GB EMI SLS940/3 ジョン・バルビローリ ヴェルディ・オテロ(全曲)
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GB EMI SLS940/3 ジョン・バルビローリ ヴェルディ・オテロ(全曲)

商品番号 34-14119

《ヴェルディ作品に於いてはオーケストラは単なる伴奏ではない。 ― 当時に類のないミスキャストと思えそうな異色の取り合わせ。バルビローリが求めた声ではないか。》 イタリア人歌手が歌っていない、イタリア人が登場しない、イタリア大ロマン歌劇最大の名作。バルビローリが求めた声で叶えた、バルビローリの理想のオテロ。ジュゼッペ・ヴェルディはイタリア歌劇最大の作曲家。パルマ地方のロンコーレという寒村の小さな宿屋の息子として生まれ、15歳で作曲をはじめ、18歳の時すすめられてミラノ音楽学校の給費生を受験したが、年齢が多すぎたため落第し、スカラ座のチェンバリストのラヴィナから作曲とピアノそれにソルフェージュを学んだ。26歳のときスカラ座で上演された最初の歌劇「オベルト」を皮切りに25曲の歌劇を書いた。最初はなかなか認められず、彼の名声が確立したのは、33歳に書いた「リゴレット」、40歳の「トロヴァトーレ」と「椿姫」などが相次いで発表されてからである。彼は大器晩成型で、それからさらに49歳で「運命の力」、54歳で「ドン・カルロ」、58歳で「アイーダ」、73歳で「オテロ」そしてなんと79歳で「ファルスタッフ」を完成している。実は、ヴェルディは、『アイーダ』でオペラの作曲を引退すると決めていました。『仮面舞踏会』の初演(1859年)から2年が経過し、ヴェルディは作曲をまるで忘れたかのようであった。新たに創設されたイタリア国会において彼はボルゴ・サン・ドンニーノ ― 今日のフィデンツァ ― 代表の議員であったし、またサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の農園に各種の近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた。しかし、まさにその農園改造計画への資金の必要も一因となり、折しも、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場のために新作オペラを作曲してもらえないだろうか、という打診がもたらされた。そこで『運命の力』は着手され、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて1862年11月10日に初演された。しかし、それは『運命の力』序曲として今日人気のある序曲を書き足しもした改定版が、ミラノ・スカラ座にて初演(1869年2月27日)されるまで7年を要する。その改訂を推敲している最中にパリ・オペラ座の依頼により『ドン・カルロ』を作曲、初演されるがこれが失敗。起死回生の3か月後のロンドン初演、半年後のイタリア初演は成功したが、ヴェルディのプライドは痛んだだろう。このオペラが現代上演される第6版までには初演から20年の歳月がかかっている。『アイーダ』は、『オテロ』以前に、スエズ運河落成の記念に書かれた曲です。『運命の力』の改訂初演(1869年)の後、1869年11月のスエズ運河開通の祝賀事業の一環として、エジプトの総督イスマーイール・パシャはカイロにオペラ劇場(「イタリア劇場」とも)を開場したが、その開場式典の祝賀音楽の作曲を依頼してきた。喜歌劇を作曲しようと台本探しに熱中していたこともあり「機会用の音楽」は苦手と断り、結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『リゴレット』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころかエジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて行ってきたのである。これが「アイーダ」であり、1871年12月24日、カイロのカイロ劇場にて初演され、大成功だったが、今回ヴェルディの作曲は順調だったものの、しかし、1870年7月に勃発した普仏戦争が予期せぬ混乱をもたらした。1871年に『アイーダ』の初演をみてから、ヴェルディは1874年に文豪マンゾーニを追悼する『レクイエム』を完成させたのみで、活動が停滞していた。新作が万が一にでも不成功に終わることがあれば晩節を汚す、とヴェルディが題材選択にこれまで以上に慎重になっていた面も大きかったのだろう。ヴェルディはもうお金を稼ぐ必要もなく、疲労しきっていたのです。『オテロ』は、編集者リコルディと、ヴェルディの友人が、ヴェルディに再びシェークスピアの作品でオペラを作曲するよう勧めたと言われています。ヴェルディは悩みましたが、台本作家のアッリーゴ・ボーイトの協力を得て、最後には友人たちの提案を受け入れることにしました。ヴェルディの新たな創作、それもシェイクスピアの「オセロ」のオペラ化で慎重に作曲は進んだ。当時は大作曲家の周辺にはスパイが横行していたので、アイデアを横取りされないようにコードネーム『チョコレート』(後日追記完成します)アメリカのテノール歌手ジェームズ・マクラッケン(James McCracken 1925-1988)が歌っています。バルビローリが戦地から戻ると、オーケストラの楽団員は戦死したり、傷を負っていて演奏会どころではなかった。空襲で荒廃した街に音楽を響かせるために、女性奏者を募ったり、ジョン・バルビローリはオーケストラの再興に尽力しました。演奏会以外の時間はそういうことに費やし、一日は24時間じゃないとも頑張った指揮者でした。“良質なワインのように、年を経るにつれて芳醇な味わいを醸し出した指揮者”と評されるいうに、バルビローリは多くの名指揮者を生み出したイギリスの最高の名匠である。生まれたのも没したのもロンドンだったが、祖父も父もイタリアのヴァイオリニストで、バルビローリが生まれた時、“ジョヴァンニ・バッティスタ”とイタリア風の名前が付けられたという。ロンドンの王立音楽院でチェロを学び、1916年にクイーンズ・ホール・オーケストラの最年少の楽員となり、翌年チェリストとして初のリサイタルも開いたが、19歳頃に指揮者に転身、ロンドンでオペラやコンサートを振りながら修練を積んで、33年にスコティッシュ管弦楽団(現スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)の首席指揮者に就任した。36年にニューヨーク・フィルにデビュー。翌年に首席指揮者に就任したが、前任者がトスカニーニであったためか楽員と肌合いが合わず、43年に辞任してイギリスに戻った。同年マンチェスターのハレ管弦楽団に懇望されて首席指揮者となり、同オーケストラを飛躍的に成長させて名声を博し、49年に“サー”に叙され、楽団からは終身指揮者の栄誉を贈られた(後の桂冠指揮者)。68年に勇退後も同オーケストラとは親密な関係が続いた。この間の61〜68年にはヒューストン交響楽団の音楽監督も兼任して、アメリカでも絶大な信望を得た。バルビローリは典型的な大器晩成型で、40歳代終わり頃から魅力的な演奏を聴かせた。極めてヒューマンな人柄と、リハーサルのたびごとに「その音符を愛してください、愛がそこから湧き出るように」と楽員に呼びかけたという音楽への奉仕者の姿は、聴衆と楽員の双方から敬愛を浴びた。その第一の理由はイギリス近代の作曲家たちの作品に、しみじみとした味わいの名演を聴かせたことで、残された多くの名盤ではハレ管弦楽団とのディーリアス『管弦楽曲集」(68〜70年)がまっさきに挙げられる。これも十八番にした北欧音楽では、やはりハレ管弦楽団とのシベリウスの交響曲全集(66〜70年)が代表作だが、絶対に聞き逃せないのがベルリン・フィルとのマーラーの交響曲第9番(64年)。前年にベルリン・フィルに客演した際、感激した楽員の提案によって録音されたというエピソードで有名な、このマーラーにこそバルビローリの人と芸術の精華が結実しているとも言える。1968年8、10、11月 ロンドン Abbey Road No.1 Studio 録音。
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