ハレルのこのみずみずしく、一点のくもりのない素晴らしい音色は、まさに、時代を担い若手ナンバー・ワン・チェリストの名にふさわしい! ― 合衆国期待の新進チェロ奏者リン・ハーレルはドヴォルザークのチェロ・コンチェルトという話題盤で、わが国にデビューしたが経歴については詳しいことは伝えられていなかった。だが、その才能がどれほどのものであるかという点については、受賞歴などを列するまでもなく、わずか21歳の若さでクリーヴランド管弦楽団の首席奏者におさまったという事実を引き合いに出すだけで十分だろう。二流、三流のオーケストラならともかく、疑いなく世界屈指のクリーヴランド管の主席である。しかも当時の常任指揮者は、あのジョージ・セルである。四半世紀にわたる彼の指導の下で、このオーケストラが稀にみる充実ぶりを示していた頃の話だ。それは、1970年度来日で我々もよく知っている。ハーレルは1971年にこのオーケストラを退団して、ソリストとしての道を歩き始めた。或いはセルの死(1970年)が、ひとつの契機だったのかもしれない。それはともかく、このようにオーケストラの首席奏者を経て独奏家に進むのは、チェリストとしては珍しいことではない。グレゴール・ピアティゴルスキー、ダニール・シャフラン、ヤーノシュ・シュタルケルらの顛末がそうだし、ハーレル自身がジュリアード音楽院で師事したというレナード・ローズもまた同様であった。これは、チェロ奏者がピアニストやヴァイオリニストと比べて比較的地味な存在であることを物語っているが、ハーレルの場合は、特にリーダーがセルであっただけに、そのオーケストラの変化は次のマスに駒を進めるトリガーとなった。しかし、ニューヨークでリサイタルを開きますが、お客の入りはさっぱりで、しばらくは鳴かず飛ばずの状態でした。この時に手を差し延べたのが、クリーヴランド管で同僚だった指揮者ジェームズ・レヴァインです。レヴァインとハーレルとは、ハーレルがセルのもとでクリーヴランド管の首席チェロ奏者だった時代に、レヴァインが同団で副指揮者をつとめていたころからの旧知の中。協奏曲と室内楽でたびたび共演し、RCAにはLPにして5枚分の録音を残しています。本盤は、名人3人が集まっての豪華版。若い彼らの友情の産物でもあり、このアンサンブルの中に若さが漲っている。全集録音に発展したベートーヴェンの三重奏曲の中でも、特に有名な《大公》は往年の巨匠たちのような丁々発止の個人芸のぶつかり合いというより、はるかに緊密で室内楽的なアンサンブルを作り上げている。カザルストリオ、百万ドルトリオに肖って命名するならば、超弩級トリオと呼ばれるのに相応しい。
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ハイドンもモーツァルトも、チェロ・ソナタを残していない。チェロ・ソナタは、ベートーヴェンに至って音楽的に重要な意味を持つようになり、チェロの音楽を拡大し、チェロの機能や性格を活用したものとして本格的に登場してくるのである。ところが、このベートーヴェンがチェロを演奏したとか、チェロを特に愛好したということは伝わっていないようだ。これに対して、ベートーヴェンがヴァイオリンやヴィオラをかなり巧みに演奏したという記録は残っている。それでも、ベートーヴェンがチェロという楽器に若い頃から関心を示し、それを研究したというのは、事実のようである。ベートーヴェンの室内楽としてのバランス、書法はこの創作において、近代的なトリオの原型を築いたといってもよく、それ以前のピアノにバランスが傾いたものから、個々の楽器もほぼ対等に渡り合えるようになりました。「大公」の名は緊密であったパトロン、ルドルフ大公のこと。献呈は、この作にとどまらず、フィデリオや、2曲のピアノ協奏曲、ミサ・ソレムニス、大フーガ、ハンマークラヴィーア、そこには重要な諸作の幾つが並びます。初演はベートーヴェン自身がピアノを弾きました。すでに聴力を失っていたため、往年の面影はなく、ひじょうに不器用にこなすだけ。これ以降、公の場でピアノを弾くことはなくなりました。そうした影はいわゆる典型的なベートーヴェン像を築く中期の作品の中にあっても、変遷のあとを留めています。一般に、創作の時期を3つに分けるやり方は、便宜上のものであり、そこにダーウィニズム的な進化を認めるという考え方もあります。その中核には交響曲が並び、弦楽四重奏曲、ピアノソナタなどでも、いわゆる典型的な3つの創作期を辿ることもできますが、晩年の瞑想、神秘といったものは、直後からはじまるロマン派の音楽とも違う。