34-21244

商品番号 34-21244

通販レコード→英 ラージ・ドッグ・セミサークル黒文字盤[オリジナル]

短く逞しく生きた夭折の天才というイメージは激情系のチェリストとして認知されているが、本当の彼女のチェロは、弾く事を心から楽しむ、自然な演奏にあったのではないだろうか ―  夭逝したジャクリーヌ・デュ=プレがデビュー直後に残した小品の録音集です。16歳でデビューした天才デュ=プレならではの美しさと激しさはすでに確立されていたこと今更ながら驚かされます。こういった小品の録音はデュ=プレには大変少なく、他でまとまったものといえば本格的なデビュー前の、BBC放送へ収録したものが残されているぐらいです。デュ=プレならではの美しさ、深さ、激しさを味わえる選曲になっており、とりわけフォーレの『エレジー』やファリャの『ホタ』で聴ける、デュ=プレにしか出せない哀感と情熱のこもった音は圧倒的です。このレコードは「プロムス」に出演して、国民的なコンサートでの見事な演奏により一躍人気を集めることとなった夏にEMIアビーロード・スタジオで行われた1962年7月の録音に、1曲だけ1969年4月1日にジェラルド・ムーアのピアノ伴奏で行われたフォーレが加えられている。多数の著名な歌手とともに歌曲の演奏会やレコード録音で知られたピアニスト、ジェラルド・ムーアは、1967年2月20日に彼と長年共演を重ねたディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ロス・アンヘレス、エリーザベト・シュヴァルツコップが出演して引退記念演奏会を行っており、この録音に先立っている。彼女は明らかにチェロを演奏するために生まれましたと、1967年のニューヨークタイムズ紙で絶賛され、それからわずか5年後28歳の若さで悲劇的な難病に罹り42歳でこの世を去りました。彼女のキャリアは病気によって悲惨に短くなった。1973年10月には中枢神経が冒され、難病「多発性硬化症」と診断されます。1975年、ニューヨークのロックフェラー研究所がくだした診断は、「多発性硬化症がさらに悪化している」というもので、これにより、デュ=プレはチェリストとして事実上の引退を決断して後進の指導に携わる道を選びます。やがて、音楽での社会貢献を称えられて大英帝国勲位を授与される、一方、夫のバレンボイムはパリ管弦楽団の音楽監督に就任。パリを本拠地とするようになり、1987年10月19日、病状悪化によりロンドンの自宅で死去。晩年、視力が衰えたデュ=プレが、その香りの美しさから好んだという白く清楚で儚げなバラには有名なハークネス社が「ジャクリーヌ・デュ・プレ」と彼女の名を冠した。
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彼女はチェロを握りしめて生まれてきたかのようです。楽器が手足のように、彼女の身体の有機的な部分そのものでした。それゆえ、演奏するにあたって音楽の流れを邪魔するものがなにひとつなく、感情がそのまま音楽となってダイレクトに聴衆に届くのです。この天賦の才は、今日でも彼女の録音を聴けば感じ取ることができます。 ― ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
リサイタル
  • Side-A
    1. パラディス(ドュシュキン編):シチリエンヌ ― ジェラルド・ムーア(ピアノ)1962年7月16日録音
    2. シューマン:幻想小曲集 Op.73 ― ジェラルド・ムーア(ピアノ)1962年7月15日録音
    3. メンデルスゾーン:無言歌 ニ長調 Op.109 ― ジェラルド・ムーア(ピアノ)1962年7月15日録音
    4. フォーレ:エレジー Op.24 ― ジェラルド・ムーア(ピアノ)1969年4月1日録音
  • Side-B
    1. J.S.バッハ(ジロティ編):トッカータハ長調 BWV.564よりアダージョ ― ロイ・ジェッソン(オルガン)1962年7月15日録音
    2. サン=サーンス:動物の謝肉祭より白鳥 ― オシアン・エリス(ハープ)1962年7月21日録音
    3. ファリャ(マレシャル編):スペイン民謡組曲よりホタ ― ジョン・ウィリアムズ(ギター)1962年7月21日録音
    4. ブルッフ:コル・ニドライ Op.47 ― ジェラルド・ムーア(ピアノ)1962年7月15日録音
