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通販レコード→GB WHITE & BLACK STAMP DOG ORIGINAL, SQ Quadraphonic 盤

生き生きとしたプレヴィンの棒が誘う夏の夜のファンタジー

アンドレ・プレヴィンは「夏の夜の夢」を2回録音しています。2回目の1985年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との録音が名盤として名高いですが、1回目のロンドン交響楽団との録音の本盤も児童合唱団を使うなど独自の解釈と若々しい演奏の魅力で、プレヴィン・ファンの間でも意見の分かれるところです。レコードの希少価値では1回目のEMI版が上回り、特に初期盤のB/W切手は貴重。TASリスト掲載オーディオファイル盤です。

お馴染みの名曲がスインギーなジャズに変身し、一層の魅力を獲得している。若きアンドレ・プレヴィンとContemporaryの顔であるドラマー、シェリー・マンのトリオがヒット・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(My Fair Lady)からのポップチューンを見事な100%ジャズに変身させたのが1956年。このアルバムのジャケットに記された名義は〝Shelly Manne & his Friends〟となっている。その右下に小さく〝Andre Previn and LeRoy Vinnegar〟と記されている。
ルロイ・ヴィネガーはシェリー・マン・グループのベーシストであった。マンの文句の付けようのないスウィング感、ドライブ感は最高。そしてピアノのプレヴィンのピアノが大きな役割を担っている。そのプレイはハンプトン・ホーズに負けない滑り、これまた素晴しい。もちろん、ヴィネガーの重要性も低くはない。スウィンギーで、ドラマティックなピアノ演奏、さらにはそのピアノを盛り立てて乗せていくドラムとベースが実にスリリングな演奏に仕上げているピアノ・トリオ盤である。
ライナーによると、プレヴィンは「1929年ドイツ ベルリンの生まれでヨーロッパで音楽の勉強を始め、10歳のときにアメリカに渡りアート・テイタムを聴いてジャズに目覚めた」とある。
ウエスト・コーストを代表するジャズ・ピアニストとして知られたプレヴィンは、1962年セントルイス交響楽団を指揮して、クラシックの分野における栄光の道を歩み始め1968年にはロンドン交響楽団の音楽監督を勤めるなど着々とキャリアを積み、大成功を収めた音楽家である。
さて、夢幻的な美しさに彩られたメンデルスゾーンの劇付随音楽『真夏の夜の夢』(A Midsummer Night's Dream)。プレヴィンは精細にして柔軟性に富んだ指揮で、全編を詩情と幻想性豊かな音楽に仕上げています。プレヴィンは才能の豊かな人で女にももてる。チヤホヤされたら録音が進まないと危惧したわけではなかろうが、通常の女声合唱によらず児童合唱(フィンチリー・チルドレンズ・ミュージック・グループ)を起用し、新しい感動を生み出しています。
本盤の表紙と同じ妖精画をオットー・クレンペラー盤で使っている場合もあり、取り違えやすいが、その内容を比べれば、益々音楽そのものの質すらも引き上げてしまったクレンぺラーの素晴らしさを認識させられる。
しかし、オーケストラの瑞々しいサウンドと、児童合唱を起用したこと、そして英語による歌唱がこの作品に相応しいと感じられる。プレヴィンは「夏の夜の夢」を2回録音しています。2回目の1985年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのオランダPHILIPSへの、デジタル録音が名盤として名高いですが、1回目のロンドン交響楽団との録音の本盤も児童合唱団を使うなど独自の解釈と若々しい演奏の魅力で、プレヴィン・ファンの間でも意見の分かれるところです。
この曲の推薦盤としてはウィーン・フィル盤をお薦めするが、青春の恋愛が反映されている本盤をわたしは捨てない。このレコードの魅力は、重厚一筋のオーケストラからだろうと、靭やかさを引き出せるのは彼ならでは。その反面となるのが、得手・不得手がとても分かりやすい指揮者のようです。ロンドン響時代のプレヴィンこそ、若き日にジャズ・ピアニストとして培ったリズム感と、ハリウッド映画の作曲を通して身に付けた音楽の伝わり方のわかり易さと手際良さ、そして指揮法の師であるピエール・モントゥー譲りのオーケストラを自在に操るテクニックとが一気に開花した絶頂期にあった。この音楽に浸っている間、しばし浮世の憂さを忘れられること請け合いです。
  • Record Karte
    • リリアン・ワトソン(ソプラノ)、デリア・ウォリス(メゾ・ソプラノ)、フィンチリー・チルドレンズ・ミュージック・グループ、ロンドン交響楽団、アンドレ・プレヴィン(指揮)。
    • 1976年12月ロンドン、キングズウェイ・ホール録音。クリストファー・ビショップのプロデュース、クリストファー・パーカーによる録音。

