GB EMI BLP1043 トルトゥリエ エルガー・チェロ協奏曲
通販レコード→英ラージ・ドッグ、セミサークル金文字盤[10インチ盤]

GB EMI BLP1043 トルトゥリエ エルガー・チェロ協奏曲

商品番号 34-6770

自らの道を迷わず歩む求道者のような暖かく愉悦感にあふれた演奏には御大の人柄がにじみ出ている。 ― 『音楽を弾く』ことは、録音から半世紀経った聴き手にも演奏会に立ち会っている錯覚に誘うのだろうか。円熟の巨匠の手になる、落ち着いたテンポによる、端正かつ的確な解釈の気品と余裕に満ちた演奏です。良い意味でリラックス、楽しんで弾いている空気感が録音から伝わってきます。それだけでなく、彼の音楽に対する姿勢は、一音一音の、音の長さ、強弱、運指、弓の動き、それらを微細に探求されていながら、そして最終的に大きな目で見てみると驚く程全てが美しく構成されているということがよく分かります。芯の太い音色で、それに伴う音色、表現の微妙な変化、自然とトルトゥリエの世界に誘われます。ポール・トルトゥリエは、1914年3月21日にパリに誕生。6歳でチェロを習いはじめ、10歳のときにパリ音楽院に入学、16歳でチェロ科を一等賞で卒業し、パリでデビュー・リサイタルを開くほどの早熟の天才でしたが、トルトゥリエは再びパリ音楽院に通い、今度は対位法と作曲を学び、ハーモニーの部門で一等賞を得ます。パリ音楽院をあとにしたトルトゥリエは、まずモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団の首席奏者に迎えられ、2年後にはボストン交響楽団の首席に転進、第二次世界大戦中はパリ・フィルハーモニー協会管弦楽団の首席をつとめ、終戦後2年間はパリ音楽院管弦楽団の首席奏者として活躍、1947年からはソリストとして演奏活動をおこなうこととなります。以後、40年以上に渡って世界的な名声を博したトルトゥリエは、演奏理論書のほか、独特の形状のエンドピンまで考案する多才な人でもありました。1990年12月18日、トルトゥリエはパリ郊外の音楽学校でチェロを教えていましたが、その際、自室に楽器を取りに行ったときに心臓発作に襲われ、チェロにもたれかかったまま亡くなっているのが発見されたということです。いつもパワフルで気さくだったトルトゥリエを象徴するかのような最期でした。トルトゥリエの演奏は音楽に没頭するのではなく、その力みのないさりげない演奏は作曲者の意図を冷静に客観的に楽しみたい時に、まさにピッタリだし、よりエルガーらしいともいえる。トルトゥリエはあのジャクリーヌ・デュ=プレの師としても知られている。このエルガーの《チェロ協奏曲》は、そのデュ=プレのために贈られたような名曲。両者を結びつけるところも感じられ高名な弟子のデュ=プレ盤と比較試聴するのも一興かと思います。
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19世紀までは聴衆にも、各地の演奏家にも有名演奏家が演奏旅行をするときにレパートリーとして貰うことで広まっていった作曲家の名声。20世紀になるとラジオで自作が演奏されるのを楽しむ様になった。英国を代表する、この作曲家は、そうしたメディアの時代に乗り合わせ国際的に評価を受ける存在になっていく。マイクロフォンの登場を受けて、エルガーは彼自身の指揮で数多くのレコードを残した。「名作曲家イコール名演奏家」ではないが、ことエルガーに至っては彼自身が熱心にレコード録音として後進の指揮者に目的を遺した。近代イギリスを代表する作曲家、サー・エドワード・ウィリアム・エルガー( Sir Edward William Elgar )は、経済的に恵まれなかったため正規の音楽教育を受けることができず、ほとんど独学で勉強したそうですが、ピアノ調律師で楽器商を営んでいた父親のウィリアムは生業のかたわら聖ジョージ・ローマ・カトリック教会のオルガニストを務めていたそうですから、やはりその血の中には音楽家の資質が備わっていたということなのでしょう。1857年生まれ。1934年没。英国の作曲家・オルガニスト。イギリス音楽を再興した重要な作曲家。オルガニストの父から手ほどきを受けるが、その後は独学で作曲などを学ぶ。作風はロマン派で民俗的ではないが、いかにも英国的気品がある。若きエルガーはシューマン、ワーグナーの作品にはとりわけ強く影響を受けたとされています。代表作のひとつである『エニグマ(謎)』変奏曲がハンス・リヒターの指揮によって初演され、オラトリオ『ゲロンティアスの夢』はリヒャルト・シュトラウスが絶賛したことで、その名声はヨーロッパ中に広まります。