  • 第二次世界大戦も終わりに近づいた1945年1月26日、ジャクリーヌ(ジャクリーン)・デュ=プレは、音楽好きの父デレクと、ピアノや声楽などの素養があった母アイリスの次女としてイギリスのオックスフォードに生まれます。「デュ=プレ」というフランス人のような姓は、先祖が英国海峡フランス沖にあるジャージー島の出身者だったためとのこと。
  • ジャクリーヌは、4歳の時にラジオから流れるチェロの音に関心を持ったことがきっかけで、母親のアイリスから4分の3サイズのチェロを与えられ、5歳になると母の薦めもあって、ロンドン・チェロ・スクールで姉のヒラリーとともに本格的にチェロのレッスンを受けることとなります。このスクールの総長はチェリスト出身の名指揮者ジョン・バルビローリで、彼はすぐにジャクリーヌの才能を見抜いたといいます。
  • 10歳になると、ギルドホール音楽学校に通い始めます。この年の始めには、後年まで「マイ・チェロ・ダディー(私のチェロのお父さん)」と呼んで敬愛したイギリスのチェリスト、ウィリアムス・プリースと初めて出会っており、彼女を気に入ったプリースは7年間に渡って彼女を教えることとなります。
  • 11歳でチェロ援助基金に合格した彼女は、12歳のときにBBC主催のコンサートで演奏。15歳のときには、ギルドホール音楽学校の金メダルを獲得し、クィーンズ賞も受賞、さらにスイスではカザルスのマスタークラスにも参加して腕を磨きます。
  • 翌1961年3月1日、16歳のときにロンドンのウィグモアホールで、プロとしての正式なデビュー・コンサートをおこない高い評価を獲得。直後にBBCでヘンデルのソナタ、ファリャのスペイン民謡組曲を録音しています。
  • 年末から翌1962年にかけてはBBCでバッハ無伴奏チェロ組曲第1番、第2番を演奏し、2月には母アイリスの伴奏でサン=サーンス:アレグロ・アパッショナート、グラナドス:ゴイェスカス間奏曲、メンデルスゾーン:無言歌二長調などを演奏して映像を収録(EMI)。また、3月21日には、ロンドンのロイヤル・フェスティバルホールでルドルフ・シュヴァルツ指揮BBC交響楽団の演奏会でエルガーのチェロ協奏曲を演奏し、大きな成功を収めることとなります。
  • その成功により、同じ年の夏にロンドンでおこなわれた「プロムス」にも出演して同曲を演奏、国民的なコンサートでの見事な演奏により、一躍人気を集めることとなったのです。なお、同じ夏にはEMIでブルッフのコル・ニドライ、パラディス:シチリエンヌ、シューマン:幻想小曲集、メンデルスゾーン:無言歌ニ長調、ファリャ:ホタ、バッハ:トッカータ、アダージョとフーガよりアダージョ、サン=サーンス:白鳥をセッション録音しており、9月には、ブラームス:チェロ・ソナタ第2番をアーネスト・ラッシュのピアノでライヴ録音しています。
  • 彼女はしかし、まだ自分の演奏に満足しておらず、この年の秋、フランスの名チェリスト、ポール・トゥルトゥリエに師事するため、パリに6ヶ月間留学することとなります。
  • 1963年には、ジェラルド・ムーアとのパラディス:シチリエンヌ、シューマン:幻想小曲集のほか、恩師ウィリアム・プリースとのクープラン:コンセール第13番が録音されています。この年、サージェントの指揮でエルガーのチェロ協奏曲を演奏しており、かつてはその録音がリリースされていました。
  • 1964年には、後援者のイスメナ・ホーランドから、ストラディヴァリウスの銘器ダヴィドフを贈られ、以後、生涯に渡ってこの楽器と付き合うこととなるのですが、デュプレの演奏が激しいこともあって、ダヴィドフはたびたび修理に出されていたようです。
  • 1965年1月、ジャクリーヌは、初の協奏曲レコーディングとなったディリアスのチェロ協奏曲をサージェント指揮ロイヤル・フィルとおこない、4月にはゆかりの深いバルビローリと初の共演を果たします。曲はもちろんエルガーです。
  • 翌月にはドラティ率いるBBC響のアメリカ・ツアーに同行し、カーネギーホールで華々しいデビューを飾っています。曲はやはりエルガーでした。8月にはバルビローリ指揮ロンドン交響楽団とエルガー:チェロ協奏曲のレコーディングをおこない、12月にはLPレコードが発売されるなど、13歳から親しんだエルガーの名曲が、彼女のトレードマークとして、世界で広く知れ渡ることとなりました。
  • この12月にはスティーヴン・ビショップとベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番と第5番をレコーディングしています。
