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天下無双、伸びやかでひたすら美しいカンタービレ。 ― リッカルド・ムーティが若き日に録音した3つのメンデルスゾーンの交響曲はどれもみずみずしく高水準な演奏です。特にこのスコットランドは伸びやかで美しいカンタービレは他に例の無い見事なものとして話題になりCDでも評判となりました。ムーティの30歳代の演奏だけに、3曲ともきわめて若々しく、それがメンデルスゾーンの初期ロマン派作風にふさわしい。この安定感と彫琢豊かな構築の素晴しさはまさに巨匠級の素晴しさで、普遍的価値を誇る若きムーティの記念碑的名演。『イタリア』での歌いぶりは、さすがイタリア人らしい明るさと弾みがあるし、『スコットランド』も旋律を存分に歌わせた、スケール感のある立派な表現。特に交響曲第3番イ短調『スコットランド』での伸びやかでひたすら美しいカンタービレは他に例の無い見事なものとして印象的。ムーティの新鮮さ、それが尚更メンデルスゾーンの「スコットランド」としては構築力に疑問があり、音構造の再現も軽やかに過ぎていて弱点に働いている。「イタリア」は初発売当初から好評で、いわゆる名盤の代表選手のようなものですが、時間の経過とともに「名盤ガイド」から消え去っていった演奏の代表格です。アルトゥーロ・トスカニーニさえも悩ませたテンポの選択にも自身が漲り、しかも自己顕示な嫌らしさを出さずに作品自体の活力を内面から湧き上がらせる手腕は絶品。これほど充実しきった演奏が、一過性の名演と判断を下されるのですから、音楽芸術とは不思議なものである。
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ヨーロッパの若手ピアニストの登竜門の一つとされ、スイスで開かれていた「クララ・ハスキル国際ピアノコンクール」で、さいたま市出身の大学生でプロとして演奏活動も行っている藤田真央さんが優勝しました。「クララ・ハスキル国際ピアノコンクール」は、20世紀前半に活躍したルーマニア出身のピアニスト、クララ・ハスキルをしのんで、2年に1度スイス西部のヴヴェイで開かれ、若手ピアニストの登竜門の一つとされています。ことしは東京音楽大学の1年生でプロとして演奏活動も行っている藤田真央さんが、ほかの2人のピアニストとともに決勝に進み、昨日25日、観客や審査員の前でモーツァルトのピアノ協奏曲など2曲を演奏しました。このあと行われた授賞式で、審査の結果、藤田さんが優勝したことが発表され、藤田さんに賞状などが贈られました。藤田さんはNHKの取材に対し「大人の部の国際コンクールに挑戦するのは初めてで、経験がないなか優勝できてとてもうれしいです。受賞に恥じないよう精進したいです。音色の美しさにこだわった演奏をしていきたいと思います」と話していました。「クララ・ハスキル国際ピアノコンクール」で日本人が優勝するのは藤田さんで3人目です。今日では帝王とも呼ばれるリッカルド・ムーティが本盤をはじめとするメンデルスゾーンの3曲の交響曲を録音したのは、まだ30歳代の前半ですが当時の手兵だったフィルハーモニア管弦楽団は低迷期だったと言われる。録音当時はニュー・フィルハーモニア管弦楽団と名乗っていた名門も、ここでは優れたパフォーマンスを示している。時として情緒豊かにメロディを鳴らし、時として熱くオーケストラを語らせるイタリア人ムーティの自在な、しかし落ち着いたタクトがこの曲想に良くあっている。「スコットランド」は終始落ち着いたテンポで作品の内面をじっくり見つめながら、この曲に随所に鏤められた魅力的なメロディをたっぷりと鳴らした44分余りの演奏で、良く研究したうえで仕上げの丁寧な指揮をする若いムーティが正面から堂々と向き合っている姿勢が見て取れる。このオーケストラの持つ弦の柔らかさと緻密なアンサンブル、マイルドな金管といった個性はヘルベルト・フォン・カラヤン以来の特徴でしたが、ナポリ生まれの熱血漢というイメージをまったく感じさせない、流麗でなめらかな演奏となっている。ムーティは在任期間、それらに磨きをかけ、さらに敏感なまでのリズム感と強靭なカンタービレを持ち込んで素晴らしい成果を残した。それはオットー・クレンペラー亡き後にムーティを後任として選出した、当時のニューが付いていた頃のフィルハーモニア管弦楽団(1964年に楽団の名誉総裁に就いたクレンペラーの指揮によるベートーヴェンの交響曲「第九」から始動し、翌年にはイーゴリ・ストラヴィンスキー指揮による自作自演プログラムほか意欲的な演奏活動を展開。クレンペラー引退間近にはクルト・ザンデルリンクが首席客演指揮者に就き、その後、ムーティが常任指揮者・音楽監督を歴任。)が、歌心あふれる演奏を取り戻す、思えば極めて大胆な決断に応えた。1977年より再びフィルハーモニア管弦楽団として活動を継続。2008年に首席指揮者に就任したエサ=ペッカ・サロネンと集大成ともいえる活発な演奏会を繰り広げている。
オットー・クレンペラーはユダヤ系でしたが戦前にカトリックに改宗しています。それが最晩年は教会を離れることを公言し、亡くなった時にはユダヤ教徒として葬られているとききます。「クレンペラーとの対話」(ピーター・ヘイワース編)の中でも民族的なアイデンティティーに目覚めたようなことを語っています。メンデルスゾーンもユダヤ系だったので第三帝国の時代には存在が抹殺されかかりました。スコットランドの宮殿跡で着想を得たといわれるこの作品は、いかにも物悲しいしかも美しい旋律で始まる。交響曲第3番は作曲者がイギリス、スコットランドへ旅行した際の当地の風物から着想を得て作りました。メンデルスゾーンは1829年5月にロンドンのフィルハーモニー協会の招きによりイギリスへ渡り、スコットランドへも旅行しました。その折にメアリー・スチュアートの居城等のホリドール遺跡も立ち寄り感銘を受けました。そして礼拝堂の中で新しい交響曲の冒頭部分を構想しました。具体的には翌年から作曲をはじめ、完成までは約12年かかったので第4番「イタリア」よりも後に完成しました。初演は1842年3月3日に作曲者の指揮で、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により行われました。そしてメアリ女王の子孫、ヴィクトリア女王に献呈されています。なおメンデルスゾーンはそれから約5年後の1847年には世を去っています。激しく盛り上がる部分もあるが、全体としては静かに昔の物語を聴いているような雰囲気の曲だ。メンデルスゾーン(1809~1847)の1833年がオリジナル、その後の改訂を受けて1838年の作品が「イタリア」交響曲。順番で言うと5つの交響曲の3番目で、ひとつ繰り上がります。この曲の場合、後の改訂版の初演が他より後だったり、それも不満だったメンデルスゾーンが出版を引っ込めてしまったから余計に番号が前後した。早死にしなかったら、どんな「イタリア交響曲」に仕上げていたことでしょうか。やはり、似つかわしくはないというのは事実だ。その意味でも、クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏は、この曲のコンセプトに沿いながら、堂々とした風格のロマンを導き出したということで、〈青春の音楽〉としてのこの曲の側面からは離れた別格の演奏だが、代表的な録音としての評価にふさわしい。
1975年10月1,2日ロンドン、キングズウェイ・ホールにて、プロデューサー、エンジニア:ジョン・モードラー、ネヴィル・ボイリングによるステレオ録音。初発は1976年。
GB EMI ASD3184 リッカルド・ムーティ メンデルスゾーン…
GB EMI ASD3184 リッカルド・ムーティ メンデルスゾーン…

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