エルガーのもっともポピュラーな作品である行進曲『威風堂々』第1番中間部の有名な旋律は、今日『希望と栄光の国』として愛唱されイギリス第2の国歌とまで称されています。1914年(旧吹込み)以来エルガーはレコーディング活動にも積極的であり、1920年にマイクロフォンによる電気吹き込みの技術が新しく開発され、エルガーは自身の代表作を次々とレコーディング、ビートルズが使用したことで有名なEMIのアビーロード・スタジオで初録音を行ったのはエルガーでした。1919年、「ブリンクウェルズ」で完成された《チェロ協奏曲》は、とても美しい曲だが、悲劇の匂いが感じられて、それが離れることがない。この曲が作曲された翌年エルガーの愛妻アリスが世を去ってしまう。つまりアリスが最後に聴いたエルガーの新作が、この曲であったのだ。第1楽章は、その哀しみを暗示しているかのように切ない。エルガー自身がこの曲の録音をする際に2度ともに起用した女流チェリストのビアトリス・ハリソンの演奏によって、この曲は広く親しまれるようになったが、その演奏スタイルは後のジャクリーヌ・デュ・プレの神々しいまでの演奏の出現を予感させる。1965年20歳のデュ=プレは、ジョン・バルビローリとロンドン交響楽団の伴奏で、この曲の録音を行い、今なお決定盤としての地位は不動である。「グラモフォン」誌が選定した20世紀の名録音という企画で、1位に輝いたショルティの《指輪》に続いて第2位に選ばれたのは決して過大評価ではない。このエルガーの《チェロ協奏曲》は、アリスの突然の死とデュ・プレの悲劇という2人の女性の運命を連想することなしに聴くことはできない。エルガー62歳の時、アリスは70歳になっていた。この頃になるとアリスの体調が思わしくなかったので、養生のためにまた夏の間に滞在するために、ウェスト・サセックス州のフィトルワース近くの山荘を見つけ名付けた家が「ブリンクウェルズ」。アリスの静養という面においても有効であったが、第一次世界大戦が起こり、戦争がエルガーの周りの何もかもを狂わせてしまった。彼の作品は「時代遅れ」の烙印を押され、世評の冷たい攻撃にさらされることもあった。またエルガーの作品を最初に評価してくれたドイツでも敵対国の作曲家ということで人気は凋落してしまっていた。心身共に疲れ果てたエルガーもまた体調を崩してしまい静養を求めていた。その中で内省的な室内楽を中心とした ― ヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、チェロ協奏曲 ― 美しい作品群が作曲された。地味ではあるが、エルガーが作曲家として達した最後の境地と言えるだろう。「木々が私の曲を歌っている。或いは私が彼らの曲を歌うのか」というエルガーの言葉は生き続けている。翌年春、アリスは71歳の生涯を閉じる。エルガーは書いている。「私が成し遂げたことは妻のお陰によるものが大きい」。どれもこれも郷愁と懐古に満ちた白鳥の歌を思わせる清らかさを持っている。特にアリスが気に入っていた作品ばかりである。2人とっては、この世で過ごした最後の楽しい夏であった。エルガーの曲というのは、如何に優れたテクニックでも描き切れない「心」の部分がある。作曲家と演奏家の、心のある資質が同化した瞬間にエルガー作品の名演奏が生まれるのだと思う。特にこの曲の場合、そこに難しさがある。確かに技巧的な要素も求められてはいるのだが、それ以上に求められているものがあるのだ。それに応えられるかどうかで決まってしまう。
サー・マルコム・サージェント(Sir Harold Malcolm Watts Sargent)は決して派手な芸風を売り物にする指揮者ではなかったが、20世紀イギリスを代表する指揮者の一人であり、遺された録音もイギリスの音楽作品を中心に高水準の名演がめじろ押しです。何故かイギリスの指揮者は、ブリテンの青少年の管弦楽入門を例にとるまでもなく将来の顧客ないしは演奏家になるであろう子供達にクラシック音楽を啓蒙したい傾向が有る様です。私たちは幼い時から年末には必ず、彼の作品に親しんでいるのですが、それを知らずに育っているのです。ケント州のアシュフォードに生まれた20世紀イギリスを代表する名指揮者。石炭商人を務めながらも聖歌隊の指揮者、オルガニストとして活躍した父のもとで音楽に親しみ、サージェントは教会音楽についてじゃ少年時代から抜きん出た才能を見せた。またギルバート&サリバンの作品についても早くから親しみ、終生変わることのない愛情を抱き続けた、初め教会のオルガニストとしてキャリアをスタートさせているが、1921年ヘンリー・ウッドが主催していたプロムスに招かれ、自作の管弦楽曲「強い嵐の日の印象」(Impression on a Windy Day)作品9を指揮した。