GB EMI SLS821 オットー・クレンペラー エリーザベト・シュヴァルツコップ ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ クリスタ・ルートヴィヒ フィルハーモニア管弦楽団 ブラームス「ドイツ・レクイエム」
商品番号 34-23647
通販レコード→英白黒切手盤
クレンペラーの磨き抜かれた目が、ひたすらブラームスを凝視しているのではと思えてならない。 ― オットー・クレンペラーは他の多くのドイツ系指揮者同様、オペラ指揮者として様々な歌劇場で指揮をしている。そして、欧米の音楽家が演奏を解釈する時に宗教の有り様は大きいと思われる。クレンペラーは声楽大作も得意にしていましたが、そのアプローチは交響曲のときと基本的に同じで、晩年のものなどではときに肺が心配になるような演奏も行っていました。多くの指揮者がこの素晴らしい名曲を1つの音の〝塊り〟として聴き手にぶつけてくるのに対して、クレンペラーは違う。あたかも作品をまず微分して見せてくれて、それを改めて積分(組み立て)して見せてくれている。この「ドイツ・レクィエム」ではテンポはまっとうであり、各フレーズへの厳格な対応、形の維持によって、フーガの見事な捌き方、及び拍節感の強い抽出は印象的な演奏に仕上がっており、全体構成のシンメトリーなど様式美も感じられ、ブラームスらしいシリアスな感触に満ちているのがポイントとなっています。遠くでひっそりと鳴らされ殆ど聞き取れていなかったような音までが、一音一音を大切に丁寧に奏され、それらを積み重ねて私たちに届けてくれる。それは感傷を排した無愛想ながら、そこはかとなく湧き上がってくる温かみには感銘させられる。〝ドイツ・レクイエム Ein deutsches Requiem〟と誰が名付けたか知りませんが、クレンペラーの磨き抜かれた目が、ひたすらブラームスを凝視しているのではと思えてならなくて、レクイエムとクレンペラーのイメージが重なり合って仕方ありません。ユダヤ人であることでブルーノ・ワルターは命からがら渡米している。一方、クレンペラーはユダヤ教から改宗している。そのことを問われて「いやいや、私たちには子供が二人います。アメリカで俳優をしているブルーノと、ここにいるロッテです」と言葉を濁しているので、カトリック教を選んだ本位はわからない。しかし、祖国イスラエルへの想いは強かったことも伝わっている。この「ドイツ・レクイエム」のタイトルには第2次世界大戦中には意味合いが変わったのだろうが、ブラームスが母親の死を悼んで作曲したラテン語の鎮魂歌の歌詞を借りた私的な思慕の想いで生まれた名曲。葬儀のための音楽ではなく、死、喪失感といったことよりも再生を予兆させる、どこか慰めに満ちた音楽です。ここでクレンペラーは、その歌詞に重ねて「死は勝利にのまれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」と戦争や紛争の虚しさを説いていると感じられてならない。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」とともに、その真の姿を現した「ドイツ・レクイエム」。重厚にして速めのテンポという、この時期のクレンペラーの奇跡の前に言葉なし。この時代はモノラルテイクとステレオテイクでの録音が同時進行していました。モノラルはダグラス・ラター、ステレオはクリストファー・パーカーと違うプロデューサーが其々担当していました。本盤は「ドイツ・レクイエム」に、クレンペラーが得意としたブラームスの管弦楽曲「悲劇的序曲」、「アルト・ラプソディ」を収録したお得なセット。収録会場はすべてロンドンのキングズウェイ・ホールです。クレンペラーの代表的な作品、「ドイツ・レクィエム」は当然良いのですが、クリスタ・ルートヴィヒのほの暗い美声が映える「アルト・ラプソディ」は聴きものです。
- 「ドイツ・レクイエム」エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ラルフ・ダウンズ(オルガン)。1961年1月2日、3月21、23、25日、4月26日ロンドン、キングズウェイ・ホール録音、名演、名盤。
- 「アルト・ラプソディ」クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)。1962年3月21、23日ロンドン、キングズウェイ・ホール録音、名演、名盤。
- 「悲劇的序曲」1957年3月ロンドン、キングズウェイ・ホール録音。
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英EMIの偉大なレコード・プロデューサー ウォルター・レッグの信条は、アーティストを評価するときに基準となるようなレコードを作ること、彼の時代の最上の演奏=録音を数多く後世に残すことであったという。1954年に目をかけていたヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリンに去ると、すぐさま当時実力に見合ったポストに恵まれなかったオットー・クレンペラーに白羽の矢を立て、この巨匠による最良の演奏記録を残すことを開始した。レッグがEMIを去る1963年まで夥しい数の正に基準となるようなレコードがレッグ&クレンペラー・フィルハーモニアによって生み出された。本盤も基準盤の一枚で、レッグの意図する処がハッキリ聴き取れる快演。クレンペラーの解釈は揺るぎのないゆっくりしたテンポでスケールが大きい。ゆったりとしたテンポをとったのは、透徹した目でスコアを読み、一点一画を疎かにしないようにとも思いたくなる。この気迫の籠った快演は聴き手に感動を与えずにはおきません。一音一音が耳に突き刺さってきました。また何度聴いても飽きません。フィルハーモニア管は、まさにクレンペラーの為にレッグが作り出した楽器だと言う事、染み染みと感じました。