、レコード録音で音楽活動が出来る場を用意したことで知られる。ウィーン国立歌劇場の指揮者だったカラヤンは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるムジークフェラインザールで英EMIのために、モーツァルトを録音していた。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの急逝でカラヤンは、ウィーン・フィルとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を手に入れるが、ウィーン・フィルが英DECCAと専属契約を結んでいたので、英EMIを去り、英DECCAの指揮者になる。カラヤンのレコーディング・オーケストラとしての印象は強いが、カラヤン中心になる前には英国のサー・トーマス・ビーチャムに始まり、ドイツのオットー・クレンペラー、フルトヴェングラー、カラヤンを、さらにイタリアからはアルトゥーロ・トスカニーニ、カルロ・マリア・ジュリーニ、そして夭折したグィド・カンテッリなどが指揮台に立った。カラヤンがベルリン・フィルに行き、カンテッリが急死したこともあって、オットー・クレンペラーが浮上する。彼との関係は、1959年の常任指揮者就任から始まり、亡くなる1973年まで14年間続くことになる。〝録音の多いオーケストラ〟の伝統は今も続いており、多い時は年間にセッション数250回にも及ぶこともある。これは色んな音楽、様々な指揮者の下で一定水準以上の演奏が可能になる実力を有することによってはじめて実現するものであって、ただ即応性があるだけでなくその裏には〝高い演奏技術〟と〝柔軟性〟が存する現れであるともいえる。オーケストラの呼称は2度にわたり変更される。1964年に資金不足によりウォルター・レッグが手放して英EMIの専属が切れると、イギリスの自主運営となりニュー・フィルハーモニア管弦楽団に変更、その間例の幻の来日に終わったジョン・バルビローリとの万博公演時も〝ニュー〟の呼称であった。のち、1972年からリッカルド・ムーティが常任につき、5年後にもとの〝フィルハーモニア管弦楽団〟に戻している。そのため、アナログレコードとCDでの、オーケストラ名の表記は混乱を感じる。英COLUMBIAでレコード発売していた頃は、「フィルハーモニア・オーケストラ、ロンドン」を名乗っていたことで、トーマス・ビーチャムが創設した「ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団」と間違われているケースがある。〝フィルハーモニア管弦楽団〟に戻ったムーティの後は、ジュゼッペ・シノーポリが首席指揮者となり、1990年はシノーポリ、2007年はエリアフ・インバル指揮により、「マーラー・チクルス」東京公演を行う。1997年クリストフ・フォン・ドホナーニが首席指揮者に就任。2008年からはエサ=ペッカ・サロネンが首席指揮者およびアーティスティック・アドヴァイザー。サロネンはヘルシンキ生まれの指揮者、作曲家。絶え間ない革新によって、クラシック音楽界において最も重要な芸術家の一人とみなされている。iPadのアプリを開発、Apple社のCMに楽曲が使用されるなど先進的な試みも注目される。デジタル技術を使った教育や聴衆の開拓などにも先鞭をつける。現在はサロネンの他に、終身名誉指揮者にドホナーニ、桂冠指揮者にウラディミール・アシュケナージという陣容となっている。
1960年1月、2月録音。Engineer – Howard Davidson, Producer – Walter Jellinek, Walter Legge.
YIGZYCN
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