音楽史上のそうした出来事を「進化ではなく変化なのだ」とは、パウル・ベッカー。「大公」は典型的な中期のものということになっていますが、1811年。典型的なベートーヴェンとは強奏に向かう力学が見られることです。すべては強奏で最も強い効果を発揮する。それをソナタではっきりと彫り込む深く見抜いていたのがアルトゥール・シュナーベル。こうした効果は、しばし演奏会でも強い効果を発揮することとなりました。それはアマチュアで対応できるものではなく、書かれた音で構築するという強さがあります。その反対が柔のベートーヴェン。公開のピアノの席から後退した時期に見つめたのは心の裡であり、典型的な中期作品であっても端境、とくに緩徐楽章にあたる3楽章の変奏曲では後期に踏み込んだ作風を示します。ピアノの追求、それは協奏曲の分野、5番であっても名技性の象徴であるカデンツァもコントロールされ、そして、やはり緩徐楽章の瞑想では後期の様式に踏み込んだのでした。時代の流れ、変遷ということは、演奏の受容にも大きく影響を及ぼしています。
村上春樹が音楽を使う時の芸の鮮やかさは、確実に物語がそれに乗って進む感覚を覚えさせられる点だ。小説『海辺のカフカ』での、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第7番『大公』は登場人物の一人の心を狂言回しとして前向きに直進させるきっかけを与える曲として印象的な使われ方をしている。意識して『大公』を聴いたことがない人でも、『海辺のカフカ』を読んで「いったい〝大公トリオ〟ってどんな曲だろう」と思わない人はいないはず。ベートーヴェンのピアノ・トリオの中でもっとも有名な名曲『大公』の明るさ、ベートーヴェンの持つ強さが、物語のトーンを形作る。『海辺のカフカ』の中では、登場人物のトラック運転手星野君が、アルトゥール・ルービンシュタイン、ヤッシャ・ハイフェッツ、エマーヌエル・フォイアマンの〝百万ドルトリオ〟を聴いて感銘を受けるという設定になっている。戦後すぐの録音だが、当時のトッププレイヤーがタッグを組んだ演奏で『海辺のカフカ』の中ではこんな風に絶賛されている。
当時は『百万ドル・トリオ』と呼ばれました。まさに名人芸です。1941年という古い録音ですが、輝きが褪せません」「そういう感じはするよ。良いものは古びない村上春樹ファンは迷わずこれを聴くべし。でも、如何せん1941年の録音だ。1942年にはチェロが、グレゴール・ピアティゴルスキーに代わっているので、このトリオが残したわずかな録音のうち。昔から知られた名盤ですが、個性の強いスター3人の共演ゆえ、普通の名盤ではありません。室内楽と言えば連想される親密な対話はここにはなく、あるのは、やがて袂を分かつくらいにハイフェッツとルービンシュタインというまったく芸風の違う二人による火花散る真剣勝負に、フォイアマンやピアティゴルスキーが絡む図式。これが面白くないはずがありません。本気になった名手たちの真剣勝負は実にスリリング、録音の古さなど忘れさせてしまいます。
永遠の名盤とは虚ろな言葉で、それに値するものは決して多くはないのですが、「録音と時代の流れを超越した感動を訴えかける歴史的名演」と題して、2018年10月21日のSPコンサート第60回定例鑑賞会で聴いていただいたカザルス・トリオ盤などはその数少ない例の一つ。すでに80年以上経過して、いまだに評判は現役です。LP期の名演とされたものにはもうひとつ百万ドルトリオのものと二つが大きく核としてあり、ダヴィッド・オイストラフ、ヴィルヘルム・ケンプ、スヴァトスラフ・リヒテルなど、力感の置かれどころが違う名前のあがる幾つかが時流の海をめぐっているという状態。ウラディーミル・アシュケナージ、イツァーク・パールマンとの間のベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタや、アシュケナージ、リン・ハレルとの間にはショスタコーヴィチのソナタなど評価の定まったものも多い。これが三重奏になると、ボザール・トリオ、イタリアの伝説的常設トリオ・トリエステ三重奏団といった大きな存在と、対象になること。常設型以上に個々の奏者が見えるところ、こと有名曲のレコード・コレクターにはそうしたところに興味の対象がいくのかもしれません。対する常設トリオの魅力を、これまた常設トリオの大物としてはトリオ・ヴァンダラーが、ヒントになるようなことをインタビューで挙げています。
