気迫たっぷりにグイグイと音楽を進めていくダイナミックな音楽が印象的。 ― ムーティが若き日に録音したチャイコフスキーの交響曲はどれも高水準な演奏で一貫性が強い。フィルハーモニア管弦楽団との交響曲はどれも熱演で、気迫たっぷりにグイグイと音楽を進めていくダイナミックな音楽が印象的。アビーロード・スタジオで収録されていますが、ティンパニが克明に捉えられているのがまず特徴的。それが恣意的なものでなく、確信に満ちた表現の結果として迫るので説得力が絶大。ブラスとティンパニの角の立った音が音楽を否応なく引き締める。終結の畳み掛ける迫力は唖然。容赦ないダイナミズムは、セッション録音の冷たさなど微塵も感じさせない濃密で熱い演奏です。ムーティならではの見事なカンタービレの感覚が生み出す旋律美も魅力的で、輝かしい表現は聴きものとなっている。1977年録音の「第3番」はチャイコフスキーの初期交響曲とあって、地味な印象を払拭するに十分過ぎる名演奏。「第3番」の全5楽章という構成と、間延びしていて交響曲としてのまとまりという点でいささか分が悪い曲とは言え、ロシア音楽というよりメンデルスゾーン的なメルヘンチックな雰囲気が漂っている。ムーティの体質にあっていたことで、いたるところでチャイコフスキーらしい美しいメロディが顔を出すので、非常に親しみやすい。甘い導入から活力ある展開へ。フレーズが力感を伴い歌われるのが心地よい。民謡を使ったこの曲の歌謡性はイタリア人ムーティにぴったりだ。規律が守られた軍隊のような心地よさ。終結に向かいドンドン加速しワクワク感が爆発する。
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ヨーロッパの若手ピアニストの登竜門の一つとされ、スイスで開かれていた「クララ・ハスキル国際ピアノコンクール」で、さいたま市出身の大学生でプロとして演奏活動も行っている藤田真央さんが優勝しました。「クララ・ハスキル国際ピアノコンクール」は、20世紀前半に活躍したルーマニア出身のピアニスト、クララ・ハスキルをしのんで、2年に1度スイス西部のヴヴェイで開かれ、若手ピアニストの登竜門の一つとされています。ことしは東京音楽大学の1年生でプロとして演奏活動も行っている藤田真央さんが、ほかの2人のピアニストとともに決勝に進み、昨日25日、観客や審査員の前でモーツァルトのピアノ協奏曲など2曲を演奏しました。このあと行われた授賞式で、審査の結果、藤田さんが優勝したことが発表され、藤田さんに賞状などが贈られました。藤田さんはNHKの取材に対し「大人の部の国際コンクールに挑戦するのは初めてで、経験がないなか優勝できてとてもうれしいです。受賞に恥じないよう精進したいです。音色の美しさにこだわった演奏をしていきたいと思います」と話していました。「クララ・ハスキル国際ピアノコンクール」で日本人が優勝するのは藤田さんで3人目です。今日では帝王とも呼ばれるムーティが本盤をはじめとするメンデルスゾーンの3曲の交響曲を録音したのは、まだ30歳代の前半ですが当時の手兵だったフィルハーモニア管弦楽団は低迷期だったと言われる。録音当時はニュー・フィルハーモニア管弦楽団と名乗っていた名門も、ここでは優れたパフォーマンスを示している。時として情緒豊かにメロディを鳴らし、時として熱くオーケストラを語らせるイタリア人ムーティの自在な、しかし落ち着いたタクトがこの曲想に良くあっている。ロシア指揮者以外で、これほど終始緊張を持続させてドラマチックに描ききった指揮者がいるでしょうか。最初の二つの交響曲では国民楽派的な音楽作りをしていたのですが、そこからの脱却を目指したのがこの第3番の交響曲でした。しかし、「思いはあっても力は及ばず」という事は否定できず、結果として非常に中途半端な作品になってしまいました。休符の多様が間延びする演奏となってしまう録音が多い第1楽章は、長い序奏部から来るべきドラマの予兆を孕み、夜露を思わせる色彩も印象的。