  • 翌1966年2月には、彼女はさらなる研鑽を積むべく4ヶ月間ロシアに留学してムスティスラフ・ロストロポーヴィチに師事します。
  • 同年12月には、招待されたフー・ツォン家のクリスマス・パーティで、ダニエル・バレンボイムと出会い、彼女の提案によってブラームスのソナタ第2番へ長調が演奏されます。
  • 翌月(1967年1月)、バルビローリ指揮BBC交響楽団のロシア東欧ツアーに同行、1月3日、プラハ芸術家の家でエルガー:チェロ協奏曲を演奏してライヴ録音(TESTAMENT)、4日後には、モスクワ音楽院大ホールでも同じくエルガーで賞賛を受けます。
  • 同年4月5日、バレンボイム指揮イギリス室内管弦楽団と初の共演でハイドンを演奏、ほどなく婚約が発表され、2ヵ月後には結婚式が挙げられます。なお、婚約直後にはバレンボイムとハイドンのチェロ協奏曲第1番とボッケリーニのチェロ協奏曲第9番のレコーディングがおこなわれ、さらにエルガーのチェロ協奏曲をバレンボイム指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団と映像収録しています(OPUS ARTE)。11月にはチェリビダッケ指揮スウェーデン放送響のコンサートでドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏してライヴ録音(TELDEC)、12月にはバルビローリとハイドンのチェロ協奏曲第2番のレコーディングがおこなわれています。
  • 1968年4月は、エードリアン・ボールトと『ドン・キホーテ』のレコーディングをおこない、バレンボイムとはブラームスのチェロ・ソナタ第1番と第2番、シューマンのチェロ協奏曲を録音、5月になるとシューマンの仕上げに続いてブラームスのチェロ・ソナタ第1番と第2番を再度録音、6月には、バレンボイムとブルッフ:コル・ニドライを録音し、9月にバルビローリとモンのチェロ協奏曲、バレンボイムとサン=サーンスのチェロ協奏曲第1番を録音しています。
  • この年の8月には、彼女が前年に訪れたプラハにソ連軍が侵攻、難民化したチェコ人を応援すべく、ロイヤル・アルバート・ホールでドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏するとバレンボイムと共に発表したところ、コンサート直前に脅迫を受け、警察の保護を受けることになるものの、なんとか演奏を終えています。
  • 1969年は4月にジェラルド・ムーアとフォーレ:エレジーをレコーディングしているほか、8月にはクリストファー・ヌーペン監督のためにシューベルト『ます』の全曲演奏を含むドキュメンタリーを映像収録(OPUS ARTE)。12月から翌年1月にかけて、ズーカーマン、バレンボイムとベートーヴェンのピアノ三重奏曲全集をレコーディングしています。
  •  1970年1月、ドゥ・ペイエ、バレンボイムとベートーヴェン:クラリネット三重奏曲を録音。8月、エディンバラ・フェスティヴァルでベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集をバレンボイムとライヴ録音(EMI)。渡米し、11月にバレンボイム指揮シカゴ交響楽団とドヴォルザークのチェロ協奏曲をレコーディング。フィラデルフィアでのコンサートでは、エルガーのチェロ協奏曲をバレンボイム指揮で演奏し、ライヴ録音(SONY)。
  • 1971年1月、バレンボイム指揮フィラデルフィア管弦楽団のコンサートでサン=サーンスのチェロ協奏曲第1番をとりあげライヴ録音(TELDEC)。英国に帰ってから、指先の感覚が鈍くなるなどの体調不良を訴え、病院で診察を受けた結果、心因性のものと診断され、秋から1シーズンの演奏をすべてキャンセルします。しかし、12月にはかなり良くなり、キャンセルしたベートーヴェンのチェロ・ソナタの代わりに、ショパンとフランクのチェロ・ソナタをバレンボイムとセッション録音します。このときの演奏は、5ヶ月間もチェロに触れていなかったことが信じられないほどの名演奏でしたが、これが彼女の最後のスタジオ録音となりました。
  • 1972年7月、エルサレムで、ラジオ放送のためにバレンボイム、ズッカーマンとチャイコフスキーのピアノ三重奏曲『ある偉大な芸術家の思い出』を演奏しライヴ録音(EMI)。