1つ目は〝リーダーを置いていないこと」、言い換えれば〝3人のリーダーがいること〟です。2つ目は、私たちが〝ソリスト的に〟演奏するか、〝室内楽的に〟演奏するかは、その音楽次第であるという点です。モーツァルトの協奏曲をブラームスの協奏曲のように弾くことは許されないのと同じように、3つのソロパートの集合体のようなトリオの演奏を目指してはいけません。演奏家というものは、ベストを尽くしてその時演奏している音楽に奉仕するのが本分であり、それぞれの曲目に応じた〝正しい道〟を見つけなければなりません。最後に、私たち3人が若い頃に、偉大なピアニストであるレオン・フライシャーのマスタークラスを受けた時の教えを原点にしていることです。彼は〝音楽家にとって最も大切なのは経験を積むことである〟と言いました。結成30年を迎えた私たちが、彼の教えに少しでも近づけたなら光栄なことです。今では世界的に希少な存在となっている「常設のピアノ三重奏団」として、長く続けて来られた秘訣については
私たちは〝ルールを設けないことがルール〟です。〝暗黙の決まり事〟を持つことですら大変危ういことです。そして、メンバーがトリオの活動の外では各自の裁量を確保できていることが、とても大切です。ちなみに、これは音楽に限らないと考えます。何かのグループを作って長く活動するときに共通する秘訣ではないでしょうか?と、締めた。
淘汰されるもの、かつて、個々の新鮮さがとても印象に残ったアシュケナージをはじめとした当盤はカタログで見る以上、その憂き目をみていますが、改めて聴きかえせば、その新鮮さが心に残りました。本盤は超一流アーティストによる《大公》です。超弩級トリオと呼ばれるのに相応しいレベルの演奏で、ベートーヴェンの三重奏曲の中でも屈指の1枚といえる出来映えです。ただし、録音史にはカザルス・トリオ盤が厳然と聳えています。これも常設というよりは、個々人の集まり。1971年10月24日、パブロ・カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」と語り、『鳥の歌』をチェロ演奏したエピソードは伝説的で、録音が残されている。チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされるカザルスの、有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる。そこらからカザルス・トリオと通名されるが、早くから世界的名声を築き、ヨーロッパ、南北アメリカ、ロシアなどを演奏旅行して回った。そこには、1905年、アルフレッド・コルトー(ピアノ)、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)との三重奏団結成が大きい。ナチス・ドイツに対する意識が三様であったが、トリオ演奏の時はコルトーに集束している。本盤でも、イツァーク・パールマン、ウラディーミル・アシュケナージ、リン・ハレル、いずれもが極端に前に出ることのないアンサンブルに徹し、結果として最高の《大公》トリオを実現しています。アシュケナージのピアノが中心に、パールマンのヴァイオリンが歌う。不機嫌そうなベートーヴェンの肖像がよくありますが、忘れがちなのは最初は快活な人間であり、社交の場でも活躍していたわけです。柔のうちにはユーモアや明るさ、そうしたものがあってもいい。先に述べたように演奏の意図は明らか。柔を前提としている以上、中期のベートーヴェンらしい力感とは別のところが追求されているわけです。これも評価が高い録音だが、三人の自己主張はあり、しかもきちっと弾かれているのに全体の盛り上がりは今一歩か。丁々発止のお仲間同士のやり取りは柔和で、その分、かつてのカザルス・トリオのもっていた滔々とした流れや太さには不足します。もう少しハレルが引出されればと、スケールの不足はありますが、アシュケナージ、パールマンは伸びやかです。ともかく、室内楽、とくにピアノ・トリオは演奏によって微妙なニュアンスが全然違うのでそこが面白い。『大公トリオ』はとくにそう思う。どれか一枚を勧めなさいと言われたら、今のところボザール・トリオを挙げるだろう。欧米でも日本でも名盤の評価が高い一枚で、優美さと強さが同居している名演だと思う。
イツァーク・パールマン(Itzhak Perlman)は1945年8月31日にイスラエル、テル・アヴィヴに生まれた。テル・アヴィヴ音楽院で学んだ後、彼が13歳のときニューヨークに渡ると、1958年「エド・サリヴァン・ショー」への出演をきっかけに演奏活動を開始。ジュリアード音楽院の教授イヴァン・ガラミアン、ドロシー・ディレイに徹底的に鍛えられた話は余りにも有名である。1964年にレーヴェントリット国際コンクールで優勝。以来、世界の主要なオーケストラとの共演やリサイタルを行っている。その圧倒的なパフォーマンスと実績は、まさにクラシック界を代表するスーパースターと呼ばれるに相応しい。しかし、それを多忙なコンサート・ツアーの間にいかにして保持してゆくかという問題について、パールマンはこんなふうに答えている。