オーケストラの配置が第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが指揮者の左右に配置される古いスタイルで、包み込まれるような感覚はステレオ録音で聴く場合には、やはり和音の動き等この配置の方が好ましい。何ものにも揺るがない安定感と、確かに古いスタイルながら純粋にスコアを再現した音が一杯詰まっている。フィルハーモニア管弦楽団=PHILHARMONIA ORCHESTRA LONDONは、英ロンドンを拠点とするオーケストラ。愛称は〝ザ・フィル〟。ドイツ・グラモフォンのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団や、DECCAのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団同様に、フィルハーモニア管といえばEMIのレーベルが同時に思い浮かぶほどに、この楽団の演奏は随分レコードあるいはCDで聴いてきた。1945年にEMI=当時の英コロンビアのプロデューサーだった、レッグが私財を投じて楽団員を組織して創設した。レッグの主目的はやはりEMIのレコード録音のためのオーケストラを作ることにあった。設立当初から主にドイツ、イタリアから指揮者、独奏者を招いて盛んに活動した。優秀な演奏家の積極的な採用が効を奏し、例えば名ホルン奏者デニス・ブレインも創立当初から首席奏者を務めた。その後、リヒャルト・シュトラウス、カラヤン、アルトゥーロ・トスカニーニ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどの巨匠を指揮者に迎え、一躍ヨーロッパ楽壇で注目される。多くの録音を残したカラヤンと欧米各地に演奏旅行するほか、クレンペラー、リッカルド・ムーティ、ジュゼッペ・シノーポリが首席指揮者に就任。1997年にクリストフ・フォン・ドホナーニ、2008年にエサ=ペッカ・サロネンが首席指揮者に着き、創設以来の〝録音の多いオーケストラ〟の伝統を堅守。1996年以降、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールを本拠地として活躍している。
戦後、活動の場に窮したヘルベルト・フォン・カラヤンを英国に呼び、レコード録音で音楽活動が出来る場を用意したことで知られる。ウィーン国立歌劇場の指揮者だったカラヤンは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるムジークフェラインザールで英EMIのために、モーツァルトを録音していた。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの急逝でカラヤンは、ウィーン・フィルとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を手に入れるが、ウィーン・フィルが英DECCAと専属契約を結んでいたので、英EMIを去り、英DECCAの指揮者になる。カラヤンのレコーディング・オーケストラとしての印象は強いが、カラヤン中心になる前には英国のサー・トーマス・ビーチャムに始まり、ドイツのオットー・クレンペラー、フルトヴェングラー、カラヤンを、さらにイタリアからはアルトゥーロ・トスカニーニ、カルロ・マリア・ジュリーニ、そして夭折したグィド・カンテッリなどが指揮台に立った。カラヤンがベルリン・フィルに行き、カンテッリが急死したこともあって、オットー・クレンペラーが浮上する。彼との関係は、1959年の常任指揮者就任から始まり、亡くなる1973年まで14年間続くことになる。〝録音の多いオーケストラ〟の伝統は今も続いており、多い時は年間にセッション数250回にも及ぶこともある。これは色んな音楽、様々な指揮者の下で一定水準以上の演奏が可能になる実力を有することによってはじめて実現するものであって、ただ即応性があるだけでなくその裏には〝高い演奏技術〟と〝柔軟性〟が存する現れであるともいえる。オーケストラの呼称は2度にわたり変更される。1964年に資金不足によりウォルター・レッグが手放して英EMIの専属が切れると、イギリスの自主運営となりニュー・フィルハーモニア管弦楽団に変更、その間例の幻の来日に終わったジョン・バルビローリとの万博公演時も〝ニュー〟の呼称であった。のち、1972年からリッカルド・ムーティが常任につき、5年後にもとの〝フィルハーモニア管弦楽団〟に戻している。そのため、アナログレコードとCDでの、オーケストラ名の表記は混乱を感じる。英COLUMBIAでレコード発売していた頃は、「フィルハーモニア・オーケストラ、ロンドン」を名乗っていたことで、トーマス・ビーチャムが創設した「ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団」と間違われているケースがある。〝フィルハーモニア管弦楽団〟に戻ったムーティの後は、ジュゼッペ・シノーポリが首席指揮者となり、1990年はシノーポリ、2007年はエリアフ・インバル指揮により、「マーラー・チクルス」東京公演を行う。1997年クリストフ・フォン・ドホナーニが首席指揮者に就任。2008年からはエサ=ペッカ・サロネンが首席指揮者およびアーティスティック・アドヴァイザー。サロネンはヘルシンキ生まれの指揮者、作曲家。絶え間ない革新によって、クラシック音楽界において最も重要な芸術家の一人とみなされている。iPadのアプリを開発、Apple社のコマーシャルに楽曲が使用されるなど先進的な試みも注目される。デジタル技術を使った教育や聴衆の開拓などにも先鞭をつける。現在はサロネンの他に、終身名誉指揮者にドホナーニ、桂冠指揮者にウラディミール・アシュケナージという陣容となっている。
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