  • 1973年1月、バレンボイム指揮クリーヴランド管弦楽団のコンサートでラロのチェロ協奏曲を演奏しライヴ録音(EMI)。同年2月、メータ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とエルガーのチェロ協奏曲を演奏し、さらにニューヨークではリサイタルも開きますが、症状は徐々に進行しており、バーンスタインとの共演はキャンセル、4月に来日した際にはすでに演奏不可能となり、予定されていたコンサートはすべて中止となってしまいました。
  • 同年10月には中枢神経が冒され、難病「多発性硬化症」と診断されます。しかし、ジャクリーヌ本人や家族は、この病気の進行が遅いものであることを祈って日々を過ごしていたのですが、1975年、ニューヨークのロックフェラー研究所がくだした診断は、「多発性硬化症がさらに悪化している」というもので、これにより、ジャクリーヌはチェリストとして事実上の引退を決断することとなり、後進の指導にたずさわる道を選びます。
  • この年、ジャクリーヌは音楽での社会貢献を称えられて大英帝国勲位(OBE)を授与され、一方、夫のバレンボイムはパリ管弦楽団の音楽監督に就任。パリを本拠地とするようになります。
  • 1978年、プロコフィエフの『ピーターと狼』のナレーターとして、「ジャクリーヌ・デュ・プレ基金」設立の記念コンサートに参加。
  • 1979年、エリザベス皇太后から音楽博士の名誉学位を授与されます。同年、母校のギルドホール音楽学校でBBCのために4回シリーズのマスタークラスも実施。
  • 1987年10月19日、病状悪化によりロンドンの自宅で死去。享年42歳でした。
  • 1988年1月26日、生きていれば43回目の誕生日だった日に、その輝かしい生涯に感謝するコンサートが開かれ、デイム・ジャネット・ベイカーが歌い、ズービン・メータがスピーチをし、夫だったバレンボイムがイギリス室内管弦楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第27番を弾き振りで演奏しました。
  • 1989年、ガーデニング好きには有名なハークネス社が、彼女の名を冠した「ジャクリーヌ・デュ・プレ」というバラを発表。晩年、視力が衰えたジャクリーヌが、その香りの美しさから好んだという白く清楚で儚げなバラで、現在でも高い人気があります。
ジャクリーヌ・デュ=プレのテクニックは小気味良く、力を抜く余裕はなく音色も時に美感を欠くほどだが、それだけにきれいごとでない独奏が聴くものを圧倒する。1961年、16歳でデビュー、「カザルスに匹敵する」と絶賛を浴びてから9年。レコード会社の肝いりでコンサートツアーとなると協奏曲の演奏を求められるわけで、そこでは作曲家に襲い掛からんばかりの気迫で曲を征服してしまう彼女だが、本当の彼女のチェロは、弾く事を心から楽しむ、自然な演奏にあったのではないだろうかとふと感じました。短く逞しく生きた夭折の天才というイメージは激情系のチェリストとして認知されているが、室内楽を弾かせても抜群の味付けが出来たということがわかります。「天才とは神が与えた重荷だ」というが、4年後に多発性硬化症が発症して28歳でチェロ演奏家として引退するとは思ってもいなかっただろう。ジャクリーヌは生涯に三台のチェロを愛用。16歳のデビューの際に贈られた、ストラディバリが制作した60余りのチェロの中でも指折りの銘器と言われる1713年製ストラディヴァリウス “ダヴィドフ”。それ以前に弾いていたチェロは1673年製ストラディヴァリウス。このレコードは1962年7月に録音されましたが、1969年4月録音のフォーレでの使用楽器は、バレンボイムがデュ=プレに贈ったセルジオ・ペレッソン製作の近代的チェロ。多発性硬化症で思うように手先に力が入らないジャクリーヌのための考えられた楽器です。このレコーディングの後、1971年頃から症状は進行します。
ジャクリーヌ・デュ=プレ(チェロ)、ジェラルド・ムーア(ピアノ)、ロイ・ジェッソン(オルガン)、ロナルド・キンロック・アンダーソン(チェンバロ)、オシアン・エリス(ハープ)、ジョン・ウィリアムズ(ギター)。1962年7月、1969年4月(フォーレ)ロンドン、アビーロード・スタジオでのセッション、ステレオ録音。
GB EMI HQS1437 ジャクリーヌ・デュ・プレ リサイタル
GB EMI HQS1437 ジャクリーヌ・デュ・プレ リサイタル
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