演奏旅行中にはとても充分な練習 ― プラクティス時間なんかありません。そこで、ぼくはインスタント・プラクティスと呼んでいるものをやっています。多くの人は練習に練習を重ねて、それから得るものが余り無いことをやっているようだが、ぼくはどこに問題があるかを知っているので、そこだけをチェックする。どんなひとにも調子のいい日と悪い日があるもんですよ ―― これは人間だから避けることが出来ません。だが、ぼくがやろうと努めていることは、たとえ調子が悪くとも、ある水準以下に下げないってことですね。上手く弾けてる時はいい気分です。上手くいってない時には、なぜそうなのかということを見極めようとするのです。リサイタルの最中に厄介なパッセージに差し掛かっていることを知ると、ここは練習のとき上手くいったんだから、コンサートで上手くやれないこと無いさ、と思い返すんです。ちくしょう!大丈夫できるさ、と全力投球するんですよ。これで上手くゆくんですね。パールマンの演奏がいつどこで行われても、常に完璧そのものなのは演奏中に彼が心の中で行う〝インスタント・プラクティス〟のせいだといっているのである。まことに凄いといわざるを得ない。フランスには古いヴァイオリン音楽の伝統がある。それはベートーヴェンよりもはるか以前にまで遡ることができるが、フランスは主として19世紀から20世紀にかけて、ヴァイオリン音楽に大きな貢献をしてきた。作品でいうとフランク、フォーレ、ショーソン、あるいはサン=サーンス、ドビュッシー、ラヴェルといった作曲者名を挙げるだけで、そのことが明らかになるだろう。フランス芸術というと必ずラテン的な感覚美が問題にされる。それは決して間違ってはいないが、フランスの芸術はさらに国際的な広がりを志向してきたのである。ところがパリは最もフランス的な都会であると同時に、世界でもまれに見る国際的な都市として知られている。そこでフランスの有名な演奏家はもとより、ここでは世界中のヴァイオリニストを聴くことができる。しかも第2次大戦後30年を経た今日、各国のヴァイオリン楽派はこぞって偏狭な地域性をかなぐり捨て、より合理的で高度な演奏を目指して進んでいる。
昔ならともかく、今やフランスのヴァイオリニストだから粋な感覚を売り物にし、ロシアのヴァイオリニストが名技主義的であるといった先入観は、ものの見方を誤らせる危険性があろう。このような状況のなかでフランスは優れたヴァイオリンの音楽と演奏家を生み出してきたわけだが、そこにもっともフランス的な精神が息づいていることと同時に、最も普遍的な芸術が育てられてきたことを見落とす訳にはいかない。そこでフランスのヴァイオリン音楽にしても、その普遍的・国際的な一面が発揮されることになるのは当然である。往年のフランスのオーケストラならではの明るく美しい色彩の世界を心ゆくまで堪能させてくれた、イツァーク・パールマンがジャン・マルティノン指揮パリ管弦楽団と共演したフランス音楽は、その典型とも言えるが、言うまでもなくパールマンはフランスのヴァイオリニストではない。彼は第2次大戦が終結した直後にイスラエルで生まれ、ジュリアード音楽院に留学してイヴァン・ガラミアンに師事、1964年のレヴェントリット・コンクールで優勝したという経歴である。だがここでまず問題なのは彼の経歴や国籍ではなく、その音楽性である。サン=サーンスやショーソンの作品にしても、まずはフランス的であるかどうかということより、単純に音楽としての格の高さを問題にせねばなるまい。とするとパールマンと作品の触れ合いもそこから出発する。当然である。このヴァイオリニストは自らの体質をさらけ出し、ごく自然に、率直に作品に対している。かつてしばしば音楽の造形面における憑依的な崩れがフランス的な洗練という名目によって容認されてきたが、それが仮にフランスの芸術家の手で行われたとしても結果的にフランス音楽の一つの面だけを誇張したことになるのはやむを得ない。さいわいパールマンは現代の演奏家として、そうしたことを認めてはいない。彼の演奏は、譜面に対して正確である。従って造形はあくまでも端正に処理され、表情がどれほど情熱的な場合も感覚的に濁りがない。今やフランスの演奏家といえども、そうしたことを求め実行しているのであるから、結果的にパールマンのフランス音楽がフランス的であるか無いかというより、音楽的であろうとするのは当然である。あえていえば彼のフランス音楽は、その国際性と現代性において、全くフランス的と形容して良いのである。こうした場合、これらの作品もその厳しさとたくましさに耐えて、いっそう底光りのする真価を発揮するが、マルティノン指揮のパリ管弦楽団が、そうしたパールマンに対して、あらゆる意味で見事な同質性をもって融合していることは、いわばパールマンのフランス音楽における正当性の証明である。