CDはアマゾンで

メルデンスゾーン:真夏の夜の夢 全曲
プレヴィン(アンドレ)
ワーナーミュージック・ジャパン
2013-01-23


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優美、華麗、明朗。史上もっともチャーミングな曲を書いたモーツァルトに近い位置にいながら、モーツァルトと決定的に違うのは、疑いを知らない屈託のなさであり、天性の幸福感だろう。モーツァルトの音楽を際立たせていた「美の内側に秘められた翳り」というものは、メンデルスゾーンの音楽にはない。内面的な美しさと外面的な美しさが、表裏なく一体となって、素直に表現されている。劇付随音楽「真夏の夜の夢」は、そんなメンデルスゾーンの特質が最も顕著に示された、彼の代表作である。この《真夏の夜の夢》は、ウィリアム・シェークスピアが、1595年頃に書いた5幕からなる喜劇で、幻想とユーモアの入り混じった実に愉快な劇です。若い頃から読書家として名高い、メンデルスゾーンがこの戯曲をシュレーゲル及びディークの独訳で読んだのは1826年 ― 17歳の頃で、姉のファニー・ヘンゼルとの演奏を前提に、彼は早速興の赴くままにピアノ連弾用の序曲を作曲し、のちにオーケストラに編曲しました。しかし、この時に作曲されたのは全13曲のうちの序曲だけで、後の12曲は、1843年(34歳)にプロシア国王フリードリッヒ・ウィルヘルム4世の命により作曲されたのでした。初演は、《序曲》だけが1840年「イギリス」、全13曲は、1843年の10月14日に国王の離宮ポツダムの新宮殿で行われました。劇の付随音楽というのは、劇の効果を高めるために作曲された音楽のことで、この《真夏の夜の夢》をはじめ、ビゼーの《アルルの女》、グリーグの《ペール・ギュント》などは、その代表的な作品です。劇は、アゼンスの森を舞台とした真夏の夜の物語です。尤も、この《真夏の夜 Mid Summer》というのは、日本でいう一番暑い盛りの《真夏》ではなく、ヨーロッパでは、1年中で最も昼の長い夏至(6月21日頃)の頃で、この夏至に近い聖ヨハネ祭の前夜に、幻想的ないろいろな怪異が起こるという伝説があるのです。また、劇中には「五月祭の花を摘もうとしてこの森に来たのだろう」という台詞もあることから、夏至よりもさらに前の季節であると推察される。ギリシャのアテネの近郊アゼンス森のシシアス公と、アマゾンの女王ヒポリタとは、熱烈な恋愛の末に結婚することになっています。それに刺激されてか、ライサンダーとハーミア、デメトリアスとのレナも恋愛ごっこに忙しく、妖精の王オベロンも、女王のティターニアにご執心、そこへ悪戯者のパックが登場して滑稽な悶着を引き起こすといった形で、もちろん、最後は王と女王は円満な関係に落ち着き、めでたしめでたしで幕となります。
序曲を聴いて感銘を受けたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の勅命により、劇として上演することになった《真夏の夜の夢》の音楽は、ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日〜1847年11月4日)の全作品を通じて、最も一般的な名作の一つです。数多い作曲家の中で、物心両面において彼ほど幸福な生活を送ったひとは他に見当たりません。彼の父は、ドイツのハンブルクの富裕な銀行家でしたから、幼いときから良師について音楽を学び、その一生を、ほとんど経済的な苦しみを受けることなく過ごし、有り余る自分の才能を存分に伸ばすことが出来ました。不具の身に鞭打ちながら、暗く重い運命を背負いながら生活しなければならなかったベートーヴェンや、本貧のうちに寂しく死んでいったシューベルトの生涯を思うとき、メンデルスゾーンの生涯を〝幸福の権化〟といっても、敢えて言い過ぎではないでしょう。メンデルスゾーンの音楽が、他の作曲家に見られないほど、華麗で、優雅で、軽快で、爽快なのは、彼のそうした苦労のない生活感情の現れなのです。そこには、満ち足りた幸福の中に裏打ちする一抹の憂愁はあるにせよ、ベートーヴェンやチャイコフスキーの音楽に見られる、あの、のっぴきならない暗さや、思考的な暗さは微塵も伺えません。それというのも、彼が人生の明るい面のみを経験し、深刻な暗い面にはほとんど接したことがなかったからです。彼の、こうした音楽特性は、このレコードの《真夏の夜の夢》の音楽をお聞きになれば、すぐにお分かりになるでしょう。