オーケストラはクィーンズホール管弦楽団で、これはサージェントがプロのオーケストラを初めて指揮したデビュー公演でもあったのだが大きな成功となり、以来、ウッドの勧めもあってサージェントは指揮者としてロンドンを中心に活躍するようになった。1932年サー・トーマス・ビーチャムがロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を創設すると、その中心的な指揮者の一人となっているし、1939年〜42年にはリヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も務めている。また合唱指揮者としての名声はつとに知られるところとなり、1928年から亡くなる1967年までロイヤル・コーラル・ソサエティの指揮者として人気を博したし ― その合唱とオーケストラのために「きよしこの夜」を編曲 ― 、この間の1931年にはリーズ音楽祭でウォルトンの「ペルシャザルの酒宴」を初演している。また大戦中は戦禍の中、国内に留まり、慰問コンサートなどに尽力、国外に逃れる格好となったビーチャムに代わりイギリスでの人気を不動のものとした。戦後はさらに人気を高め、BBC交響楽団の指揮者として活躍した他(1950〜57年)、プロムスの中核的指揮者として終生出演を続けた。またBBCを通して彼の解説も親しまれた。外国への演奏旅行では〝イギリスの音楽大使〟として愛された。ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」(1946年)、ウォルトンの交響曲第9番(1958年)の初演も行っている。1947年ナイトの称号を授与されている。決して派手な存在感を誇る指揮者ではないし、レパートリーも限定されているが、内なる情熱を秘めた感動の質の高い演奏を聞かせた。録音もイギリスの作品を中心に不滅の名演がならんでいる。1967年に亡くなるが、音楽好きのチャールズ皇太子との交流が晩年の巨匠を勇気づけ、絶筆は皇太子へのエルガーのチェロ協奏曲のレコードの献呈文だといわれている。リムスキー=コルサコフはロシア国民楽派五人組の最も年少者、教養が高かったのと、管弦楽法の名人で、その作曲には手の込んだ技巧的なものが多い。ムーソルグスキーの荒削りな作品に手を入れて、名作を我らに遺してくれたのはもう一つの手柄である。交響組曲「シェエラザード」は代表作である。アラビア夜話に取材して、豪華な夢を織りなす手際は見事だ。レコードではレオポルド・ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団を指揮したのが絶対的に良い。歌劇「サドコ」は面白い曲だ。がこの中の「インドの歌」だけがいろいろの人に歌われたりヴァイオリンに編曲されたりして入っている。歌劇「金鶏」の「太陽への讃歌」も有名だが取立てて言うほどのものはない。と、あらえびすこと野村胡堂は紹介しているが、「金鶏」は、占い師によって与えられた予言の鳥「金鶏」によって皇帝が翻弄され、最後は死を迎えるというもの。当時の政治体制を批判するリムスキー=コルサコフのメッセージが読み取れます。ヨハン・ゼバスティアン・バッハのオルガン曲をエルガーがオーケストラ番に編曲した《幻想曲とフーガ》を初演したり、シドニー交響楽団のホールにその名が付いているサー・ユージン・グーセンス(1893.5.26-1962.6.13) ― 3代続きの指揮者で、名オーボエ奏者として有名なレオンは弟に当たる。ロンドン生まれ。英国王立音楽院でヴァイオリンと指揮を学び、ビーチャムの下でアシスタントを務めた。1921年にストラヴィンスキーの「春の祭典」を英国初演するなど活躍。後に渡米して1931〜46年の間シンシナティ交響楽団の首席指揮者、1947年にはオーストラリアのシドニー交響楽団の初代常任指揮者に迎えられ、同響の発展に寄与した功績によりサーの称号を得た。ところが1956年にポルノ写真を国外に持ち出そうとして空港で逮捕され、名声に傷が付く一幕も。だがオーケストラを大きく鳴らす能力は本物で、レスピーギの「ローマの祭」(1958年)などド迫力。リズムは少々危なっかしいが、当時の指揮ぶりを偲ぶなら得意の「春の祭典」(1960年頃)も面白い。モダン・オーケストラの能力を最大限効果を上げ、英EMIのノウハウを十全に駆使して時にはハッと生演奏のような錯覚すら覚えさせる、聴いた後の爽快感がいい。
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