ウラディーミル・アシュケナージは、エリザベート女王コンクールで優勝した後、1958年にアメリカへの演奏旅行を行い、西欧各国でも出演している。1965年春に初来日して演奏旅行を行なった。ステージに立った彼は、168センチ59キロという、日本人でも小柄の方で、ピアノの傍らに立っておじぎをする様子は、何か初々しく、詩人のような繊細な雰囲気が立ち込めていた。しかし、いったんピアノを弾き始めると、そのよく響くタッチと素晴らしい技巧で、小さなアシュケナージの姿が俄に大きくなってしまうような印象を与えられた。彼の演奏は、ヴィルトゥオーソ的なテクニックと、その風貌からも伺われる詩人的な感性の表出のバランスが絶妙を極めていた。音楽の心を全身に漲らせた類稀なピアニストの一人だったといえる。アシュケナージは圧倒的に広いレパートリーを持っており、そして、彼は大変な努力家で、1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったと聞いています。デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。バッハからロマン派、近代に及ぶこれらのレパートリーで目立つことは、アシュケナージは本当の意味での現代的なピアニズムを先天的に身に着けているということである。彼のメカニックは巧緻だが、その技巧に支えられた詩的表現は、フレージングとダイナミズムの幅広いニュアンスに独特のものを見せている。名手を数多く輩出したロシアのピアニストの伝統と西欧的なスタイルが、彼の中に見事なバランスを持って融合されているのである。彼を単に感受性に富んだピアノの詩人と見なすことは出来ない。アントン・ルービンシュタイン以来、セルゲイ・ラフマニノフ、ヨゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・レヴィン、ウラディミール・ホロヴィッツ、スヴァトスラフ・リヒテル、エミール・ギレリスなどピアノ史上に不朽の名声を残した大演奏家を生んだロシアの伝統が、アシュケナージによって更に新しい面を見せてくれたといえよう。アメリカの評論家ハロルド・チャールズ・ショーンバーグは、ニューヨーク・タイムズで長年活躍した高名な音楽評論家。日本でも「ピアノ音楽の巨匠たち」をはじめ著書が翻訳されているが、当時次々と西欧に紹介されたソ連のピアニストの中で、アシュケナージを特に高く評価し、
彼はギレリスの確実さと、リヒテルの想像力を併せ持った詩的ピアニストだといっていたところに、アシュケナージの音楽的な本質を巧みに要約した、ニューゲイト・キャレンダーの筆名で同紙上で覆面ミステリ批評家としても活動していた彼ならではの評言だといえよう。
ショパン国際ピアノコンクールで2位となり、エリーザベト王妃国際コンクールで優勝したウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy)は、英EMIや露メロディアからレコードも発売されるなど音楽院在学中から国際的な名声を確立します。1965年には来日も果たし、さらに英デッカと専属契約を結んで着々とレコーディングを行うなど、活躍の場の国際化とともに政府の干渉や行動制限が増えたため、1974年にはソ連国籍を離脱してアイスランド国籍を取得しています。この時期のアシュケナージの勢いにはすごいものがありました。主にデッカ・レーベルに膨大な録音をしているアシュケナージは、モーツァルトのピアノ協奏曲全集、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、同ピアノ協奏曲全集はゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団と、ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との2種、ショパンのピアノ曲全集、シューマンのピアノ曲全集、ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどのほか、アンサンブル・ピアニストとしてもヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、ピアノ・トリオ、リートの伴奏などにも参加し、驚異的とも言える非常に膨大なレパートリーを誇っている大ピアニストである。