主部の突入の仕方は、それまでの流れをばっさり断ち切るような突進力を発揮。こんなに音楽が沸き立っては、しっとりとした第2主題へどうやって繋げるかと思うと、これがセンスの塊としか言いようなの意見事な移行。その第2主題後の疾走の鮮やかさと力感の高め方は、ムーティの最良の資質を出し切った箇所として忘れられません。オケの鉄壁なアンサンブルにもご注目。終楽章は冒頭から弦楽器群が縦の線を異様なまでに完璧に揃えながら突進を続ける様に鳥肌もの。第1エピソードを管楽器が奏でている最中も弦楽器群が決死の覚悟でそれを支え、緊張感は更に高まります。そして驚異のコーダがこの曲の極めつけの名演です。このオーケストラの持つ弦の柔らかさと緻密なアンサンブル、マイルドな金管といった個性はカラヤン以来の特徴でしたが、ナポリ生まれの熱血漢というイメージをまったく感じさせない、流麗でなめらかな演奏となっている。ムーティは在任期間、それらに磨きをかけ、さらに敏感なまでのリズム感と強靭なカンタービレを持ち込んで素晴らしい成果を残した。それはクレンペラー亡き後にムーティを後任として選出した、当時のニューが付いていた頃のフィルハーモニア管弦楽団が、歌心あふれる演奏を取り戻す、思えば極めて大胆な決断に
クレンペラーはユダヤ系でしたが戦前にカトリックに改宗しています。それが最晩年は教会を離れることを公言し、亡くなった時にはユダヤ教徒として葬られているとききます。「クレンペラーとの対話」の中でも民族的なアイデンティティーに目覚めたようなことを語っています。メンデルスゾーンもユダヤ系だったので第三帝国の時代には存在が抹殺されかかりました。スコットランドの宮殿跡で着想を得たといわれるこの作品は、いかにも物悲しいしかも美しい旋律で始まる。交響曲第3番は作曲者がイギリス、スコットランドへ旅行した際の当地の風物から着想を得て作りました。メンデルスゾーンは1829年5月にロンドンのフィルハーモニー協会の招きによりイギリスへ渡り、スコットランドへも旅行しました。その折にメアリー・スチュアートの居城等のホリドール遺跡も立ち寄り感銘を受けました。そして礼拝堂の中で新しい交響曲の冒頭部分を構想しました。具体的には翌年から作曲をはじめ、完成までは約12年かかったので第4番「イタリア」よりも後に完成しました。初演は1842年3月3日に作曲者の指揮で、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により行われました。そしてメアリ女王の子孫、ヴィクトリア女王に献呈されています。なおメンデルスゾーンはそれから約5年後の1847年には世を去っています。激しく盛り上がる部分もあるが、全体としては静かに昔の物語を聴いているような雰囲気の曲だ。メンデルスゾーン(1809~1847)の1833年がオリジナル、その後の改訂を受けて1838年の作品が「イタリア」交響曲。順番で言うと5つの交響曲の3番目で、ひとつ繰り上がります。この曲の場合、後の改訂版の初演が他より後だったり、それも不満だったメンデルスゾーンが出版を引っ込めてしまったから余計に番号が前後した。早死にしなかったら、どんな「イタリア交響曲」に仕上げていたことでしょうか。やはり、似つかわしくはないというのは事実だ。その意味でも、クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏は、この曲のコンセプトに沿いながら、堂々とした風格のロマンを導き出したということで、〈青春の音楽〉としてのこの曲の側面からは離れた別格の演奏だが、代表的な録音としての評価にふさわしい。
1977年6月24,25日、7月20日ロンドン、アビー・ロード第1スタジオにて、プロデューサー、エンジニア:ジョン・モードラー、ネヴィル・ボイリングによるステレオ録音。
YIGZYCN
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