アンドレ・プレヴィンの出生名はドイツ名でアンドレアス・ルートヴィヒ・プリヴィン(Andreas Ludwig Priwin)といい、アンドレ(André)はフランス風の名乗りである。1929年4月6日、ドイツ生まれ。ベルリンのユダヤ系ロシア人の音楽家の家庭に生まれ、ベルリン高等音楽院でピアノを学び、一時期ナチス政権を逃れて9歳でパリ音楽院に入学。1938年から家族に連れられアメリカへと渡り、1943年に合衆国市民権を獲得した。10歳代の頃からジャズ・ピアニストとして演奏し、1940年代、当時黎明期にあった初期モダン・ジャズのビバップ・スタイルに影響を受けたプレイで「天才少年」として注目され、ライオンのイラストが可愛いピアノ・トリオでのアルバム『キング・サイズ』(King Size, 1958年)、ダイナ・ショアと共演した『ダイナ・シングス、プレヴィン・プレイズ』(Dinah Sings Previn Plays, 1960年)。特にシェリー・マンと組んだミュージカルのジャズ化アルバム、ヒズ・フレンズでの『マイ・フェア・レディ』(Modern Jazz Performances of Songs from My Fair Lady, 1956年)などが代表盤に挙げられる。キャリア初期のロサンゼルス時代にはハリウッドの大手映画会社MGM専属となり、多くの映画において映画音楽の作曲や編曲、音楽監督を務めている。彼のその多彩な活動の当初は映画音楽の分野において頭角を現し、4回ものオスカー賞を獲得する傍ら、ピエール・モントゥーにも師事し指揮を学んで、1963年には指揮者としてもデビューします。『キス・ミー・ケイト』(1953年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973年)など時代の好みを反映させ、ハリウッドの著名人にはよくあるようにプレヴィンは結婚回数の多い人物であり、音楽家、男としての興味の衰えない姿を見せる存在だ。クラシック音楽の指揮者としては、その後アメリカ、イギリスのオーケストラ音楽監督を歴任し着実なキャリアを重ねた。管弦楽曲の演奏・録音が活動の中心であり、とりわけスラヴ系の音楽とイギリス・アメリカ近現代の音楽の録音で評価を得てきた。近年では、現在ウィーン・フィルを振って最もウィーン・フィルらしさを引き出させるなど、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との間に厚い信頼関係を築きあげています。クラシック音楽における自作品としては、ウラディーミル・アシュケナージへの献呈作『ピアノ協奏曲』やハインリヒ・シフに献呈された『チェロ協奏曲』、2002年に当時の新妻アンネ=ゾフィー・ムターのために作曲した『ヴァイオリン協奏曲』、ジョン・ウィリアムズのために書かれジャズバンドも加わる1971年の珍しい『ギター協奏曲』、金管アンサンブルでは『金管五重奏のための4つの野外音楽』、また声楽のジャンルでは最初のオペラとなった『欲望という名の電車』(1998年にサンフランシスコにて初演)や歌曲集『ハニー・アンド・ルー』、室内楽では『オーボエ、ファゴット、ピアノのための三重奏曲』などが挙げられる。一方ではジャズ・アルバムも制作し、また自らが作曲を手掛けた新作のオペラを録音するなどアグレッシヴな活動を展開。2009年から2012年まで、NHK交響楽団の首席客演指揮者に迎えられた。2019年2月28日、米ニューヨークの自宅で死去。89歳だった。