大作曲家のレアな楽曲はもちろんのこと、マイナーな作曲家の楽曲も数多くレコーディングしており、そうした音楽的な好奇心に加え、世界中のオーケストラの指揮台に登って個々の音楽家と無理なくコラボレーションしていく姿勢には定評がある。そこにはソリストとして、様々な ― キリル・コンドラシン、ハンス・シュミット=イッセルシュテット、ユージン・オーマンディ、イシュトヴァン・ケルテス、ゲオルグ・ショルティ、ロリン・マゼール、アンドレ・プレヴィンといった名指揮者たちや有力オーケストラと共演してきたアシュケナージならではの観察眼やノウハウが活かされているに違いない。弾き振りも期待された、NHK交響楽団とは1975年に初共演。2004〜2007年には音楽監督を務め、現在では桂冠指揮者として定期的に共演を重ねている。
ウラディーミル・アシュケナージは持ち前の明るく口当たりの良いタッチで、良い意味で万人向きのピアノである。打鍵の粒が揃った演奏で、実に細部まで美しく彫琢された、現代的なすこぶる明快な演奏で、メロディラインははっきり聴こえる。磨きぬかれた輝かしい音色、ニュアンスに富んだ表現力、優れた音楽性、筋のよい安定したテクニックと、あらゆる面において現代のピアニストの水準を上を行く演奏を聴かせています。なかでも木の香り漂う温かいベーゼンドルファーの重心の低い響きと、その自然なタッチのもとに歌うシューマンの世界は格別、他のピアニストではけっして得られない独特の世界。シューマン作品のロマンティックな持ち味が、アシュケナージの抒情に富む表現によって写し出されている様な演奏です。音楽の都ウィーンの気品あるピアノ。ベーゼンドルファーのインペリアルが使用されており、重厚な音色を堪能できます。ベーゼンドルファーのピアノはフランツ・リストの激しい演奏に耐え抜いたことで多くのピアニストや作曲家の支持を得、数々の歴史あるピアノブランドが衰退していく中、その人気を長らくスタインウェイと二分してきた。かつてベーゼンドルファーのピアノは1980年までショパン国際ピアノコンクールの公式ピアノの一つであった。ベーゼンドルファーのピアノを特に愛用したピアニストとしてはヴィルヘルム・バックハウスが有名。ジャズ界においては、オスカー・ピーターソンが「ベーゼン弾き」としてよく知られている。木の香り漂う温かい響きが特色のメーカー。オーストリア・ウィーンで製造。ロンドン、デッカレーベルはベーゼンドルファーと契約しているようで、ラドゥ・ルプー、ホルヘ・ボレット、アンドラーシュ・シフ、アリシア・デ・ラローチャ、パスカル・ロジェ、ジュリアス・カッチェンなどはシューベルトの『ピアノ・ソナタ全集』やハイドンの『ピアノ・ソナタ』などウィーン古典派の作品を中心にベーゼンドルファーを弾いている。一方、ルドルフ・ブッフビンダーやシュテファン・ヴラダー、ティル・フェルナーなどの新しい若い世代のウィーンのピアニストはスタインウェイを弾いていて、あえて伝統的なベーゼンドルファーの使用を避けているようだ。音色は至福の音色と呼ばれる。ピアノ全体を木箱として鳴らす設計で、ズーンと太く伸びやかに鳴り響く低音域が魅力。スタインウェイを金管楽器に例えるなら、こちらは木管楽器といった印象でしょうか。ナチュラルホルンが倍音を響かせて鳴り響くような音の豊かさ、魅力がある。弱点は大ホールで演奏する際のパワー不足。
圧倒的に広いレパートリーを持ち、細部まで丁寧に演奏していること、そしてその結果として演奏の水準にほとんどムラがないことは特筆すべきことです。素晴らしいテクニックの持ち主だが、それをひけらかすことなく難しい作品もいとも容易く弾きこなしてしまう。それがウラディーミル・アシュケナージだ。アシュケナージは大変な努力家で、1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったようだ。DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。英デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。1937年7月6日にソ連のゴーリキーで生まれ、幼少からピアノに才能を発揮。