ナイジェル・ケネディの新録音はガーシュウィンにインスパイアされたアルバム『ケネディ・ミーツ・ガーシュウィン』 ― ナイジェル・ケネディによる新作は、ガーシュウィンの作品にインスパイアされて彼なりのノンジャンル・アレンジを施したもので、ドラムなどのリズム楽器なしでのアコースティックなもの。ケネディのクラブステージのデビューは14歳の時で、ジャンゴ・ラインハルトの偉大なスウィング・ヴァイオリンのパートナー、ステファン・グラッペリとの共演でした。これはケネディの人生のうち、リズミカルな大胆さを身に付けた瞬間だったといいます。このアルバムでは彼はそれを思い出し、重要さとしてガーシュウィンが当時その大胆なリズムを導入したものと同じように、このセッションに取り入れています。「ラプソディー・イン・ブルー」は、わずか2分半の曲となっていますが時代を超越したモチーフは微かな和音と複雑なリズムが混在されていること大切にし、ピアノのインプロヴィゼーションを行い、ジャズの曖昧さを適度に扱っています。もちろんどの曲も全ての原曲を大切にしつつも、彼のトレードマークの速い弦の旋律も全開。新たなる彼の新世界は、これからも続きます。本盤は、ケネディの出世作となった録音。エルガーのヴァイオリン協奏曲の決定盤。チェロ協奏曲は大いに有名で、大チェリストの独奏によるレコード録音も、演奏会の頻度も非常に高いものですが、こちらは演奏時間が50分以上かかるうえ、技巧的にも難易度が高く、聴衆の集中力の持続の点で、演奏会でプログラムにされる頻度は、まだまだ少ない。と聞いて知ると早速、行きつけのレコード店に出かけて行って店頭にあるか確認していた次第です。そしてライナーノーツと楽曲解説でまた次の誘いがおきるんだよね。イギリス音楽に興味を持って、ホルストを入り口に、ディーリアス経由でエルガーに。本盤などは、そうした連鎖で聴いたレコード。1977年にリッカルド・ムーティ指揮フィルハーモニア管弦楽団との共演でプロデビューを果たすケネディは、このロンドン公演当日の朝、燕尾服をニューヨークに忘れて来た事に気付き古着姿で演奏したことでセンセーショナルを呼んだ。やがてジャズやロックなど、オールラウンドにクロスオーバー活動をする、やんちゃなムードが先行するケネディですが、1984年には28歳で、この曲を録音するとグラモフォン誌の『ベストレコード・オブ・ザ・イヤー』に選出される本格大物ぶりを発揮してます。ヴァーノン・ハンドレーという、このうえもない英国音楽の導き手に支えられて、正攻法ともいえる英国伝統に根差したアプローチで、第1楽章は年齢を感じさせない大人びた、渋い演奏を繰り広げます。対してキッパリした終楽章と、瑞々しい2楽章は、この時期のケネディならではの魅力といえます。そして1989年に発売されたヴィヴァルディの「四季」は、クラシックのヒット・チャートでは1位、ポップスまで含めた総合ヒット・チャートで6位となり、クラシック楽壇以外の場でもその名が広く知られる事になる。この「四季」で、クラシック作品として史上最高の売上(200万枚以上)を達成したとギネスブックに認定された。
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イギリス音楽ファンには馴染み深い指揮者、ヴァーノン・ハンドリー(Vernon Handley)は、2008年9月10日に亡くなっています。1930年11月11日、ロンドン特別区北部のエンフィールドに誕生。アイルランド人の母はピアノ教師、父はアマチュアのテノール歌手というケルトの家庭でした。1歳半で正確に歌えるようになり、早くからピアノも始めていたハンドリーでしたが、8歳のときに手のケガが許でピアノを断念し、スコア・リーディングとレコードの世界に没頭、12歳のときにはかなり正確にスコアを読むことができるようになっていました。アマチュア・オーケストラや聖歌隊を指揮して過ごすほど音楽への情熱は高まるばかりで、その後、ハンドリーは言語学を学ぶためにオックスフォード大学バリオル・カレッジを経て、ギルドホール音楽演劇学校でジェームズ・メリットに師事する。ついに、本格的に指揮法を修めることとなります。指揮者の卵となった若いハンドリーは、サー・エードリアン・ボールトに手紙を書き、リハーサルへの出席を懇願します。ボールトは出席を許したばかりか、オフィスに招待してバックスの交響曲第3番のスコアを開き、ハンドリーに指揮をしてみるように指示し、なんとかこなしたハンドリーに対して援助することを約束します。1961年、ボールトの推薦によりプロ・デビューすることになり、ボーンマス交響楽団を指揮したハンドリーは、熱烈に歓迎され、翌年には、ギルドフォード・フィルハーモニックの音楽監督に就任します。31歳でした。しかしギルドフォード・フィルの財政状況は厳しく、1966年からロンドン王立音楽院(ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック)で教えながら、イギリス各地で指揮をするようになり、同時にBBC交響楽団などでボールトのアシスタントをたびたび務めて研鑚を積み、1970年、ロンドン交響楽団を指揮して脚光を浴びる。ハンドリーの名が広く知られるようになったのは、スウォンジー音楽祭でロンドン交響楽団を指揮して成功を収めてからで、翌年から同オーケストラや北欧のオーケストラに客演するようになり、やがてその実力が評判を呼んで、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団やニュー・フィルハーモニア管弦楽団、ロイヤル・フィルハーモニック、バーミンガミ市交響楽団など、数多くのオーケストラとレコーディングが行われるようになりました。ハンドリーの最初の録音は、1965年、ギルドフォード・フィルとのバックスの交響曲第4番というものでした。その後、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・フィルなどを指揮し、特に自国の音楽を中心に数多くのレコーディングを精力的に行い、イギリス音楽のスペシャリストとして人気が高い。録音にも、シンプソン、アーノルド、ヴォーン=ウィリアムスの交響曲全集などが含まれている。中でもロイヤル・フィルと協演したホルスト「惑星」は高い評価を得ている。その数は160に達し、うち87の作品が初録音という開拓者精神にあふれた献身的な仕事ぶりは見事なもので、バックスやヴォーン=ウィリアムズ、スタンフォード、アーノルド、シンプソン、エルガーなどで聴かせた、作品の姿を正しく伝える堅実なアプローチには、英国音楽ファンの信頼厚いものがありました。ハンドリーの指揮するヴォーン=ウィリアムズは豪放磊落で迫力満点、集中力の高さ、祖国の作曲家に対する思い入れの強さで、際立っていた。演奏が終わり拍手喝采を受けるとき、聴衆に向かって作品のスコアを示して見せることも多かったというハンドリーは、グラモフォン誌のレコード・オブ・ジ・イヤーを3度受賞し、また、2003年にはSpecial Achievement Awardを受賞、亡くなる前年の2007年には、BRIT AWARDSのLife time achievementを受賞するなど、英国では高い人気を誇っていました。
2015-08-19
1984年3月、ロンドン録音。
YIGZYCN
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