ショパン国際ピアノコンクール、エリザベート王妃国際コンクール、そしてチャイコフスキー国際コンクールと、ピアノコンクールの3大難関コンクールで優勝、または上位入賞を果たした。1955年にショパン国際ピアノコンクールで2位となりますが、このときアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことは有名な話。ちなみに優勝したのは開催国ポーランドのアダム・ハラシェヴィチ。その後モスクワ音楽院に入学し、翌1956年、エリーザベト王妃国際コンクールで優勝、活躍の場を一気に世界に広げ、音楽院在学中から国際的な名声を確立し、英EMIや露メロディアからレコードも発売された。1960年にはモスクワ音楽院を卒業し、1962年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場してイギリスのジョン・オグドンと優勝を分け合います。アシュケナージがデッカと専属契約を結んで初めて録音をおこなったのは、チャイコフスキー国際コンクール優勝の翌年、1963年のことでした。1963年にはソ連を出てロンドンへ移住、まず3月に録音したのは亡命作曲家ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」で、指揮はソ連からの亡命指揮者であるアナトール・フィストゥラーリが受け持ち、活動の場の国際化とともに政府の干渉や行動制限が増えたため、ほどなく亡命することとなるアシュケナージがソロを弾くという亡命尽くしの録音でした。翌月には同じくロンドン交響楽団とチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を録音しています。ここでの指揮は当時破竹の勢いだったロシアの血をひく指揮者ロリン・マゼールが担当しています。この年の9月には、ツアーに来ていたキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルという祖国のチームとの共演でラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を録音しており、この年のうちにアシュケナージは3つのロシアの有名協奏曲をロシアつながりの指揮者との共演で録音したことになります。
翌年からはソロの録音も本格化し、以後半世紀に渡って数多くの録音を英デッカで行うこととなります。ピアノ音楽の殆んど全てに及ぶほど、彼の録音したピアノ曲のレパートリーは幅広い。着々とレコーディングを行う一方、世界各国でコンサートをおこない、1965年には初来日も果たすなど、この時期のアシュケナージの勢いには凄いものがありました。その後、1970年代に入るとピアニストとしての活動に並行して指揮活動も行うようになり、1974年にはソ連国籍を離脱してアイスランド国籍を取得してからは、オーケストラ・レコーディングにも着手するなど、その指揮活動は次第に本格的なものとなって行きます。クリーヴランド管弦楽団との鮮烈なリヒャルト・シュトラウスやプロコフィエフのバレエ音楽「シンデレラ」、コンセルトヘボウ管弦楽団との美しいラフマニノフなど、ウラディーミル・アシュケナージの指揮の腕前がピアノのときと同じく見事なものであることを示す傑作が数多くリリースされた。もちろん彼の演奏するロシア音楽の素晴らしさは特筆すべきものがある。ピアニストとして傑出したキャリアを誇るだけでなく、アーティストとして多彩な活動を積極的に展開し、現在はアイスランド交響楽団、シドニー交響楽団及びNHK交響楽団の桂冠指揮者、スイス・イタリアーナ管弦楽団の首席客演指揮者に就任。特に桂冠指揮者を務めるロンドンのフィルハーモニア管弦楽団との関係は深く、英国各地に加え世界中の無数のツアーで指揮台に立ち続けている。EUユース管弦楽団の音楽監督(2000〜2015)、シドニー交響楽団の首席指揮者兼アーティスティック・アドバイザー(2009〜2013)、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、そしてNHK交響楽団の音楽監督としても活躍。首席客演指揮者を務めたクリーヴランド管や首席指揮者兼音楽監督を務めたベルリン・ドイツ交響楽団とも深い繋がりを保ち続け、定期的に招かれている。
1982年2月22〜24日ニューヨーク、RCAスタジオ録音。
YIGZYCN
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